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 ある朝 掃除機をかけながら、ふと思ったことがありました。
 ヒトは体の中で起こっていることを体の外で繰り返しているor再現しているのではなかろうか---。
 体は 活動中に溜まった老廃物を常に排出して 自らの秩序を保ちます。その振る舞いを、体を拡張させた外界においても行なっているのではないだろうかと。[*注1]


 道具とはヒトの身体機能を拡張させたものだ と言われますが、道具に限らず ヒトが創出するものは自らの身体機能の拡張のように思われます。それがどういうものであれ 創出が意識を介して行なわれる限り 脳の状態を反映しており、つまり私たちは自分たちの脳世界に囲まれて生きていると言えるわけです。

 (ヒトもその一部である)自然は 分散した小規模な範囲で秩序と(その秩序に適合しないものとしての)無秩序が行き来していて、たぶんそれが生物としてのヒトにとって適当なあり方だと思われます。大規模な秩序である「文明」は、人工物だけで世界を埋め尽くす…つまりは脳の秩序で世界を埋め尽くすことであり、本来小規模な範囲で適切に行なわれるであろう“秩序とそれによって生まれる無秩序の行き来”が 行き詰まる状況を生み出します。人工物だけの空間に息苦しさや発狂の気配を覚えるのは、ヒトとして当然であり真っ当なことなのでしょう。
 体は 自らの秩序を保つために、ヒト以外の秩序に つまりは自然に 自らがつくりだした無秩序を託します。託した無秩序は 別の存在の中に取り込まれて秩序化され、その存在もまた 自らの秩序を維持するために 無秩序を排出し…。秩序と無秩序は、自然あるいは宇宙という舞台を介して 託され手渡されていきます。それが、いわゆる生態系というもの。ヒト(の生存)には自らを取り巻く世界に ヒトがつくったもの以外の秩序が必要不可欠なのです。

 秩序は閉じた空間があって初めて成立します。だから生命というものが誕生するに際し 外界から場を分離するための「膜」が果たした役割が極めて重要だったことは、想像に難くありません。生命は自律的にその秩序を再生産あるいは更新していく(外界とは非対称な)存在だからです。ただ、生命の秩序は閉じたままでは成立しません。外界との関わりの中で存在するがゆえに 開かれた場でもあります。ここでいう外界とは、ヒトがつくったもの以外の秩序である 自然や宇宙です。その 外界から閉じていてかつそれに向かって開いている境界、膜、つまり表皮は、生命誕生時の単細胞生物の細胞膜の頃から蓄積されてきたであろう 内外の相互作用やバランスを絶妙に保つ一種の知恵やノウハウを備えているのではないか、と思うのです。
 ヒトの意識がつくりあげた秩序である社会を 体が拡張した場として眺めると、世界中のいたるところがネットで繋がり 境界は日々曖昧になり ランダムな無秩序の様相を呈するさまざまな情報に晒されて、現在 ヒトは皮膚感覚を喪失したような状態、と捉えることもできます。言い換えれば、体が地球サイズに膨張してしまったわけで、その中で生じているさまざまな問題や歪みを排出できず 内に抱えたまま、という状態。ですから、その主張するやり方の適不適は別にして、昨今の移民に対する一部の反応や イギリスのEU離脱や ナショナリズム的・民族主義的雰囲気や 不寛容の広がりという状況は、「皮膚感覚の喪失」という視点から捉えることもできそうです。
 さらに 皮膚感覚を機能させるのに必要だと思われるパーソナルスペースは、都市生活において 人的・物的・設計的に過密な状況下で常に侵食され続けており、そこで生活するには 皮膚感覚を麻痺させるしか術はありません。[*注2]

 皮膚感覚の喪失については、別の要因も(と言いますか多分こちらが主因だと思うのですが)思い浮かびます。それは 子どもへの授乳期間とその間の接し方、です。
 少し前に放映された『ダイヤモンド博士の“ヒトの知恵”』は、パプアニューギニアなどの伝統社会での生き方を参考に 現代社会を考えるシリーズでした。その第2回で見た伝統社会での子育ては 別の番組で見たオランウータンの子育てそっくりだったのです。
 狩猟採取民の伝統社会では 母親は赤ちゃんを常に抱っこしていて、赤ちゃんは母親と過ごす9割の時間はお母さんと肌が触れ合っている状態と言います。寝るときは両親と一緒の添い寝。そして泣けばすぐに授乳してもらえ、夜でも赤ちゃんは母親の上に寝ているので お腹が空いたらいつでもお乳が飲めるのです。[*ということは、伝統社会の母親は夜泣きに悩まされることがない、のでしょうか。]また、伝統社会の赤ちゃんは 他の大人たちからも面倒を見てもらいます。これをallo-parenting(代理養育)と呼ぶそうです。オランウータンも赤ちゃんは常に母親に抱っこしてもらっていて 欲しい時にお乳を飲んでいましたし、他の大人たちからも面倒を見てもらっていました。
 添い寝や“泣いたら授乳”は 子どもの自立を妨げるものとして否定的に捉えている人たちや社会がありますが、ダイヤモンド博士の観察するところでは、そうやって育った伝統社会の子どもたちは幼い頃からとても自信に満ちており 臆することなく大人と対等に接することができるのだそうです。子どもを甘えさせるどころか“小さな大人”として扱う伝統社会が[*ゆえに体罰はないそうで、もしも親が子どもに体罰を与えたなら それは離婚の原因となると言います。]、そのような育児を採用しているのです。



「伝統社会の赤ちゃんは allo-parenting(アローペアレンティング)によって安心感に包まれて育ちます。何か要求するとものの20秒でそれが満たされるので、ビクビクすることなく自信を持って成長できるのです。」(ダイヤモンド博士)


 狩猟採集の伝統社会ではオランウータンと同様に危険が常に隣り合わせなので赤ちゃんを常に抱っこしている必要があるわけですが、動機はどうあれ、ヒトは動物としてそのような関わり方をしてきた年月の方が圧倒的に長く 生物としてのヒトにとっって好ましい在り方なのだと思います。特に 乳児期に、世界と自己の境界である肌が、常に母親や他の大人たちと触れ合うことで 肌の感受性/センサーを育み、たぶん「個」の形成に重要な役割を果たしている、と個人的には考えています。
 肌は、表皮は、知覚/認知の最前線。
 それは、言葉や数といった抽象感覚をはぐくむ原初の源。

 もう一つ、伝統社会の子育てで興味深いのは、離乳は赤ちゃんのペースに任せている、という点です。日本でも少なくとも半世紀前までは 数は少ないものの 小学校に上がる頃まで あるいは小学生になっても お乳を飲んでいる子どもがいました。1時間に何度も授乳していると 母親の体から排卵を抑制するホルモンが分泌されるため、赤ちゃんが3歳か4歳になって授乳の頻度が減るまで 妊娠しにくくなるようです。これもまた、危険と隣り合わせの生活においては 抱えて逃げられる乳飲み子は一人であるのが好ましい、という現実の要請から そうなっているのだと考えられます。また、「穀物からは離乳食が容易につくれるので(大人の都合で強制的に離乳させられるため 不妊期間が短くなり)稲作社会になって人口が急激に増えた」という歴史学者の指摘からは、離乳食をつくれなかったから という要因も考えられます。しかし、子どもの発達過程を鑑みたとき、自分中心の視点から 他人の立場に立って考えられるようになるとされる3〜4歳に 授乳の頻度が減る、つまり 自然に乳離していく、というのは、相関関係があるように思えてなりません。自然誕生をサポートしている助産師さんが へその緒をつけたままの赤ちゃんが生まれてから自分の力で肺呼吸を始めるまでかかる時間を「自立時間」と呼んでいますが、赤ちゃんが自然に乳離していく年月もまた「自立時間」と呼んでみたくなります。お乳からの自立時間と 常に肌を接している状態からの自立時間と 「個」が芽生えるための自立時間は、その時期と長さにおいて かなり重なっているのではないでしょうか。そして、この世に生まれてから自力で肺呼吸を始めるまでの自立時間は、これらの自立時間の前提として機能する ヒトという存在にとって根本的なものではないでしょうか。[*注3]

 自立とは 混沌や一帯からの分離。
 知覚/認知の はじまり、出発点。
 「一」とは、ある“まとまり”、ある“存在する”をあらわすコトバ/記号/象徴。ヒトの認知や知覚の出発点。と、この文章の中で書きました。
 つまり、「一」のはじまり。
 原初の「一」がうまれるところ。

 このような考えに至って初めて、岡潔さんが『人間の建設』で言っていた次の言葉を ようやく実感をもって受け取ることができました。


 一人の人の生まれたときの有様を見れば、あるいは世界の始まりも見えてくるのではないかということも思います。
 その基本は何かと言いますと、生まれてどれくらいでしょうか。赤ん坊がお母さんに抱かれて、そしてお母さんの顔を見て笑っている。このあたりが基になっているようですね。その頃ではまだ自他の別というものはない。母親は他人で、抱かれている自分は別人だとは思っていない。しかしながら、親子の情というものはすでにある。あると仮定する。(略)
 世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情はわかるが、自他の別は感じていない。時間という観念はまだその人の心にできていない。ーーーそういう状態ではないかと思う。(略)それは何かというと、情緒なのです。(略)自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想なんです。矛盾でなく、初めにちゃんとあるのです。そういうものを情緒と言っている。私の世界観は、つまり最初に情緒ができるということです。<P.107-P.109>


 岡さんが「情緒」と呼ぶものを、私は「(世界との)一体感」として理解しています。
 人生に再現性は求められないので、自分が生まれたときの感覚を再体験することは不可能ですが、それとかなり近いのではないかと思われる体験はしています。
 自然の中を歩いているときに。
 自然に浸っているときに。
 声を出しているときに。
 レストランで食事しているときに。

 そのときの実感を 以前のブログで次のように記しました。(読みやすいように(略)は省いてあります。)


 自分もその森の生態系の一部(あるいは もしかしたら全部)になっているように観じられました。
 そんな意識のまま 改めて風景を眺めてみると、連続する風景のどこを切り取っても絵になるのです。そのとき「ひとつ」ということが気になっていた私は、どこをどう切り取っても「ひとつ」になっていることに 驚いた というより 歓びを感じました。
 直接俯瞰することのできない早池峰山を「ひとつ」として観じつつ、いま自分が歩いている北斜面の森もまた そのなかの「ひとつ」であり、その森を歩きながら通り過ぎる風景もまた「ひとつ」となっている…。そして 同じ場所に身を置きながらも 自分の意識を変えると、「ひとつ」だったものが「ばらばら」な風景となってしまう…。


 世界とのさかいを実感しつつ 世界はひとつとしてある、という感覚。
 岡さんは(世界の始まり/情緒に)時間の観念はない、と言っていますが、私は、時間だけでなく空間の観念もなく とはいえ 世界にのみ込まれているわけでもなく、世界から浮上した感覚を介する「体験」だけがある、と上記の体験から思っています。
 在るのは、「ある(在る、生る)」かつ「いる(I流)」という実感だけ。
 その「ある/いる」は一つではなく、全体としての「ある/いる」と その中に在る小さな「ある/いる」。両者は矛盾することなく「ひとつ」として「ある/いる」のです。
 その“世界の始まり”は、うまれる前の 母親のお腹にいるときにあらわれてくるのではないかと思っています。そして 胎児のときから生まれて死ぬまで、世界と自分 ふたつの「ある/いる」を矛盾なく隔てつなぐものが 皮膚だと思うのです。それゆえに、皮膚感覚が適切にはぐくまれる(ス)ペースで ヒトは生きていくことが望ましいと、考えるのです。もしかしたら、座禅や後ろ戸の神というものは そんな“世界の始まり”の「ある/いる」へ人をつなぐために生まれたものなのかも知れません。

 数という抽象概念では この「ある/いる」、岡さん言うところの「情緒」をあらわすことはできないでしょう。あらわすことができるのは  この一体感の際に覚えた“小さな「ひとつ/ある・いる」”として芽生える「一」。その「一」をいだく“大きな「ひとつ/ある・いる」”は、ヒトの知覚を超えたもの、「全」や「闇」の領域がようやく橋渡せるかも知れないものゆえに 人にはあらわすことができない。
 そしてたぶん、始まりの「一」は たし算領域の「一」。
 その後 自他の別ができたときに見つける「1」は、かけ算領域の「1」(=1×1)。
 ではないかと。
 また、生まれてしばらくまで続く時間も空間もない状態から 次に生まれるのが、“体験/実感している場”の延長としての“ひろがり”すなわち「空間」の観念ではないでしょうか。数の世界に対応させるなら たし算の領域。そして次に、場の変化 空間の変化を知覚し、その中に変わらない抽象性を見出すことで、変化を認知し記憶する「時間」という観念を会得する。数の世界でいうなら かけ算の領域。さらに認知の回路に対応させるなら、「感覚」はたし算領域に近しく 「意識」はかけ算領域に近しい…。
 それぞれの秩序は、たし算領域で自分以外のものと繋がりつつ、かけ算領域で(個々の)世界が具体的に立ち上がっていく、ように思います。
 そしてまた、岡さん言うところの「情緒」… 私が「ある/いる」と呼ぶ主観と客観が矛盾することなく同居する/関わりあう/織りなす場 につながりつつ行なうなら、“計算も論理もない数学”というものがもしかしたら可能かもしれず、生命の流れのなかでヒトはその可能性を開いていくことができるのかもしれない、とも思うのです。








[*注1]
 ヒトを進化のプロセスにおいて眺めると 面白いことに気づきます。
 外界の変化に翻弄されてきた生物は、恒温動物となり 哺乳類となって、生き延びるために快適な環境を自らの内に設けることで、外界の変化や状況にあまり左右されることなく生存することができるようになりました。そして、環境の変化への更なる対応を 今度は 体の外へと移し、衣服や道具や住まいや社会といったものをつくり出していきます。つまり、外の秩序を内面化し、ついで 更新された内なる秩序を外へ広げ、そして今 外界へ広げすぎた秩序が生み出す無秩序が 自らの生存を脅かしている、のですね。

 この“外と内の行き来および相互作用”は ヒトの成長過程でも観ることができます。
 ヒトは生まれると まず自分の周囲を認識し その外へ注ぐ眼差しを次に内に向けて自分に気づきます。そして、自分に向けた眼差しを 再び外へと向け…。そうやって、眼差しを 意識を 行ないを、外と内のあいだで行き来させながら ヒトは自らの振る舞いや考えをつくり 修正していきます。まさに入れ子構造的、かけ算的[→き/起]、です。でも あまりにも入れ子構造が複雑になって捻れひずんでしまうと 生命力が奪われかねません。ときには たし算世界[→ある/いる]へ戻る必要がある、いや かけ算世界とたし算世界を自由自在に行き来しながら生きる[→「いる」と「き」の行き来→「いきる」(「いる」のなかに「き」がある)]のがいいのでしょうね。





[*注2]

 『木々は歌う』という本に、衣服がヒトと環境とを断絶していることを示す印象的な記述があります。

 ほかの多くの森林と違って、ここ[=アマゾン*筆者注]では雨の音からたくさんの情報が得られるのだが、ポリエステルやナイロン、綿といった繊維で織った布地は、ぴちょんぴちょん、ぽつぽつ、ぴしゃん、とにぎやかに雨を跳ね返し、雨音はよく聞こえなくなるし、気も散ってしまう。人間の毛髪や皮膚はきめ細かで、ほとんど音をたてることなく雨を受け止める。私の手も、肩も、顔も、音ではなく感覚で雨に応える。
 西洋の伝道団は、当地にやってくると、彼らが開拓し改宗させた僕たちに、衣服を着なければならない、と強いた。意図されたものではなかったにせよ、この規制には、耳を自分自身に向けさせ、森から遠ざける効果があった。それは植物や動物たちとの、音を通したつながりの扉をいくばくか閉ざさせることでもあったのだ。
 ワオラニという現地の部族の人たちと話してみると、ほとんど例外なく、街に行くときに衣服を身につけねばならないことの居心地の悪さや窮屈さをこちらから聞くまでもなく彼らのほうから語ってくれる。ワオラニの人々は何千年も森で生きてきたが、いまその生活や文化が、外部の者たちに脅かされている。そんななか衣服は、何重もの意味で重荷になっているのだ。重荷となるわけのひとつには、音で成るコミュニティとの断絶があるのではないかと思われる。それは多種多様な生き物たちとの関係のなかで生きている人々にとっては重大な損失なのだ。工場労働者が機械音で難聴になるように、衣服を着こんでいる者は時としてそれだけで聞く力を殺がれる。

<P.25-P.26>





[*注3]
 それぞれに必要な「自立時間」は、パーソナル(ス)ペースのひとつ、と捉えることもできそうです。




 ARTという語は、インド・ヨーロッパ祖語のar-を源に持つそうです。
 その意味は、“to fit together”。

 し合わす
 さまざまな異なる舞台上のピースが “しあわす” ためのものとしての アート。
 さまざまな異なる舞台上のピースと 自然に “しあわせられる” 細胞外マトリックスのような場をリンクするものとしての アート。
 すべての人がもつ生命の流れに直接触れるものとしての アート。
 すべての人たちがもつ宇宙の流れに直接触れるものとしての アート。
 そういった種のアート/表現が、さまざまな異なるピース/宇宙が しあわす際に生じるであろう歪みを 自然な形で解消してくれるような気がするのです。
 ここで、人類学者の長谷川真理子さんが 言語の進化についての講演で「ヒトだけが世界を描写する」とおっしゃっていたのが思い出されます。他の霊長類は言葉を使えるようになっても積極的に使おうとしないし、使ったとしても 「バナナが欲しい」といった自分の要求を伝える手段に限定されるけれど、ヒトはどんなに幼くても積極的にしゃべるし 「この花きれいだね」というような 生存に関係しない“世界の描写”をする、のだと。世界を描写するとは、自分が知覚したもの すなわち自分の内なる世界/宇宙を 表にあらわすことです。それは、どこまで意図されるかは別にして 自分の世界/宇宙を他者と分かち合おうとすること、です。
 「分かち合う」という ホモ・サピエンスに特徴的な振る舞いもまた、さまざまな異なる舞台上のピースを 自然につないでいく営み、なのかも知れません。《注》

 調和を意味する言葉そして音として、私たちは日本語に「和」「わ」「ワ」というコトバをもっています。「分かち合う」という言葉の最初の文字/音でもあります。
 言葉の大本には 発声音と体(ひいては感情や意識)の相互作用がある、と私は考えているのですが、その相互作用を考えるときに参考になるなぁと思っているのが (字源からさまざまな変遷を経て現在使用している形となった)アルファベットです。
 すなわち、「わ」は「WA」。
 Wは二つのVが重なって(あるいは、二つのUが重なって)できた文字ですが、そのVはUやFと同じ原シナイ語のワウを起源としているそうです。音素記号であるがゆえに、個人的には、アルファベットの文字は(象形だった)字源から自由になり 音のイメージを表記する記号として洗練されていった印象を受けます。その立場から「WA」という文字を捉えると、下/内から突き抜けてor割けて[=VV/UU=W]突如として合わられるエネルギー[=A]、とういう状態が浮かんできます。まさに、驚いたときに発する「わっ!」という状態がふさわしい、そんな感じです。
 『アルファベットの事典』は、「V」の解釈として 老子の「埏埴以為器。当其無、有器之用。」(=粘土をこねて器をつくる。そこに何もない空の部分があるので、器としてのはたらきがある。)を引用し、UとVの形は「盃や鉢の形を思わせる。これらの物の機能は、受けること、そして入れることである。Vは単語vagin(*vagina:膣)の頭文字であり、Uのほうは単語utérus(*uterus:子宮)に2度もあらわれる。」(P.130)とし、Wについては「WはMの上下を逆さにした形ににており、同じようにその形によって水の絵文字と結びつく。それにWはドイツ語のwasser(水)、英語のwater(水)、wet(濡れた、湿った)などの頭文字でもある。」(P.136)と記しています。
 「WA/わ」が水につながるイメージを内包しているのは すべて(の人)に通底している“流れ”と呼応するようで、興味深いです。そして「WA/わ」と発声すると 内から出現した/あらわれたものが周囲へ広がっていく(体)感があり、自分のこと そして自分たちのことを「わ」と発声するのも、そして調和すること しあわすことを「わ」と発声するのも、個人的には実感として理解できます。
 また、上下反転関係の形をした(=180度回転の対称性を持つ)「M」について 上掲の本は、「水と縁の深い文字Mは、象徴的な意味であらゆる物質的生命のみなもとであり、その音と、音のもたらす身体感覚によって、あらゆる精神的生命のみなもとでもある。Mはこれらの2側面をもつことで、身体と精神の完全な合一を実現しているようにみえる。」(P.96)と解釈します。「A」のように始まりの形から180度回転したり、「H」のように90度回転したりするなど、アルファベットにおける回転対称性は 共通するものを有しているように思える私は、「WA/わ」と同じくらい「MA/ま」(=間→あわい→スペース/余/遊び/虚/空)というコトバに 調和や調整のはたらきを感じるのです。
 そしてまた、「わする」という言葉が 「和する」だけでなく「忘る」という意味を持つことも、興味深く思えるのです。

 Wという文字。記号。場、コトバ。
 最後に いささか唐突ではありますが、現在の数式で使われている「=」の代わりに 「W」を用いるのがより適切ではないだろうか、ということを記して、一旦の区切りといたします。





《注》
 私たちが世界を描写して他者に伝えようとするのは、「自分の描写を他者も理解しうるであろう」という前提があるからこそ。それは、必ずしも同じようには機能するわけではないけれど 相手もまた 自分と同様のつくりをしている、という前提があるから、もっというなら 命というものを(無条件に)信頼しているからではないでしょうか。




 講演の中で触れられる「安直な等式化」は、“さまざまな舞台の出来事が複雑に絡まっている日常”における「わかり急ぐこと」に通じます。脳は分からない状態を嫌うので、ヒトにとって「分からないままにしておく」ことは決して心地よい状態ではなく、“とりあえずでいいから理解できること、結論めいたもの”を求めてしまう。だけど その性急さは得てして思考停止につながり ものごとの捉え方を狂わせます。そこで焦らず先を急がず「分からないまま」に踏みとどまる。そんなじれったく苦しい状態を 内田樹さんは「中腰の構え」と名付けています。中腰のままでいるには そのための余地や余裕が必要です。エネルギーにおいても (私たちが時空として認識する)スペースにおいても。そして その際に生じるであろう様々なストレス[=ひずみ]についても それを調整したり解消するのに 余地や余裕が必要です。エネエルギーにおいても スペースにおいても。
 IUTにおける「歪[ひず]み」の概念は、体の「歪[ゆが]み」すなわち体の「歪[ひず]み」にも重なってきます。ここ数年 体を整えながら実感しているのは、全身の各部位をつなぐfaciaのような細胞外マトリックスの重要性です。ヒトの体は、異なった舞台のピースが異なった舞台のまま faciaのような場を介して つながり 通信している、ように感じます。そして、本来はしなやかで臨機応変 レジリエンスを備えているそれらの場が、外力によって受けたひずみから回復するために必要な余地[=エネルギー、スペース、生体のペース]を得られないままで放置されてしまうことで、体の骨格や臓器や神経にひずみやゆがみが生じ さまざまな症状や病気として現われる---。ヒトにかかる外力は 物理的な接触といったシンプルなものもありますが、日々のさまざまなな出来事は多様な舞台が複雑に絡まった状態として やってきます。そんな外力の最強のものが 災害であったり トラウマになるような出来事。トラウマの治療に体からアプローチしている方たちがいらっしゃいますが、私には理にかなった方法に思えるのです。
(余談ながら、上記の「中腰の構え」は 細胞外マトリックスの場がサポートしてくれるように感じます。その場のはたらきに拠って、分からないものことを分からないまま 文字通り 体のあちこちに置いたままにしておける、のではないかと。)

 ここでまた素人ゆえの(そして/あるいは、安直な等式化ゆえの)飛躍を許していただきたいのですが、数学でそんなfaciaのはたらきを担っているのがたし算 に思えてしまう私は、大きさの異なるピース同士を合わせるためにピースを伸び縮みさせ その際に生じるひずみを扱うのではなく、大きさの異なるピースはそのままで (その際に生じるひずみを引き受け)それらを繋いでいけるたし算、というものを考えることはできないだろうか、と夢想してしまいます。その夢想は、さらに「成っていく数学」という幻も引き寄せてきます。それは、力づくではない 自然な数学、とも言えましょうか。

 『宇宙と宇宙をつなぐ数学』の書評から こんなことをつらつら考えていたら、梅雨が明ける直前に訪ねた場所で 岡潔さんの文章をまとめた本『岡潔 数学を志す人に』と出逢いました。そしてそこにも とても興味深いことが記されていたのです。


 「数学の本体は調和の精神である」
  <(アンリ・ポアンカレーの言葉)P.36>


 調和感が深まれば可能性の選び方、つまりは「希望」というもののあり方が根本的に変わってくるわけで、(略)数学の目標はそこにあるということができます。<P.37-P.38>

 数学というものは闇夜を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こういう世相には大いに必要となるのです。闇夜であればあるほど必要なのです。<P.46>


 アンリ・ポアンカレーの言葉はこの本で知った私ですが、前々から 数学に調和の匂いを感じていました。その匂いの源は、「数の定義」の変遷です。無理数や虚数など新しい数が発見/創出されるたびに すべての数を包含できるよう 数の定義は改められてきました。当たり前と言えば確かにそうなのですが、目の前やすぐ隣に存在している人を 同じものとして/仲間の一員として包含しようとしない、そしてまた(自分たちにとって)不都合な人間を排除・殺戮しようとする人間の姿を思うと、私たちはピタゴラス教団のようなもの[*「無理数の存在を隠していた」「無理数の存在を明かした者を海に沈めた」などの話がまことしやかに語られています]。私の目に数の世界は 調和に満ちて映るのです。まぁそれは 数というものが極度に抽象化されたもので、人間の生々しい“具体”に直接関わるものではないから、理想的な調和の世界をそこにつくることができるのでしょうけれど…。
 そして、(書評と解説講演で理解した範囲ですが)IUT理論に アンリ・ポアンカレーそして岡潔いうところの「調和」を観るのです。


 岡さんの文章から もう一箇所。


 「僕は計算も論理もない数学をしてみたいと思っている」
 (略)
 計算も論理もみな妄智なのである。(略)そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切れなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。
<P.158-P.159>


 ここには「意識の流れ」とありますが、さらにその奥に「意識の流れ」を支える「生命の流れ」があります。私が アートと掛け声に見出した共通性は、「生命や意識の流れ」なのでしょう。
 私が(狭義の)アートにおいて惹かれるのはそこからほとばしっている「生命の流れ」。アートには 技術を極めていく芸能・技芸的なものと 技や術や型に収まらない生命の流れをあらわすものがあるように思えますが、岡さんがいう「計算や論理もない数学」に対応するのが 後者のアート。岡本太郎が『今日の芸術』の中で「絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。だれでもが描けるし、描くことのよろこびを持つべきであるというのが、私の主張です。」(光文社文庫P.115)というのも、すべての人それぞれの中にある生命の流れを表にあらわすことを勧めているのに他なりません。
 そして、先ほどfaciaのはたらきを数学に結びつけて語った夢想の背後に浮かんできた幻「成っていく数学」というものと、岡さんがいう「計算も論理もない数学」。この二つは、とても近しい場所にあるように思えます。


 私の言いたいのは、ただ趣味的に受動的に、芸術愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創るという感動、それをたしかめること。作品なんて結果にすぎないのですから、かならずしも作品をのこさなければ創造しなかった、なんて考える必要もありません。創るというのを、絵だとか音楽だとかいうカテゴリーにはめ込み、私は詩だ、音楽だ、踊りだ、というふうに枠に入れて考えてしまうのもまちがいです。それは、やはり職能的な芸術のせまさにとらわれた古い考え方であって、そんなものにこだわり、自分を限定して、かえってむずかしくしてしまうのはつまりません。
 それに、また、絵を描きながら、じつは音楽をやっているのかもしれない。音楽を聞きながら、じつはあなたは絵筆こそとっていないけれども、絵画的イメージを心に描いているのかもしれない。つまり、そういう絶対的な創造の意志、感動が問題です。
 さらに、自分の生活のうえで、その生きがいをどのようにあふれさせるか、自分の充実した生命、エネルギーをどうやって表現していくか。たとえ、定着された形、色、音にならなくても、心の中ですでに創作が行なわれ、創るよろこびに生命がいきいきと輝いてくれば、どんなに素晴らしいでしょう。

<P.118-P.119>


<続く>
 あれは、いつ、どこで、だったのか。
 目にしたのは、数学の未解決問題の一つである「ABC予想」を日本人が証明した という記事。それだけなら「へぇ、そうなんだ」で終わってしまう可能性が高かったのだけれど、2012年に京都大学の望月新一教授が自身のブログで発表したその論文は 教授が20年以上にわたって独力で構築した理論に基づくために難解で ほとんど誰にも理解できなかったがゆえに 論文の査読に何年もかかっている、と知るや がぜん興味が湧いたのでした。

 独自の理論。
 異世界からやってきたかのような理論!

 自分の能力は一旦棚に上げ、既存の数学にもどかしさのようなもの[*数学に惹かれてやまないのに、既存の、少なくとも私が受けた教育では、まったく体に入ってこない。というレベルのもどかしさ《注1》]を感じている私は、当然のごとく“新しい(であろう)数学”の出現に大いなる興味を持ったのでした。
 とはいえ、論文を勉強するための国際会議まで開かれた(けれどもほとんどの参加者は理解できなかった)というその理論を 数学のド素人にせめてぼんやりとした輪郭や気配だけでも示してくれる人は見あたらなかったし、自力で理解に向かうエネルギーは(少なくとも当面は)なかったので、熱い興味を心の片隅にそっと置いたまま日々を過ごしていたところ、今年になって、望月教授の「宇宙際タイヒミュラー理論」の“エッセンスを一般の読者に向けてわかりやすく紹介”した本が出たことを知りました。

 『宇宙と宇宙をつなぐ数学』
 心くすぐられるタイトルじゃありませんか!!

 とりあえず図書館の蔵書を調べてみると、あります、あります。なんと10人以上が予約待ち。でもまぁすぐに読むという感じではなかったので、待ちきれなかったら買うことにして とりあえず予約を入れ、それでも本の内容は気になるからウェブで情報収集したところ、HONZでの書評が目に留まったのでした。
 その中の「たし算とかけ算を分離する」という一文は、ずっと私の中でモヤモヤしていた“たし算とかけ算の関係”に風を吹き込み こんな気づきをもたらしてくれました。

     かけ算とは 新たな「一」を立ち上げること
     (「新一」という望月教授の名前が浮かびました。笑)


 かけ算を用いれば たし算で同じ数を足し重ねていく計算を容易にし簡潔に記述できることはわかるものの、そして 仮にそれがかけ算誕生の経緯だったとしても、素人ながら さまざまな数式において累乗が果たす役割に思い致せば、たし算と同じ土俵で考えるにはいささか無理がある というか 文字通り場違いな印象があったのでした。《注2》


 「一」は 私に数学への興味の扉を開いてくれたものです。正確には、数学者の岡潔さんが『人間の建設』で語っている「数学における一という概念」です。


     一を仮定して、一というものは定義しない。
     一はなにであるかという問題は取り扱わない。
                           <P.103>



 この文に触れてからというもの「一」というものが気になって仕方ありません。ひいては数という存在全般への興味へと広がっていきそうなものですが、(実際そういう部分もありますが)私は「一」のトコロに留まったまま、惹きつけられたまま、です。
 「一」とは、ある“まとまり”、“存在する”をあらわすコトバ。ヒトの認知や知覚の出発点とも言えます。ゼロや虚数の発見・創出も まず「一」があってこそのもの。突き詰めればor対応化を推し進めれば 数は0と1に集約できてしまうので、コンピューターが0と1だけで記述されることも理解できます。

 HONZの書評に貼られていた動画の 著者・加藤文元さんの講演で もっとも強烈に脳裏に残っているのが、エドワード・フレンケルの喩え[=学校で教わる数学は 完成図のあるジグソーパズル、研究における数学は 完成図のないジグソーパズル]をもとに 宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)が従来の数学とどう違うのか、の説明で用いた比喩です。【*映像の23分あたりからご参照ください】

     「IUT的な数学は、大きさの違うピースをはめる」


 IUT的な数学とは、普通の数学では「ぴったりはめる」ことができない「大きさの違うピース」を、互いに異なる「舞台」に属するものとして<はめる>。その上で、その際に生じる「歪[ひず]み」を定量化する。”のだと言います。
 「(異なる舞台上の)大きさの違うピース」を(そのまま)同一の舞台のものとして扱うことで生じる歪み[*IUT的数学で扱う(互いに異なる舞台に属するものとしてはめる際に生じる)歪みに通じるのものがあるように思えます]は、社会の至るところで見受けられます。いえ、様々な問題は 異なる舞台にある大きさの違うピースを同一の舞台のものとして扱っていることから生じているように 私には思えるのです。そのような状況が存在していることは、相手の土俵に乗る とか (自分と)同じ土俵に引きずり込む、というような表現に見て取ることができます。グローバル化 然り。経済システム 然り。啓蒙主義 然り。宗教や精神世界やスピリチュアル 然り。そのことを自覚的に行なっているのが洗脳なのでしょう。
 もっと言うなら、人と人が関わりあうこと自体が、大きさの違うピースをはめ合せているようなものです。ヒトに共通する知覚・認知システムはあるとしても それが同じようはたらいているとは誰にも断言できません。同じものを指して「赤」と呼んだとしても それぞれが知覚しているその色が同じかどうかは誰にも確認できないように…。人はそれぞれ違う舞台に存在している、ということは 少しずつ理解され始めているように思えますが、<はめあわせる>舞台がどうあるべきか とか 適切な舞台が用意されたとしてもそこで扱うことによって生じる歪み については、私たちはまだ無自覚というか ほどんどその存在の必要性・重要性に気づけていないというのが現状ではないでしょうか。



 IUTでは、この2つのピースは2つのかけ算です。そして、一方のかけ算は他方のかけ算に比べて伸び縮みしてしまっていて変形されています。それを いま言ったような異なる舞台を使ってはり合わせる、ということをします。それがまぁΘ[テータ]リンクと呼ばれるものになってくるわけです。これがIUTとは何かということに対する一つのまぁ比喩ということになります。
 “違う「舞台」の上で、たし算をそのままにして、かけ算部分だけ伸び縮みさせた「同じ」コピーを作って結びつける。”という考え方になるわけです。
 しかしながらですね、本来違うピースを、あるいは同じ大きさではないピースを、形式的に あるいは 同語反復的にという感じでもありますが、つなげよう、関係づけるということをしますから、しかもしれは左と右では異なった舞台に属するものですから、これを安直に等しいまた一個の舞台に戻してしまうということをすると、そのイコールは矛盾が起こります。ですから、ここは気をつけなければいけないところで、安直な等式化はそのままではできません。従って等式ないしは不等式…普通の数学に戻る…普通の数学に戻そうというのはちょっと語弊があるんですが、そういうことをしようとすると歪[ひず]みが起こります。IUTの重要なポイントは、この歪み…すなわち 異なる舞台間の通信をすることによって起こる歪みというものを その大きさを計測することができる、というところにあります。これが実はIUTの重要定理の一つになります。その大きさを計測することによって、異なる舞台にあったものの間にこのような形の不等式を出す その歪みの分というのがここに現れています。そして、このような不等式を出すことによってIUTが例えば「ABC予想」のような不等式を出してくるということになるわけです。

<加藤文元さんの講演より>

<続く>



《注1》
 ヒトが(世界を)認知する場を 一片の膜[*2次元]とし、人の数だけ さまざまな傾きや向きを持って浮かんでいる空間に、円柱[*3次元]の形をした数学の場というものが これまた浮かんでいると想定した場合、既存の数学は 例えば円柱の長方形の形を認識している人たち(つまりは数学の専門家)によって記述されているようなもので、円や他の断面を認識している人にとって 理解しにくいものになっているような印象があるのです。


《注2》
 私たちは、それが持つ可能性や それがいったいぜんたい何なのか を分からないまま、様々なものを発見/創造して 用いている。言い方を変えれば、私たちは、そうとは知らずに発見/創造したものの 奥深さを、少しずつ理解していく…。
 おもしろい現象です。



 「侘び・寂び」という言葉が 本来備えているコトバ/事場は、カタにとらわれない 内包された“生命が躍動する存在のベクトル”としての「前衛のありよう」、というのが 現時点での私の理解です。「わぶ」「さぶ」というコトバ/事場をどう認識しているかついては 項を改めて記すとして、ここでは それに連なる『千利休 無言の前衛』での赤瀬川原平さんの文章を引用しておきます。
(途中の文章をいくつか略しますが、見た目が煩雑になるので(略)の記載はいたしません。)


avant-garde < avant + guard
=PIE root
 ant- “front, forehead”, with derivatives meaning “in front of, before”

 +
  wer-(3) “perceive, watch out for”


***********


 利休が晩年に言い残した、
 「私が死ぬと茶は廃れる」
という言葉を見たときにはドキリとした。
 利休はいったい何を言おうとしたのか。
 察するところ、すでにこの時代から茶の湯が形式としてだけ固まっていく風潮があったようなのである。利休はそれを嘆いているのだ。茶の湯を好む人がふえるに連れて、師匠も多くなったが、規則ばかりを細かくいいたてて、世俗の義理に堕落し、ちょっとした作法の無知をあざけるようになり果てたという。そんな利休の言葉が残されている。
 なるほどと思う。それはいまの私たちにも、そのままそっくり実感できることである。茶の世界でなくても、どの世界でも、この風潮を見ることができる。むしろこの風潮こそが多数かもしれない。いつの時代にも見られることなのだろう。社会一般としては、この風潮を基本としているとさえいえるほどだ。それを知った利休の嘆きの言葉なのだろう。
 しかし先に挙げた。
 「私が死ぬと…」
の言葉になると、嘆きだけではないような気がする。嘆いているというよりは、もっと攻撃的なメッセージが伝わってくる。
 はじめてこれを見たときには、何と傲慢な言葉だろうと思った。茶は利休だけで持っているのかと、とくに同時代の茶人は思うのではないか。しかし利休によってこそ茶が究められていったことは確かなことで、それはしかも言葉では間に合わぬほどの微細な意味をつないで究められていった。言葉以外に受容器をもたぬ人には、当面受け取りようのないことなのである。
 この利休の言葉は、そのことを言おうとしているのではないか。つまり言葉で言えぬことこそが茶の湯の大本であると、それを言葉で言ったのだろう。それを言葉でいうと「私が死ぬと…」となってしまう。
 誤解されるすれすれのところを言葉が横切る。
 つまり直感の世界のことだ。直感とは言葉の論理を追い抜く感覚にほかならない。言葉を追い抜くし、言葉をすり抜ける。言葉の論理からはあるかなきかの、あるといえばそれはまやかしではないかと思えるほどの危ういものである。しかしあてずっぽうではなく、それはあくまで言葉の延長上にあることはあるのである。
 ある基本的な感覚基盤をもった集合があって、その上でのほんのわずかな変化によってメッセージが飛び交う。それが直感の世界でのやりとりである。それを分析的に言葉に置き換えていくことは、長い時間を待てばできなくはない。しかしその言葉の分析を積み重ねた末に直感に至る、ということはないのである。つまり閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない。言葉にとっては、ほとんど幻想世界だ。つまり言葉の届かぬ先で意味の沸騰している世界である。微細な意味が、その沸点の上で小さなダンスをしている。それが直感的世界の断面図である。それは後からの言葉ではなく、その沸点の上に身を置いたときにだけ感応できる。
 そこでやっと、先の利休の言葉が身をもってわかる。この茶の湯の沸点における意味のダンスをこそ踊るべきだと利休は言うのだろう。それが絶えれば、沸点を下がったところの言葉の論理が、あとをなぞりはじめる。人々はそれをなぞることだけに精を出しはじめる。茶の湯はそれをなぞることだけで固められて、沸点の上でのダンスは遂に消え去り、そのまま廃れる。
 つまり言葉で拾ったものだけをなぞる間に、茶の湯は形式だけのものになってしまったということだろう。これは非常に危険なことで、直感と言葉の間の落とし穴みたいなものだ。本人は形式に堕するつもりはなく、とにかく見えている言葉の論理を伝って、その師とする人の位置に近づこうとするのだけど、近づけば近づくほど精気が失せていく。つまりその師とする人の感覚基盤がないところで、結局は形式の抜け殻となるのである。

 絵画ならまだしも、文学ならまだしも、音楽ならまだしも、茶の湯というのはそれ自体がどこどいってつかみどころのないものである。そのつかみどころのなさを究めていったのが利休だから、それを師として近づくのは非常に危険なことである。それを知って近づくならまだしも、そのことに無知のまま、そして利休と同じ感覚基盤を持たぬままに近づいていくと、一歩一歩近づくことが形式をなぞることになり、ついに近づいたと思って気がつけば、自分がからくり人形のような形骸と化している。利休自身がそれを見て嘆いているのだ。
 利休はそのような危険について警告を発している。伝え残されている教訓的な言葉では、人と同じことをなぞるな、ということをよく言っている。つまり新しいことをやれ、自分だからこそのことをやれ、ということである。つまり芸術の本来の姿、前衛芸術への煽動である。そのような、人のあとをなぞらず、繰り返さず、常に新しく、一回性の輝きを求めていく作業を、別の言葉では「一期一会」ともいうわけである。

<P.215〜P.221>

Sさま


寒中お見舞い申し上げます。

過日は 思いがけない素敵で美味しいクリスマスプレゼントを ありがとうございました。すぐにお返事をと思いつつ、なかなか“そういう感じ”にならないまま年が明け ようやく自然に手紙を書くことができています。

いただいた 無農薬・無施肥のコシヒカリ、
従来の「(粘り気がありすぎて)重く胃に負担がかかる」イメージを覆す さっぱりとした味わいで、それでもササニシキとは違い ギュッと中身が詰まっていますね。我が家定番の自然栽培ササニシキと代わる代わる楽しませていただいています。
そして『捕食者なき世界』。
こちらはまだ読めていませんが、とても興味のあるテーマです。
一旦壊れてしまったバランスは たぶん 元には戻らず、新たに より良い動的平衡状態を、模索し つくっていくしかないように思えます。
問題は、そのことに対して どのようにヒトが関わっていくのか。
“全体を俯瞰する視点”は(少なくとも太陽系の範囲における)生物と無生物の相互作用も含めたものであるべきで、
しかし その点に関して ヒトはまだまだ知識が乏しく、
しかし だからといって現状を放置することはできず、
だからこそ 粘り強い探究心と慎重すぎるほどの自制心と謙虚さを持って 焦らず一歩一歩事を進めていくことが必要になりますね。

「焦らず急ごう」
という 自然栽培の作り手さんの言葉を思い出します。

[*この文章を寝かせている間に、ブルーバックスの『海と陸をつなぐ進化論 気候変動と微生物がもたらした驚きの共進化』を 時間つぶしにのぞいた駅の本屋で見つけました。移動中さらっと冒頭の部分に目を通した限りでは、有機物と無機物が渾然一体となって織りなす「生態網」とでも呼ぶべき相関関係について記されているようで、“全体を俯瞰した視点”を得る助けとなってくれそうです。]


エネルギーについては、ヒトの活動が自然環境にどのような影響を与え、その結果 気候などにどのような変化をもたらすのか、正確に把握できない以上、エネルギー源や利用形態において 多様な選択肢・あり方が必要だと考えています。
仮に全てを自然エネルギーでまかなえたとしても、利用できる形が「電気」だけだとしたら、(太陽フレアの影響を考えるだけでも)それには大きなリスクが伴いますものね。

当たり前のことですが どんなことでも
一元化しない
多様であること
が大切なポイントかと。
(少なくとも宇宙はそのように進化/変化してきているように見受けられます。)


先日参加した『起源への問い』という講演会で 人間知性の起源について講演された方が、「自然と人為 どちらが大きいか、どちらがもう一方を包含しているか、考えてみてください」と聴衆に宿題を出されました。
その方が問うたのは、
ヒトが「自然」の一部であるなら “自然であるヒト”が行う「人為」も「自然」である、ということになりませんか?
しかし 自然であるはずの「人為」が自然を破壊している、ということは、「人為」が「自然」を内包している、ということになりませんか?
、というようなことでした。

ここで問われている「人為」と「自然」の関係が、この3年近く体を整えてきた私には 「脳」と「体」の関係に重なります。

「脳」は体の一部、臓器の一つなのだけれど、生命が 情報処理/情報統合の最新の一形態として「意識」というもの[=「意識」という現象]を持ち、その意識を使って 自身に言及できる“メタ的なはたらき[メタ認知/メタ思考]”を獲得したことで、体という“自らが拠って立つ基盤”である現実から遊離して 想像したり夢想したりすることができるようになりました。
それが ヒトの優れた点でもあるのですが、
それが ヒトを 体や自然といった現実とのつながりから切り離して活動させる、駆動力ともなりました。
(余談:中枢神経は皮膚と同じ外胚葉由来。皮膚のはたらきから推測するに、もしかしたら外胚葉由来のものには、原始細胞の細胞膜のように 外部と切り離しその内部で別の体系を発展させていく“ことなる[=個となる、異なる]はたらきが共通しているのかもしれませんね。)

そして、脳による“現実から遊離した活動”が ヒトの生存を脅かすほどに現実から遊離してしまったのが、現在なのではないでしょうか。例えていうなら、現実は線上の0から1を経て2へ3へ…と広がり繋がって動いているのに、脳は 0と1の間で無限の数を取り出すことに夢中になっている、というようなイメージ。
あたかも「自然」を内包しているのではと思わせる「人為」は、ヒトに 「自然」/「現実」に包含されていることの忘却を“自由”と錯覚させ、その結果 ヒトは その(まやかしの)“自由”を追い求め、それが「自然の征服」「自然の克服」という概念や態度へ繋がっていき、ヒトという存在を生み出した「自然」の“全体の調和/相関網”のありようを 大きく歪めてしまっている…。
もちろん 従来のバランスが崩れれば 自然/宇宙は新たなバランスへ移行していくだけのことですが、ヒトが今のまま無自覚・無反省に突き進むなら その結果もたらさせる新たなバランスにおいては ヒトが(そして現在の地球の自然や環境が)生き残ることはかなり絶望的だと思われます。

現実/実態から遊離し肥大化し膨張するものとして思い浮かぶものに「通貨」があり、通貨もまた 私には「脳」と「体」の関係に重なります。
(*通貨に限らず ヒトが考え出し作り出したものは 脳のはたらきによるものですから、当然ですね。笑)

通貨の具体的な発生の詳細について私は不案内ですが、分業社会を円滑に運営するために 人々の活動をつなぐ手段である という基本的な役割を考えるとき、それは 分業体制を可能にしている“食糧の余剰生産量”に依拠している、と理解することができます。
日本政府が関心を示しているという仮想通貨は 数学にその根拠を置いているとか。しかし、数学の理論は 通貨制度を成り立たせている“食糧の余剰生産量”から通貨の流通量を決定するためのツールとして活用はできても 通貨の本拠にはなり得ません。
基本に戻って考えるなら、通貨とは 他者に対してあるはたらきをしてもらう権利、あるいは他者のはたらきに対する御礼、なのだと思います。それが ある時期から 通貨が通貨を生むようなシステムが考えられ 現実のヒト(のはたらき)から遊離してしまい、額面という数字だけが肥大化するようになりました。
それは 上に書いた0と1の間で無限の数を取り出すことに夢中になっている姿と重なります。
それは 体から遊離し 体から自らの存在を切り離して夢想し続けている脳のありようと重なります。
[*通貨制度について再考するにあたっても 上掲のブルーバックスが参考になりそうです。]


この3年近く 私の中では、
体が整っていくに従って
余計な感情やこだわりや心の強張りが減っていき、

自律神経がきちんと機能し始めたからでしょう
体の状態と脳のつながりが 以前と比べれば格段に良くなり
脳は体の一部として 自然に落ち着きを取り戻している、
実感があります。


Sさんが ヒトの命の基礎を担う「食」と「(住/自然)環境=林業」を 全体に還していくのなら、私は まず 体のありようを全体に還していくところから 始めていこうと思っているところです。


以上、長くてきちんと整理されていない文章なので たぶん読みにくいであろうと思いつつ、自分の考えをまとめるプロセスとして この機会を使わせていただきました。

いつか直接お話を伺える機会がやってくるのを 楽しみにしています。

なにとぞご自愛くださいませ。



2019年2月1日(金)
 11月6日、脳科学者の池谷裕二さんが次のように呟いていました。



【五感】
視聴味嗅触の五つの感覚のうち、視覚と聴覚はとりわけ重視されます。
しかし、これは英語を中心とする言語圏の特徴にすぎないようで、
その文化圏で用いられる言語体系によって
どの感覚が重視されるかが異なるそうです。
今朝の『PNAS』誌より



 文字通り体すべてを使って“全体”で思考するトータルな活動が 現在そしてこれからの人にとって重要になってくると考えている私にとって、この内容は示唆的です。
 人の感覚・認知は五感に限定されないもっと全体的なものであると思っていますが、五感に限っても視覚と聴覚という 非常に多くの情報を処理できる感覚であるがゆえに突出してしまった二つの感覚の偏重が、現在のアンバランスさを生み出している一因 というよりも かなり主要な原因の一つであるように思えます。「日本語の文章が視覚的になって ただちに映像が浮かぶようなものになっている」という趣旨の 以前どこかで目にした一文は、“英語を中心とする言語圏”の(価値観・思考・思想などの)影響を強く受けた“日本語の現在”を(図らずも)指摘していたと言えそうです。
 現在、世界のコミュニケーションは英語を中心に進められています。英語は、松岡正剛さん曰く「混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語」とのこと【*注】。そんな出自が 異なる母語の話者にとって使いやすいツールとして 政治力学とは違う側面からも英語の拡散を後押ししているのかもしれません。
 しかし、言語は概念の体系であり 認識が立ち上がってきてモノ・コトが起こる「コト場/事場」であり 本質的には翻訳は不可能であると考える私は、様々な分野の最先端の知が英語によって いや 英語に限らずひとつの言語によって構築され共有さている現実に 危惧を覚えます。世界の認識が一元化してしまうからです。
 それぞれの言語・コト場が本来持っている感覚を改めて取り戻しand/or獲得しand更に進化させ その立ち位置から“全体で”思考する人々が、特定の言語に偏ることなく情報を交流・共有させ 地球規模の多元的な“全体の思考”を創り出すことから、次代の新たな地平がひらかれていくのではないでしょうか。

 言語/言葉は、それぞれの集団の文化であるにとどまらず、ヒトが世界とコミュニケートする扉であり 認知の基礎であり 可能性の泉であり 未知を耕す鋤であり耕された土であり、それゆえに地球の公共財なのです。





【注】


 十一世紀以前のイギリスは多数の民族の到来によって錯綜していた。ブリトン人、アングル人、サクソン人が先住していたうえに、そこへケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、イベリア人などがやってきて、最後にノルマン人が加わった。大陸の主要な民族や部族は、みんな、あのブリテンでアイルランドでウェールズな島々に来ていたのだ。全部で六千もある島々だから、どこに誰が住みこんでも平気だった。
 この混交が進むにつれて、本来は区別されるべきだったはずの「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」との境い目が曖昧になる。いまは我がもの顔で地球を席巻している「英語」とは、こうした混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語だ。それゆえOED(オックスフォード英語辞典)後の英語は、これらの混合がめちゃくちゃにならないようにその用法と語彙を慎重に発達させて、「公正(フェアネス)」や「組織的な妥協力」や「失敗しても逃げられるユーモア」を巧みにあらわす必要があった。
 こんな事情にもとづいてイギリス人たちは、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマン神話にも聖書にも求めることにした。恣意的で、ちゃっかりした編集である。

(『擬 MODOKI 「世」あるいは別様の可能性』P.108)




【補記】


 「人口過密」も、社会において視覚と聴覚が重視される傾向を推し進めているように思います。例えば、満員電車の中で“見知らぬ他人からパーソナルスペースを著しく侵害され、場合によっては体を接触させる”という異常な状態を日常的に耐えるには、触覚や嗅覚を麻痺させる必要があります。嗅覚は味覚と深く関わっていますから 嗅覚の鈍化は味覚の鈍化へ繋がっていきます。生物としてのヒトが 持てる感覚を豊かにすることはあれ鈍化させることがないようにするには、空間的にも時間的にも一定のスペースが確保されることが必要です。
 また、ヒトが関わる情報において (視覚と聴覚への入力が圧倒的な)コンピュータなどデジタルの割合が増えていくことも、同様の傾向を加速していることでしょう。

 言葉と“全体”のつながりを深めていくことが、思考を深め 多様な認知を育み 人の可能性をひらいていくために必要だと私は思うのです。
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