compute(計算する)という単語は、「共に」を意味するcomと「木の剪定」を意味するラテン語のputareに由来するputeによってつくられています。「木を剪定する」とは「かたどる」ことだからでしょうか ひいては「考える」ことを意味するようになったようです。ですから、com-putareとは 「共に考える」という意味に取ることができます。
あるいは comは意味を強める接頭語でもあるので、com-putareは「徹底して考える」と解釈することもできます。徹底して考えるとは 使える限りのものを使って最大限考えることですから、「共に考える」ことにつながってくるのではないでしょうか。
…と、ここまで書いたところで ある女性ワイン醸造家の記事を読みました。
ワインの生産者のもとで短期間収穫などを体験しただけで その作り手に「ワインをつくってみたら」と勧められ ほとんど経験のないまま「直観」に従ってワインづくりを始めたのだそうです。(以下はその文章からの引用です)
畑での栽培、醸造など全ての工程で自分の感性を大切にし、
剪定から耕転、除草など作業のタイミングや方法は、
畑の声に耳を傾けて行なうと言います。
醸造においても一貫してブドウのポテンシャルを自然な形で
最大限に引き出す事のみに注力しており、特別な介入を行ないません。
エネルギーに満ちたブドウを収穫し、
そのブドウがワインに進化していくプロセスを信じて待つ。
そんなスタイルでワインを作る彼女は
畑での時間を特に大切にしていると言います。
自分一人で畑に立ち、
ブドウ樹一本一本と向き合いながら作業をする剪定が
最も幸せを感じる瞬間であると言い、
常にブドウの声に耳を傾けています。
私はこの文章を読んだときに、「剪定」つまり「putare」が意味するところを知ったような気がしたのでした。
あいたいするものに真摯に向き合い
その声を聞いて
いきるように ものかたる
この意味における「putare」には
既に「com」(*「共に」という意味であれ 強意であれ)が含まれています。
そう知れば、computare/compute/計算する とは、
なんと無限の可能性に満ちた ワクワクすることなのでしょう。
自らの小さな脳に 無限の世界を接続していく、こととも言えます。
また、日本語の「かんがえる」という言葉も、
computareに通じる なかなか味わい深いものがあるように思えるのです。
かんがえる
観・変える/交える・・・視点
間・変える/交える・・・層/相
感・変える/交える・・・感性 感覚
関・変える/交える・・・関係性
いずれの意味においても 閉じた世界だけで達成できる事ではありません。
computareと同じく 自らを世界にひらいていくことが 暗に含まれています。
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これから 「かんがえる」ことを はじめます
【補記】
『日経サイエンス』2013/07号の「量子の地平線」の特集で、「Qビズム」というモデルが紹介されていました。Qビズムの詳細については理解できていないのですが、Qビズムを紹介する文章の中にいくつか心に留まるものがありました。
Qビズムの主張は、哲学的にいうと、
観測者が住んでいる世界と、
その世界に対する観測者の経験との間に両者を分ける境界があって、
後者が波動関数によって記述されることを示唆している。(P.59)
伝統的な量子論では 電子などの対象はその波動関数によって表現されると考えられており、例えば「電子がどのように振る舞うのかを予想したいなら、電子の波動関数がどのように時間発展するかを計算すればいい。計算結果によって、電子がある性質(例えばある特定の場所に存在すること)を示す確率がわかる」(P.56)そうで、「波動関数は対象の性質を記述する数学的表現」(同)なのだそうです。「Qビズムは量子論と確率論を結びつけ、波動関数には客観的な実在性がないと考える」(同)ようです。
「観測者の自由意思によって設定された測定が行なわれるたびに、
世界は少しずつ新たに生まれて形をなしていく」。
そのようにして、
私たちは現在も進む宇宙の創造に積極的に関与しているのだ。
(P.60)
「観測者の自由意思によって設定された測定」とは 「概念」や「モノカタる」ことにとても似ているように観じます。そして 私の中では 物理も数学も言葉も ひとつらなりのものとなっていくのでした。