「ひとつ」ということについて 記したものです。
ゼミのテーマは「岡潔再考」。
岡潔さんという数学者の存在を知ったのは 下記の文章にも記してありますが 数年前のこと。本屋で平積みになっていた 小林秀雄さんとの対談本を購入し、その内容にいたく共鳴したのでした。
そのゼミは 岡潔さんのことを学ぶのではなく、岡潔さんが(その本のなかで)行なっていた「日本語で数学を語る」ことを目的としていました。ちょうど数(学)と言葉(*日本語)について考えていた私には タイムリーな機会でした。
拝啓
いつもより早い梅雨を経た 初夏の候
マリアナ諸島近海で発生した台風7号が 先島諸島と台湾を通過し 華南へと上陸している最中に、初めてお便りさし上げます
新潮文庫の『人間の建設』 拝読しました。
私がこの本を買ったのは 確か2009年の晩秋だったと思います。
高校を出てから数学とはまったく縁のなかった私が、たまたま入った本屋さんで平積みにされているのを目にし なぜか心引かれたのでした。数学というものに興味はありながらも 現行の数学に接点を見いだせないもどかしさを感じていた私に、この本の佇まいは何か訴えるものがあったのかもしれません。岡さんのお名前も その時まで存じ上げませんでした。
数年前となる当時の記憶は定かではありませんが、本を一読して 非常に心に残りそして今の残り続けているのが、岡さんが語られる「数学における一という観念」でした。
「一を仮定して、一というものは定義しない。一はなにであるかという問題は取り扱わない。」(P.103)
「私がいま立ち上がりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。一つのまとまった全体というような意味になりますね。(略)一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というものも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。」(P.104)
「たとえば人が立とうという気持ちで立ちましょう、それは筋肉運動ではありますが、気持次第で千差万別の立ち方がありますね。そういうことを何がさせているのかということが、実は一つもわかっていない。」(P.106)
岡さんが語る言葉の内容をきちんと消化できないものの、何か 少なくとも私にとって大切なことが記されているという直観が あったのでしょう。岡さんの言葉で言うなら「情緒」となるのかもしれませんが 私が言うところの「(魂の)けしき」に触れるものが、岡さんが語る「一」の奧に垣間みることができたのだと思います。岡さんと小林さんの対談を読んで数学の世界に触れてみようという気持ちになり、『人間の建設』を読み終えると 図書館の書架で目にとまった数学の本を数冊借りてきました。すると その中にも 私の魂の「けしき」につながる言葉があったのです。
「ひとつにみえてほんとうはひとつひとつ」
それらの文字が 途切れることなく 円を描いて記されていました。
別のところから読み始めれば
「ひとつひとつにみえてほんとうはひとつ」
岡さんが語る「一」を思い出しました。
それから数年経った今 『人間の建設』を改めて読んでみると、なかなか読み進めることができないほどに いろいろな箇所で響くものがあり 思うことがあります。もう一度読み返すと 数日前とは異なる読み方ができ 異なる気づきや思いが現れます。そんなわけで 岡さんにお伝えしたいことはたくさんあるのですが うまくまとまらず、それでも 整理されない混沌とした意識の中で くっきりと浮かび上がるのは、やはり数年前と同じく 「一」ということ なのです。
私には、岡さんが本の中でおっしゃっている「情緒」も「こころ」も「感情」も「超自然界の実在」も 「一」という言葉に集約できるように感じます。ただ 個人的には、「一」よりも 実感としてしっくりするのが「ひとつ」という言葉です。
その「ひとつ」について考える際 私はいつも ある体験を思い出します。
それは 音をテーマにしたワークショップでのことでした。
20数名の参加者が輪になって 思い思いに「あー」という声を出すのです。
講師が「終わり」と言うまで息を継ぎ継ぎ「あー」と言い続ける、そういうワークでした。
岡さんの「一」についての言葉と出逢った直後に書いた物語のなかに そのときのことを元にした記述がありますので、やや長くなりますが この手紙の地の文として記すよりも その時の感じが現わされているように思うので、ここに引用いたします。
(いま気づいたのですが、物語の中でこのワークを指導している人物の名前が 岡清志。どうやら 当時の私にとって 岡さんの印象はかなり強かったようです(笑)。物語の場所は とあるカフェ。途中に出てくる磐座という人物が 『人間の建設』の中の「一」の話に感銘を受け、その話を聞いた岡清志が このワークを提案した、というのが話の流れです。)
*
テーブルを動かして空間を作り、岡を除いた12人が輪になる。そして、岡の合図で一斉に「あー」と声を出した。
「息が切れたら また継いで、僕が『おわり』と言うまで 出し続けてください」
第一声は、高低さまざま てんでんバラバラだった。光海は、両隣のロジャーとはるかの声の落差の中で 自分の声の落ち着き場が無いような気がした。一方に合わせると もう一方に合わなくなる。合わない声は 摩擦のような圧迫感を光海に与えた。
「頭で考えないで 自然に声を出して」
岡の指示が飛んだ。
光海は合わせることを止めて、自分が出したい声 身体と心が楽な声を出すことにした。すると、声の高さが 自然に変わっていった。何か流れに乗るように。そして、それまでバラバラにあちこち散らばっていた声が 次第に大きなまとまりとなっていくのが 分かった。
12人の声が 合わせようとしたのではなく 合うべき場所で合う。光海はその中で声を出しているのが とても気持ちよく 楽しかった。目を閉じて声を出していると 光に包まれるようなイメージが沸いてきた。
「はい、おわりましょう」
岡の声で 店の中に静寂が戻った。いや、光海の身体は 目に見えない音で振動し続けている。
「一人一人の声が 最後にはひとつ になりませんでしたか?」
岡は 楽しそうにみんなの顔を見回した。
それぞれが頷きながら 隣の人と感想を言い合っている。
「いやぁ、岡くん。まさに、一、ですな。いい体験をさせていただきました」
磐座は、子供のように頬を上気させている。
「自然というのは どうやら合理的な働きを好むようで、自然に任せると効率的にエネルギーを使うんですよね。さっきのことで言えば、周りと対立した音を出しているよりも 同調・協調した方が効率がいい。だって お互いの声のエネルギーを使うことが出来ますからね。だから、自然に任せると バラバラだった音が協調的になっていく・・・。というのが、現時点での僕の仮説なんです」
テーブルをもとに戻しながら 岡が言った。
「岡さんが言う“自然”て、どういうもの?」
カウンターの椅子に腰掛けていた玲羅が 尋ねる。
「う・・ん そうだねぇ。そう聞かれるとうまく答えられないんだけど、例えば 誰かの声に合わせようとか 誰かが自分の声に合わさせようとしても うまくいかないんだ。それぞれが自分の思いを手放して ただ声を出す。管のようになって声を出す。その時にうまく調和するんだよね。だから、人の思いが入らない状態ってことになるのかな」
「ふーん・・・」
「僕もよくわかっていないんだ。玲羅ちゃんも考えてみてくれる? で、分かったら僕に教えて」
「うん、やってみる」
玲羅は目を輝かせ 弾んだ声で答えた。
*
この物語の中では「自然」という言葉で表現していることが、いまここで私が言う「ひとつ」(につながるもの)なのです。岡さんが語る「世界の始まりとしての 親子の情」(P.108)も、ここに記した「ひとつ」と とてもよく似ているような気がします。その中で岡さんは「世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情はわかるが、自他の区別は感じていない。時間という観念はまだその人の心にできていない。ーーそういう状態ではないかと思う」とおっしゃっています。上記の発声のワークのときに感じた世界は ここで岡さんが描く景色ととてもよく似ているのです。自他の区別を感じていない というよりは 自他の区別が気にならず、ただ そこに現われる 声がつくる音の世界だけを感じている…。
以前からときどき思うのですが、モノコトの本質 というか 大切なことは、異なる(=個となる)「ひとつ」同士の あわい にあるのではないでしょうか。そして、その「あわい」における現象が移り変わるさまを記述する方便として 時間というものが生まれたような…。
コトバ遊びのようなものですが
時間 → 事間=モノコトのあいだ
とき → 通来=とおりくるもの
なんてことを考えたりもするのです。
また、その「ひとつ」と ひとの意識のありようは とても密接な関係があるようにも観じています。そのことに関して、以前 あるイタリア料理のお店で体験したことを紹介させて下さい。
広々としたオープンキッチンの店内は ほぼ満席で、それぞれのテーブルでは それぞれが思い思いに時を楽しんでいました。その中を それぞれの仕事に専念しているフロア係が きびきびと動きはたらいています。おしゃべりの声 食事の音 フロア係が通り過ぎる音 キッチンで料理する音 そして それらすべての気配…。
ある意識状態では バラバラな雑音としか思えないそれらのものが、別の意識状態では すばらしい「ひとつ」のハーモニーを奏でていました。誰かが指揮棒を振っているわけではありません。自然に、バラバラなものが、えも言われぬ 美しく歓びに満ちたハーモニーとなっていたのです。
このことは、冒頭に挙げた岡さんのコトバの3つ目のもの…「気持ち次第で千差万別の立ち方があります」ということに つながるような気がします。
意識次第でそこからうまれる現実は異なり、
同じ現実であっても 意識によって見える景色は異なる…。
ひとの意識によって 発見される/創造される「ひとつ」は 千差万別になるのかもしれません。
そんな 意識によって観えるモノコトが違ってくる という現象を、すくなくとも日本語の世界では表現することができるのは、とても興味深いことです。
同じ音でも違う意味を持つ多義性に富んだ日本語は、同じ文字 同じ文章であっても 読み手の意識によって 多様に読むことができる不思議な性質を持っています。それに漢字という 文字で音を変換させるツールを加えれば、更に 多様な読み方が可能となります。
“そのように”つくられた和歌は 8通り以上の読み方ができる、とおっしゃった方がいました。いま具体的な事例をここに記せないのは残念ですが、私自身の体験としても そのことは理解できます。
この世の出来事というのは、
ある人にとって 多様な意味を持ちつつ
そこに居合わせた全ての人に対して 決して同じではない意味を持ち
その意味もまた それぞれの人にとって多様なものになります。
そんな「現実」を表現するのに 日本語というコトバは とても適しているように感じるのです。
数学では 数字では、そういう表現は可能なのでしょうか?
本の中で岡さんは 詩と数学は同じ と語られていましたが、
私も 言葉と数は 本質において とても似ているのでは、と観じています。
いま私が数学というものに興味を持っているのは それゆえなのでしょう。
「ひとつ」の“けしき”を現わすコトバ(=事場)としての数と言葉 というものに とても関心があるのです。
私が正しく理解しているかどうかはあやしいですが、私が理解している限りにおいて 言葉は まるで量子のようでもあります。
位置(=名詞)と動き(=動詞)、どちらかを確定させれば 一方が不確かになり その性質が薄れて/消えてしまうのです。しかし 両方ともにフォーカスしすぎず 甘いピントで捉えるならば、名詞であり動詞であるコトバ(=事場)が現われるのです。後者に関しては、果たして量子についても言えるかどうかは分かりませんが…。
すみません。
まとまっていない文章であることは 承知しています。
実はこの手紙は、あるゼミに申し込むために必要に迫られて書いているものなのです。
その締め切りが 今日。
通常なら こんなふうに頭の中がとっちらかったままの状態で ひと様に手紙を書くことはないのですが、今回はいたしかたありません。
もう終わりにいたしますので なにとぞご容赦下さいませ。
最後に 岡さんへの質問を記して 手紙を終えたいと思います。
すでに一つは書きました。
それに加えて あと 三つお伺いいたします。
『人間の建設』の対談が行なわれたのは 昭和40年です。
現在の岡さんは 「一」ということについて どのような理解をしてらっしゃるのでしょう。
そして、その「一」の世界において 言葉と数は それぞれどのようなはたらきがあると 観てらっしゃるのでしょう。
それから、「ある意味では自然をクリエイトする立場に立っている」「できていく数学」(P.114〜P.115)というものを、私のような“言葉のひと”に分かるように 説明していただくことは可能でしょうか?
長い拙文に最後までおつきあい下さり 本当にありがとうございました。
どんな形であっても お返事をいただければ幸いです。
2013年07月13日(土)
岡潔さま