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 先日放映されたテレビ番組『明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜』の「三の巻」と「四の巻」を観て、「武」というコトバの源を知りたくなり 漢字の語源ではいつもお世話になっているサイトで調べたところ、興味深いことが書かれていました。


 現代では藤堂明保が武の語源を解き明かした。藤堂は武のグループ幕(武・賦)、馬のグループ(馬・罵)、莫のグループ(莫・摸・募・驀など)、無のグループ(無・舞・撫)、巫のグループ(巫・誣)、明のグループ(明・盟・萌)、皿のグループ(皿・孟・猛)などを一つの単語家族にくくり、これらの語群はMAK・MAG・MANGという音形と、「探り求める」という基本義があるとした(『漢字語源辞典』)。
 武の根源にあるイメージは「無いものを求める」というイメージである。無いものを求めるためにがむしゃらに突き進む。


 武と舞はみなもとが同じ と感じていましたが、武と舞のコトバの祖音/語源が「MAK・MAG・MANG」であり 舞の訓読み[MAI・MAU]の音にその面影を大きく留めているのは おもしろい限りです。<参照:ツイッターでのつぶやき

 今日 上記のことをブログに書き留めるにあたって、以前どこかで「王朝を最初に開いた皇帝に武の名/諡が贈られ それを発展させた皇帝に文が贈られる」というような趣旨の記述を目にしたような記憶があり そのことも書き加えておこうと調べたのですが、見つけることができませんでした。が、その検索の過程で大紀元「一舞(武)両用の智慧」という記事に出逢いました。
 神韻芸術団のホームページより転載されたその文中に 次のようなくだりがあります。


この「一舞(武)両用」の中には、実は神の文化の博大な智慧を秘めています。道教の祖である老子は、「天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。」と言いました。中国人の考え方には陰陽の概念があり。宇宙のすべてのものは相対的であり、陰と陽は共存し、物事には正と負、難と易、長と短などがあると考えています。これは道教思想における宇宙の運行の重要な法則です。もちろん、武術(舞踏)にも同じ原則が当てはまります。実際の戦闘に使われた武術は、暴力を止めさせたり、世の中を安定させたり、善良な人々を守ることができますが、武術という手段自体は、目的を達成するためには流血まで惜しなく[原文ママ]残酷で暴力的なものです。そこで、陰と陽を補うという宇宙的な法則に則って、舞踊が生まれました。舞踊は武術の出身ですが、柔らかな資質を持ち、善良さと美しさで観客を感動させることができます。兵事や武器を動かすことはないが、時に戦争よりも強大な力を発揮することができます。


 この文章の書き手は、武から舞が生まれたと捉えています。
 しかし、私には、上掲した「武」の原義から 藤堂明保さんが言う単語家族としての身体的うごきのコトバから「武」や「舞」などが生まれたと捉える方がしっくりきます。

 探り求める。うごき。

 何を?

 世界のバランスを。動的平衡を。

 2011年に縁あって第10回クイチャーフェスティバルのお手伝いをした時、担当作業の合間を縫って目にしたあるクイチャーが印象残っています。男性二人(か数人)が棒を持って地面を突く動作をしながら舞う姿です。この貴重な機会を提供してくれた宮古島出身の友人とは、武と舞は同源・同根という認識を共有しており、彼女もそのクイチャーが目に留まったようでした。
 大地という不知の領域につながる場を 棒で突き叩き、地上の世界に欠けているものを呼び起こしている。そんな行ないとして 私には観えたのです。
 この友人も私も、武も舞ももともとは神事であったと捉えています。

 神。
 このコトバの語源も非常に興味深いのです。


 神にどんなコアイメージがあるのか。
 古人は「神は申(伸びる)なり」「神は信(伸びる)なり」という語源意識を持っていた。稲妻は雨を予想させる。雨は植物の生長を予想させる。こんな連想から、植物を伸ばし生長させる不思議な力をもつ存在として神が捉えられた。


 現代において用いられる「神」というコトバには 数千年にわたった蓄積された人間の思いが積み重なっているため、個人的に あまり使いたくないコトバでした。しかし、この語源 このコアイメージに基づいてならば 抵抗なく使えそうです。
 話がやや逸れてしまいましたが、武や舞という行ないがはたらきかけていた先は この意味における神というもの。たぶん最初は、枝や石などの自然物をもちいて あるいは 身一つで、「MAK・MAG・MANG」するという 武と舞の前段階のうごきがあったのだと思います。その過程で、神を感受する体の 神や世界/宇宙への応答が、体の使い方を多様化させ、それがとなり 型となり、世界/宇宙への応答の延長線上に 対人の(平面的な)振る舞いとして 現在使われる意味での武力というものが派生してきたのではないでしょうか。そして、他者に対せず 天や世界や宇宙に対する(垂直的な)振る舞いとして 舞という括りがうまれたのではないでしょうか。


 話を 神韻芸術団の文章に戻しますと、ここに書かれてある陰陽のような「ものごとの二元的な捉え方」について ちょうど考えていたところでした。この記事では陰陽は宇宙普遍の理とされていますが、私は異なる立ち位置にいます。
 この記事では、引用している老子の言葉を その本質とは違う捉え方をしているように思えます。

 どうして ヒトは 二元的な捉え方をしてしまうのでしょうか?

 二項対立であれ 補完・相補的な関係であれ、私にはずっと違和感がつきまとっていました。
 
 平衡している状態から 何かが動けば、その動きに応じた動きがうまれます。“きっかけとなった動き”と“それによって引き起こされた動き”という捉え方をすれば 二つの存在として認識することはできます。しかしそれは、補完的なものでも ましてや対立するものでもなく、一つの流れ・現象を部分的に区切っただけのこと。(しかも、私たちが認識できる現象に 私たちが認識できない領域も関わっているとするなら《私はそう考えています》、私たちが認識しうるバランスや動的平衡といった現象など 実際に起こっている現象のほんの一部であるかもしれません。)また、往往にしてその区切りは、平面的になり 豊かな流れを無味乾燥な数学世界の線に置き換えるようなことになってしまいます。
 その要因の一つは、「意識」と私たちば呼ぶ現象が 電気信号に拠っていることが、おおきく関わっているように思われます。
 ある閾値を超えたところであらわれるもの。
 それは、神経系統に限らず、ヒトの知覚や感受といったシステムが採用している在り方です。
 つまりは、0と1。
 区切りをはさんだ、二つの領域。

 しかしその間には 感受できない“未知/不知の領域でのつながり”が存在しています。
 ヒトのシステムにおいて 「0と1に支配される意識」を未知/不知の領域にはしわたすのは「体」です。不知の領域を感受できないけれども存在していると予め了解しているであろう“体の領域”。そこから意識が気づき学ぶことは思いのほかたくさんあるはずです。

「体に対してのアプローチの仕方がそれぞれ違う。
 で、当然出てきているあらわれが違う。
 そういうところでね、体っていうもんて ほんとに不思議やな、
 というふうに思います。
 で、構成は一緒ですからね、みんな」

 冒頭の番組の「三の巻」の最後に 武道研究家の日野晃さんがそうおっしゃったことが、とても印象に残っています。

 体を使うように 意識を使っている、私たち。
 体の使い方に沿って 意識を使っている、私たち。

 以上のように捉えるなら、私がいま武術というものに観ている可能性は 武のおおもとのコトバを観ている、ということになりそうです。
 体の可能性が智の可能性、ひいてはヒトの可能性。
 そんなふうに思えてなりません。



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