先日アップしたブログの記事の中で 「以前どこかのブログにも書いたと思うのですが」と記しました。が、どうらや勘違いをしていたようです。「“現在”とつながっているのは身体である」ということを書いたのは、ブログの記事ではなく 数学のゼミの課題として提出した文章であったことに 昨日気づきました。
参考までに その文章をアップしておくことにいたします。
課題は、「自分にとっての「感覚や思考を調整する風景」を見つけて下さい」。前にも この課題に対して記した文章をアップしましたが、思考のプロセスをまとめる意味もあったため 最終的な“こたえ”を記すのに 7つの段階…つまり7つの小文を書くこととなりました。この文章は そのなかの2番目のものです。(ちなみに 以前アップした文章は7番目のもの)
参考までに その文章をアップしておくことにいたします。
課題は、「自分にとっての「感覚や思考を調整する風景」を見つけて下さい」。前にも この課題に対して記した文章をアップしましたが、思考のプロセスをまとめる意味もあったため 最終的な“こたえ”を記すのに 7つの段階…つまり7つの小文を書くこととなりました。この文章は そのなかの2番目のものです。(ちなみに 以前アップした文章は7番目のもの)
***
2013/07/29(月)+加筆修正2013/08/03(日)
今朝 窓を開けたとき なつかしい香りが部屋へ流れ込んできました。
この時期の 山道の香り、です。
その香りは 瞬時に私を どこかの山のなかへと連れていきました。
これまで登った山の どこ とは言えず、
しかし 確かに知ってる“けしき”へと…。
私は 町のなかの家にいながら、
樹々や土や朝露の香りに包まれて 深呼吸をするのです。
香りが呼び起こす風景やけしきが 私の場を調整する…
いまの家では そのようなことが ときどき起こります。
晴れた日の ひとやま越えた海から運ばれてくる潮の香りは、ムンバイの浜辺へ。保育園ぐらいの年齢の子ども達が サリー姿の先生と波打ち際を歩き、白いシャツを着た男性が 素朴な木の椅子に海を向いて腰掛けて ひげを剃ってもらっている、あの平和でのびやかなけしきへと。
ひと雨きそうな低気圧の気配に満ちた空気に 島の香りを見つけると、これまで旅した島々のけしきが入り交じって 私の意識に流れ込んできます。そして私は 海と山と緑のいきいきとほとばしるエネルギーに 包まれるのです。
考えてみれば、いま私が住んでいる場所が 「感覚や思想を調整する風景」のひとつ と言えます。
土の香り
草花や木の匂い
鳥や虫の声
風が運んでくる気配
雨の音 雨の匂い
空の移ろい
影の輝き
それらすべての存在 …形や動きや質感
「いま」という時空は とても不思議です。
まるで私の過去の総目録が 「いま」のなかに置かれていて、「いま」起こる何かをきっかけに、具体的な あるいは 抽象化された 過去のデータが呼び起こされる、かのようで…。
そう考えれば、過去(の体験/のけしき/のデータ)というものもまた 計算力(*計算=com-putare:共に考える)を持ち、その 過去にうまれた計算回路へはしわたすものは 「いま」の体験なのでは、と思うのです。
「ひと(の意識)を“現在”につなぐものは 身体」
という友人の言葉を 思い出します。
意識は いま目の前にあるモノコトから離れることができますが、
身体は 「いま」起こっていることから 離れることはできません。
もしかしたら、ひとが使いうる様々な計算力を統べるのは 身体なのかも…、と思ったりもするのです。少なくとも現時点では、認識を新たにするには/意識を調えるには 身体という場が必要だと観じています。(ただ やみくもに身体からアプローチするのは 危険だとも思っています。)
そして、「いま」どこにいるのか ということ
“現場”というものが
非常に大切なのかもしれません
ある“現場”に身を置くことで インスピレーションや直観を得ることが あります。その場へ行かなければ インスピレーションや直観が得られない、という方もいらっしゃいます。刑事ドラマでも 行き詰まったら現場へ行け という台詞が出てきますね(笑)。
“現場”という 非常に具体的な場/リアルな場は、身体と同じく
さまざまな見えない計算回路を媒介する場/保持している場
のように観じるのです。
それは 物質の特性のひとつ なのかもしれません。
どういう仕組になっているのかは わかりませんが…。
現場
あらわれる/あらわれている/あらわされている 場
自分のなかの心理的/意識的なブロックや滞りが減っていけばいくほど 自分の存在が軽やかになっていけばいくほど、自分を取り巻く世界との距離が近くなっていくことを、少なくとも私は体験しています。どんどんリアルな実感が増し(orリアルな実感を取り戻し) 現場に近くなっていくのです。
それは 現場にある(在る/生る) ということ。
よくいわれる「いまにある」という状態と 似ているのかもしれません。
意識の領域が調うことで
身体が本来のはたらき その潜在能力を発揮できるようになる、
ような気もしています。
自分の場を調えることで
他者(*環境を含みます)とのあいだも調い
「ま(間・真)」が調えば調うほど
つまり 「ま」がクリアになればなるほど
ことなった(異なった/個となった)モノコトの「ま」の潜在力(*それが何なのかはわかりません。。。計算力を引き出すはたらき でしょうか…)をいかすことができ、“この世界が持つ計算力”を引き出すことができるのかも…
この世界と(より広く より深く 存分に)一緒に考えることが(=com-putare)できのかも…。
「ま」がクリアにある
「ま」がととのう → 「ま」にあうことができる?
「ま」であうことができる?
私たちは、直接の言葉や 文字や 絵画や 音楽などを通して あるリアルな「けしき」を体験することができます。その「けしき」が その発信者の観た「けしき」と同じかどうかはわかりませんが、少なくとも 人というものは その場を通して ある「けしき」を他者へ伝えることができるようです。自分と受け手におけるはたらき方は異なるかもしれませんが、自分が持つ回路(のなにがしか)を 他者と分かち合うことができる、ということなのだと思います。
その共有も 「いま」において 起こること。
現場があってこそ おこなえること ではないでしょうか。
【なぜか最初に記しておきたいこと】
「いま」という現場
今朝 窓を開けたとき なつかしい香りが部屋へ流れ込んできました。
この時期の 山道の香り、です。
その香りは 瞬時に私を どこかの山のなかへと連れていきました。
これまで登った山の どこ とは言えず、
しかし 確かに知ってる“けしき”へと…。
私は 町のなかの家にいながら、
樹々や土や朝露の香りに包まれて 深呼吸をするのです。
香りが呼び起こす風景やけしきが 私の場を調整する…
いまの家では そのようなことが ときどき起こります。
晴れた日の ひとやま越えた海から運ばれてくる潮の香りは、ムンバイの浜辺へ。保育園ぐらいの年齢の子ども達が サリー姿の先生と波打ち際を歩き、白いシャツを着た男性が 素朴な木の椅子に海を向いて腰掛けて ひげを剃ってもらっている、あの平和でのびやかなけしきへと。
ひと雨きそうな低気圧の気配に満ちた空気に 島の香りを見つけると、これまで旅した島々のけしきが入り交じって 私の意識に流れ込んできます。そして私は 海と山と緑のいきいきとほとばしるエネルギーに 包まれるのです。
考えてみれば、いま私が住んでいる場所が 「感覚や思想を調整する風景」のひとつ と言えます。
土の香り
草花や木の匂い
鳥や虫の声
風が運んでくる気配
雨の音 雨の匂い
空の移ろい
影の輝き
それらすべての存在 …形や動きや質感
「いま」という時空は とても不思議です。
まるで私の過去の総目録が 「いま」のなかに置かれていて、「いま」起こる何かをきっかけに、具体的な あるいは 抽象化された 過去のデータが呼び起こされる、かのようで…。
そう考えれば、過去(の体験/のけしき/のデータ)というものもまた 計算力(*計算=com-putare:共に考える)を持ち、その 過去にうまれた計算回路へはしわたすものは 「いま」の体験なのでは、と思うのです。
「ひと(の意識)を“現在”につなぐものは 身体」
という友人の言葉を 思い出します。
意識は いま目の前にあるモノコトから離れることができますが、
身体は 「いま」起こっていることから 離れることはできません。
もしかしたら、ひとが使いうる様々な計算力を統べるのは 身体なのかも…、と思ったりもするのです。少なくとも現時点では、認識を新たにするには/意識を調えるには 身体という場が必要だと観じています。(ただ やみくもに身体からアプローチするのは 危険だとも思っています。)
そして、「いま」どこにいるのか ということ
“現場”というものが
非常に大切なのかもしれません
*
ある“現場”に身を置くことで インスピレーションや直観を得ることが あります。その場へ行かなければ インスピレーションや直観が得られない、という方もいらっしゃいます。刑事ドラマでも 行き詰まったら現場へ行け という台詞が出てきますね(笑)。
“現場”という 非常に具体的な場/リアルな場は、身体と同じく
さまざまな見えない計算回路を媒介する場/保持している場
のように観じるのです。
それは 物質の特性のひとつ なのかもしれません。
どういう仕組になっているのかは わかりませんが…。
現場
あらわれる/あらわれている/あらわされている 場
自分のなかの心理的/意識的なブロックや滞りが減っていけばいくほど 自分の存在が軽やかになっていけばいくほど、自分を取り巻く世界との距離が近くなっていくことを、少なくとも私は体験しています。どんどんリアルな実感が増し(orリアルな実感を取り戻し) 現場に近くなっていくのです。
それは 現場にある(在る/生る) ということ。
よくいわれる「いまにある」という状態と 似ているのかもしれません。
意識の領域が調うことで
身体が本来のはたらき その潜在能力を発揮できるようになる、
ような気もしています。
自分の場を調えることで
他者(*環境を含みます)とのあいだも調い
「ま(間・真)」が調えば調うほど
つまり 「ま」がクリアになればなるほど
ことなった(異なった/個となった)モノコトの「ま」の潜在力(*それが何なのかはわかりません。。。計算力を引き出すはたらき でしょうか…)をいかすことができ、“この世界が持つ計算力”を引き出すことができるのかも…
この世界と(より広く より深く 存分に)一緒に考えることが(=com-putare)できのかも…。
「ま」がクリアにある
「ま」がととのう → 「ま」にあうことができる?
「ま」であうことができる?
私たちは、直接の言葉や 文字や 絵画や 音楽などを通して あるリアルな「けしき」を体験することができます。その「けしき」が その発信者の観た「けしき」と同じかどうかはわかりませんが、少なくとも 人というものは その場を通して ある「けしき」を他者へ伝えることができるようです。自分と受け手におけるはたらき方は異なるかもしれませんが、自分が持つ回路(のなにがしか)を 他者と分かち合うことができる、ということなのだと思います。
その共有も 「いま」において 起こること。
現場があってこそ おこなえること ではないでしょうか。
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