文字には 「シンボル(=象形)としての側面」(*実線の部分と 線によってくくられた間の部分。一種の構造・建築物ともいえます) 「音としての側面」(*音にリズムや抑揚も加わり それは身体にはたらきかけます) 「意味としての側面」(*抽象性。多層性・多次元性。アナログの領域から立ち上がるデジタルの領域)、があります。
身体が世界への扉であり 身体が思考を支えている、と認識している私は、そういう文字の特性を考えたとき 手で文字を書くことの意味は かなり大きいのではないかと観じるのです。さらに 発声しながら手書きすることがもたらし育むものは もっと大きいのではないか、と。
この文章はパソコン上で書いたものですが、その前段階として 思いついたり浮かんだりしたことがらを 紙に書き留める、という作業が存在しています。また、この文章は 声に出しながら書いたわけではありませんが、文字を書くとき 同時に頭の中で発音していますし、黙読して うまく内容を捉えきれなかったり何か流れが良くないと観じた箇所は 実際に声に出して読み上げます。すべてを頭で行なうより 身体全体をプロセスに組み込んだ方が より快適で よりスムーズに事が運ぶように、現時点では思えるのです。
昨秋 建築士の方や自動車会社に勤めていた方とのおしゃべりの中で、「コンピュータで設計するようになって 欠陥やミスが増えてきた」というお話がありました。これは統計的に裏付けのあることではないので その真偽は保留しておきますが、手描きの図面とコンピュータで描いた図面とでは 確かに何かが異なるような気がします。
興味深かったのは、「手描きの図面だと 上司や同僚などまわりの人が作成途中のものを(自然に)目にする機会があり その段階でミスに気がつくことがあるけれど、CADで描いているものは ファイルを開いて覗くことができないから 出来上がるまで他の人の目に触れることがない」という指摘でした。(身体が関わると 自ずからオープンになる/隙間ができる、ということなのかもしれません。)
画面上で線を描くこと と ペンを持って紙に線を引くこと では、明らかに 身(syn・シン)-putareの稼働状況が異なります。身体を使うことで/プロセスに所作を組み込むことで 身体が記憶したり保持しているデータや機能が発動し、シン-putareが活性化する、ように思えるのです。
そう認識するなら、多様な要素が組み込まれているプロセスの方が 身体やシン-putareのはたらきが大きい、と考えることができます。たとえば 本を読むということも、電磁波だけの回路を通じて電子書籍を読むことよりも、紙やインクや物質としての印字に触れる“紙媒体としての本”を読むことの方が、手触りや香りや材質といった多様な要素が含まれています。また 考えるにしても、人工的なものに囲まれた環境と 豊かな自然の中とでは そのプロセスに作用する要素の多様さは大きく異なります。ただ、多様な要素があることや 刺激が多いことが 一概に良いとは言えませんが…。
シン-putareを経て
シンプルな形としてあらわされたデジタル的なもの
(*データや情報など)は、
合理的な思考を強力に後押しし 容易にしてくれます
デジタル(digital)の語源は ラテン語の「指(digitus)」。
指で数をかぞえるところから
離散的な数を意味にするようになったとのこと。
このことを知ってから、
指をデジタル 手のひらをアナログ
と捉えることが増えました。
その比喩を使うなら
シン-putareは “手のひら”の領域のものとなります。
手のひらがあるから指が動くわけですが、
手のひらでは決してできない細かな作業を
指によって行なうことができます。
digitusという語が
tell, say, point outを意味するdicereという語にも関係している、
というのは
それらの行為と数というものの本質的なつながりを
観じさせてくれて 興味深いです。
「文字を書く」という 非常にシンプルな、ある意味では 包含される要素が乏しいと思われるそのおこないも、冒頭に記したように よくよく観れば 豊かな側面を備えているのでした。
アルファベットの字源についての本の中に、文字の象形を 身体の象形に対応させた記述があります。人によっては突飛に思われるかもしれないその内容は、少し前に読んだボディ・メソッドの本でも触れられていたことであり、発声によって身体へのはたらきかけができることを知っている私には ごく自然に受け入れられ 読み進めることができるものです。
そのボディ・メソッドの本によれば、「声を使って音を出すことは最古のセラピーのひとつとみなされていて、古代エジプトですでに行なわれて」いたとのこと。声の振動と身体の関係をよく観ていくなら、コトバの象形である文字と その音と 身体(のしくみ)には おそらくなんからの関係があると思われます。
ただ いまここでは 音の要素は除いて、上述のボディ・メソッドの本を参考に 文字(*母音)の象形と身体の象形を照らし合わせてみることにします。
身体が世界への扉であり 身体が思考を支えている、と認識している私は、そういう文字の特性を考えたとき 手で文字を書くことの意味は かなり大きいのではないかと観じるのです。さらに 発声しながら手書きすることがもたらし育むものは もっと大きいのではないか、と。
この文章はパソコン上で書いたものですが、その前段階として 思いついたり浮かんだりしたことがらを 紙に書き留める、という作業が存在しています。また、この文章は 声に出しながら書いたわけではありませんが、文字を書くとき 同時に頭の中で発音していますし、黙読して うまく内容を捉えきれなかったり何か流れが良くないと観じた箇所は 実際に声に出して読み上げます。すべてを頭で行なうより 身体全体をプロセスに組み込んだ方が より快適で よりスムーズに事が運ぶように、現時点では思えるのです。
昨秋 建築士の方や自動車会社に勤めていた方とのおしゃべりの中で、「コンピュータで設計するようになって 欠陥やミスが増えてきた」というお話がありました。これは統計的に裏付けのあることではないので その真偽は保留しておきますが、手描きの図面とコンピュータで描いた図面とでは 確かに何かが異なるような気がします。
興味深かったのは、「手描きの図面だと 上司や同僚などまわりの人が作成途中のものを(自然に)目にする機会があり その段階でミスに気がつくことがあるけれど、CADで描いているものは ファイルを開いて覗くことができないから 出来上がるまで他の人の目に触れることがない」という指摘でした。(身体が関わると 自ずからオープンになる/隙間ができる、ということなのかもしれません。)
画面上で線を描くこと と ペンを持って紙に線を引くこと では、明らかに 身(syn・シン)-putareの稼働状況が異なります。身体を使うことで/プロセスに所作を組み込むことで 身体が記憶したり保持しているデータや機能が発動し、シン-putareが活性化する、ように思えるのです。
そう認識するなら、多様な要素が組み込まれているプロセスの方が 身体やシン-putareのはたらきが大きい、と考えることができます。たとえば 本を読むということも、電磁波だけの回路を通じて電子書籍を読むことよりも、紙やインクや物質としての印字に触れる“紙媒体としての本”を読むことの方が、手触りや香りや材質といった多様な要素が含まれています。また 考えるにしても、人工的なものに囲まれた環境と 豊かな自然の中とでは そのプロセスに作用する要素の多様さは大きく異なります。ただ、多様な要素があることや 刺激が多いことが 一概に良いとは言えませんが…。
シン-putareを経て
シンプルな形としてあらわされたデジタル的なもの
(*データや情報など)は、
合理的な思考を強力に後押しし 容易にしてくれます
デジタル(digital)の語源は ラテン語の「指(digitus)」。
指で数をかぞえるところから
離散的な数を意味にするようになったとのこと。
このことを知ってから、
指をデジタル 手のひらをアナログ
と捉えることが増えました。
その比喩を使うなら
シン-putareは “手のひら”の領域のものとなります。
手のひらがあるから指が動くわけですが、
手のひらでは決してできない細かな作業を
指によって行なうことができます。
digitusという語が
tell, say, point outを意味するdicereという語にも関係している、
というのは
それらの行為と数というものの本質的なつながりを
観じさせてくれて 興味深いです。
「文字を書く」という 非常にシンプルな、ある意味では 包含される要素が乏しいと思われるそのおこないも、冒頭に記したように よくよく観れば 豊かな側面を備えているのでした。
*
アルファベットの字源についての本の中に、文字の象形を 身体の象形に対応させた記述があります。人によっては突飛に思われるかもしれないその内容は、少し前に読んだボディ・メソッドの本でも触れられていたことであり、発声によって身体へのはたらきかけができることを知っている私には ごく自然に受け入れられ 読み進めることができるものです。
そのボディ・メソッドの本によれば、「声を使って音を出すことは最古のセラピーのひとつとみなされていて、古代エジプトですでに行なわれて」いたとのこと。声の振動と身体の関係をよく観ていくなら、コトバの象形である文字と その音と 身体(のしくみ)には おそらくなんからの関係があると思われます。
ただ いまここでは 音の要素は除いて、上述のボディ・メソッドの本を参考に 文字(*母音)の象形と身体の象形を照らし合わせてみることにします。
「A」:声帯(*喉頭の前から甲状軟骨と披裂軟骨に延びている)、
恥骨尾骨筋、腸骨筋、など
「I」:脊柱、直筋(*恥骨から顎まで続く筋肉の連鎖)、
篩骨から尾骨に至る筋膜のつらなり
「U」:横隔膜、骨盤底、
(脳を支えている蝶形骨も含めることができるでしょうか)
「E」:「天に向かって両手を挙げた人間」を描いたシナイ文字に由来し
それが右向きに横転して現在の形に至ったEの文字は、
頭と肩と両腕のつながりを描いた線と観ることができます。
もともとの文字は 胴も描かれていたことを考えるなら、
全身の骨格のつながりをなぞった象形と捉えることもできます。
「O」:口、頭、横隔膜と骨盤底(で囲まれた領域)、
頭頂と骨盤底(で囲まれた領域)、
各種臓器、血管や神経や筋膜の断面、細胞、粒子のスピンなど
【注】
文字のラインを 身体の中に描くことは、意識によって身体にそのラインを描き なぞること。ですから、身体の中に文字の象形を重ねて発声することは、そのラインに添って身体にはたらきかけること、になります。実際、そのように発声することで 確かに 身体のその部分に作用していることがわかります。
文字の象形と その象形に添えられた音によって
身体にはたらきかけ その部分を活性化させる…
文字というものを、
身体のデザインに添って
身体の機能をよりよくはたらかせる
「柔軟なイメジェリー」の一つとして用いる、ということ
「音によって身体にはたらきかける」というと、スピリチュアルな領域における これまでの秘術的なアプローチ すなわち 意識による身体のコントロールが思い起こされます。それは魔術の領域のものだと 私は理解していますが、それらの魔術的なアプローチと いまここで記したアプローチが決定的に違うのは、後者においては 身体のデザインという物理的な“現実”が土台となり それに意識が寄り添う、という点です。
私が認識している限りにおいて、
さまざまな修行やスピリチュアルなアプローチ(の幾つか)は
脳と身体のつながりに対して
意識/脳の側からはたらきかけるものでした。
そういったアプローチにおける
身体についての知見が根拠とするのは、
現実の身体の実際ではなく
意識が認識した身体の在りようであり
ある人が内面で認識した現象であった、
と言うことができるのかもしれません。
身体がどのようにデザインされているのか
という視点を持てるのは、
現在だからこそ。
ですから これまでの知見が
内面的な体験によって把握された身体観であった
というのは 当たり前のことではあります。
意識が主となったそれらの知見は
意識の暴走を許す余地を残しています。
それは、身体本来の合理的なデザインから外れた身体の在りようを
作り出すことが可能です。
そして 実際にそのようなことが起こり、
現代人の健康状態や精神状態にあらわれている、
と観ることができます。
*
今回 母音の文字の象形を 身体の中に見つける作業において、Oという象形の幅広さに気づかれ また 驚かされました。「OM(オーム)」というコトバが真言とされる理由が 少しわかったような気がします。しかし、呪文のように言葉を唱えることと 自分が口している言葉や音の意味や働きを理解して発声することには 大きな隔たりがあります。
ボディ・メソッドの1回目の記事に書いたように、自分が何をしているのかがわからない ということは、自分がいまここにいない つまりは 生きていない、ということ。それは 自らの行ないに責任を持たない/持てない ということでもあります。(ですから、これを読んで(何か奇跡的なことを期待して)「オー、オー」と呪文を唱えないでくださいね。)
いのちというものは
時間をかけて 少しずつ 変化していきます。
ですから 一瞬にして何かが好転するという
「奇跡」というもの/「奇跡」という概念は
いのちには なじみの薄いものなのかもしれません。
奇跡を欲し 熱望するのは 意識
枯木に花を咲かせようとするのも 意識ですし
スプーン曲げや透視に興奮するのも 意識です
いのちは とき というもののはたらきと大切さを
よく知っているのだと思います
とき/時間 とは
ものごとの変化をあらわすための一つの尺度。
変化の過程やプロセスにフォーカスしたもの、
と言えるでしょうか。
ですから 社会の在りようについても
百年の計はいうまでもなく
千年単位のスパンで俯瞰する視点が必要なのかもしれません
(実際 二千年後の材木のことを考えて
400年の森づくりを始めている 林業家もいらっしゃいますし、
「千年続く」文化や学びを掲げている方たちも
いらっしゃいます。)
そんなスパンを俯瞰する思考を支えるものとしても
人の一生の時間を軽く超える 「木」や「森」というものの
意味や働きは、存外 大きいように思われるのです
体験や実感/実観に裏打ちされたコトバを使うことの大切さ、を このところよく考えます。そして、意識や身体を合理的にサポートする コトバの使い方、についても。後者については ボディ・メソッドのシリーズでいずれ文章にする予定です。
コトバを体現する ということは 有言実行(*意識と言葉と行ないが一致する という意味で使っています)ということでもありますね。
【注】“宇宙がたとえどんな形であろうとも それは必ず最大で8種類の異なる断片から成り立っている”という「サーストンの幾何化予想」は、ポアンカレ予想が解かれる過程で証明されました。(ウィキペディアでは、サーストンの幾何化予想は「コンパクト三次元多様体は、幾何学構造を持つ8つの部分多様体に分解される」と説明されていました。)この図は ポアンカレ予想についてのテレビ番組で使われていたもの。ネット上にアップされていたので お借りしました。
この宇宙を構成する8種類の多様体すべてに Oの象形を見出すことができます。
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