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先日参加したボディ・メソッドのワークショップ
印象に残った言葉の一つに、

「機能の体現が、機能を向上させる」
というものがあります。

これは、昨年の夏に通った数学の講座で伝えられた 数学者・岡潔さんの言葉と共通するものです。岡潔さんは「あまりにも抽象的になりすぎた数学」に警鐘を鳴らし、「情緒」と結びついた数学を打ち立てようとされました。


   (心や大自然のような)わけのわからないものを
   計算とか論理とかに収斂させるな


   心を記述するのではなく
   心は心の理法に
   大自然は大自然の理法に まかせて
   その心をもって
   数学をし続けることで わかっていく


(この文章は 講師が語った言葉を 私が理解した範囲で書き留めたものですから、これがそのまま岡さんの言葉ということではありません。また、講師の言葉そのものでも たぶん ありません。文章から 岡さんそして講師が伝えたかったことを汲み取っていただければ、と思います。)


それは、

自分を客観視するのではなく
自分を使って行為することで
心や自然や宇宙というものを
理解していく

というアプローチです


この世を知覚する主体(=ヒト)が 知覚されるものの一部である事実は、知覚する対象を 完全に自分から切り離して 客観視することはできないことを 意味します

つまり私たちに出来るのは、
システムの一部として いきるなかで
システムの何たるかを少しずつ理解し、
部分と全体の相互作用/共進によって
全体がかわっていく ありさまを体験すること

その
もっとも身近で もしかしたら根源的な体験ができる場は
ひとりひとりの身体なのかもしれません


全身と脳はリンクしていて
身体における体験が変われば 脳の体験も変わっていきます

脳の体験が変わるということは
思考の体験が変わるということ

かんがえること と からだ は
イコールではないかと思えるほど かなり密接な関係があります


そもそも
今回私が あらためて身体に関心を持ったのは
言葉や思考のはじまりについて考えていた延長においてでした。
それは、直立二足歩行という“画期的な身体的な変化”を主たるきっかけとして ヒトは抽象的な思考や意識を獲得した、という認識に基づいています。


かんがえること は
身体の場を介して
行動や体験 と分ちがたく結びついているのでしょう

そう捉えるなら
身体を機能的に動かすこと
身体を快適に使うこと

合理的な思考や
快適な思考

相補的であり
共進するもの
と観ることができるのではないでしょうか


  これまでの修行やスピリチュアルなアプローチのように
  意識の主導によって一方的に身体をつくりかえる
  ということではなく



全身でかんがえること
トータルにかんがえること
について
かんがえていきたいとおもいます
昨日の記事に関連して、この夏に行なわれた数学のゼミへの申し込みの際に提出した 岡潔さんへの手紙を アップしておきます。
「ひとつ」ということについて 記したものです。


ゼミのテーマは「岡潔再考」。
岡潔さんという数学者の存在を知ったのは 下記の文章にも記してありますが 数年前のこと。本屋で平積みになっていた 小林秀雄さんとの対談本を購入し、その内容にいたく共鳴したのでした。
そのゼミは 岡潔さんのことを学ぶのではなく、岡潔さんが(その本のなかで)行なっていた「日本語で数学を語る」ことを目的としていました。ちょうど数(学)と言葉(*日本語)について考えていた私には タイムリーな機会でした。
今まとめている文章を受けて、
数学のゼミの課題として7月にまとめた文章を
先にアップしておくことにしました。


その課題とは、


  自分にとっての「感覚や思考を調整する風景」を見つけてみて下さい。
  写真、絵、言葉、音など 自由にその風景を表現した上で、
  その風景の中のどこに
  action、perception、understanding、imaginationがあるかを
  考えてみて下さい。


というものでした。

数学において 直線と平面の濃度が等しいことが証明されている、

ということを初めて聞いた時は 耳を疑いました。

なにしろ 直線上の点と平面上の点の濃度が同じ、というのですから…。

   集合論では、

   二つの集合の間に一対一対応がつくれる場合

   「濃度が等しい」と表現します。

驚きはそこに留まらず、それを展開していくと 一対一対応は どんどん次元を超えてゆき、何次元であっても濃度は等しくなるというのです。それを証明した数学者・カントールですら「私は見た。しかし信じられない」と言ったとか。


   その証明については

   『無限論の教室』の「第四週」(P.40~P.57)や
   ウェブ上の情報をご参照下さい。

この証明は「あまりにも直感に反する」と書いてある方もいるのですが、私はこの証明を知った時 自分の直観と合致していたので 驚くと同時に非常に嬉しく思いました。マクロコスモスとミクロコスモスは照応している という、私自身の実感/実観であり 一部では自明のこととして伝えられてきたことが、数学的に証明されたと考えられるからです。それまでぼんやりとしていた風景が 途端にクリアになったような気がしました。

数学の専門家ではないので 素人の勝手読みになる危険を承知しつつ書くなら、

そのことは、ミクロコスモスとしての人に 現時点では最高11次元が想定されている宇宙をうつすことができることを意味します。

「人の場」が「宇宙の場」となりうるのです。

直線と平面が決して同じものではないように、人と宇宙が同じであると言うわけではありません。こんな小さな私であっても そのちっぽけな「私の場」で宇宙のなんたるかを知り体験することができる、ということです。

更に想像を広げていけば、私の場における「直線」は 宇宙と一対一対応をつくれる、ということにもなっていきます。その “私の場における「直線」”として現在想定し得るのは、身体を縦に貫く 芯/軸としての直線です。

わたしの「しん」と宇宙を接続することができる…

のかもしれません

そのためには

わたしの場をクリアにしておく必要がありそうです。

   ある方が 人間は底のない筒の状態で生まれたのではないだろうか、

   と話していましたが、私も 同感です。

   ひとの場は、

   詰まりのない筒抜けの状態 パイプのような状態が

   本来の姿であるように観じます。

   それは 「ひと」という直線…

   しかし 様々な理由から

   私たちはパイプを詰まらせていきます。

   それを取り除きながら

   私たちは 何かを学び 知り そして手放しながら

   少しずつ宇宙に出逢ってゆくのでしょう。

わたしの場が軽くクリアになっていくに従って

徐々に広がっていく宇宙とのパイプ。

それによって自分の内側にもたらされる あらたな世界のけしき。

広がり変わり続ける「けしき」を

自らのコトバで表現し伝え合うことで

「世界」はよりそのカタチをあらわし

「世界」はより豊かになっていくような気がします。

まるで 「ひと」という線の糸によって

織り成す布のように…



compute(計算する)という単語は、「共に」を意味するcomと「木の剪定」を意味するラテン語のputareに由来するputeによってつくられています。「木を剪定する」とは「かたどる」ことだからでしょうか ひいては「考える」ことを意味するようになったようです。ですから、com-putareとは 「共に考える」という意味に取ることができます。

あるいは comは意味を強める接頭語でもあるので、com-putareは「徹底して考える」と解釈することもできます。徹底して考えるとは 使える限りのものを使って最大限考えることですから、「共に考える」ことにつながってくるのではないでしょうか。

…と、ここまで書いたところで ある女性ワイン醸造家の記事を読みました。

ワインの生産者のもとで短期間収穫などを体験しただけで その作り手に「ワインをつくってみたら」と勧められ ほとんど経験のないまま「直観」に従ってワインづくりを始めたのだそうです。(以下はその文章からの引用です)

   畑での栽培、醸造など全ての工程で自分の感性を大切にし、

   剪定から耕転、除草など作業のタイミングや方法は、

   畑の声に耳を傾けて行なうと言います。

   醸造においても一貫してブドウのポテンシャルを自然な形で

   最大限に引き出す事のみに注力しており、特別な介入を行ないません。

   エネルギーに満ちたブドウを収穫し、

   そのブドウがワインに進化していくプロセスを信じて待つ。


そんなスタイルでワインを作る彼女は
畑での時間を特に大切にしていると言います。

   自分一人で畑に立ち、

   ブドウ樹一本一本と向き合いながら作業をする剪定が

   最も幸せを感じる瞬間であると言い、
   常にブドウの声に耳を傾けています。

私はこの文章を読んだときに、「剪定」つまり「putare」が意味するところを知ったような気がしたのでした。



   あいたいするものに真摯に向き合い

   その声を聞いて

   いきるように ものかたる



この意味における「putare」には
既に「com」(*「共に」という意味であれ 強意であれ)が含まれています。

そう知れば、computare/compute/計算する とは、
なんと無限の可能性に満ちた ワクワクすることなのでしょう。

自らの小さな脳に 無限の世界を接続していく、こととも言えます。

また、日本語の「かんがえる」という言葉も、

computareに通じる なかなか味わい深いものがあるように思えるのです。



   かんがえる

   観・変える/交える・・・視点

   間・変える/交える・・・層/相

   感・変える/交える・・・感性 感覚

   関・変える/交える・・・関係性


いずれの意味においても 閉じた世界だけで達成できる事ではありません。

computareと同じく 自らを世界にひらいていくことが 暗に含まれています。





「数学(mathematica)」とは
既に知っていることを
発見する
そのために
かんがえる
かんがえるとは
自分と世界との相互作用であり恊働作業
自分と世界の
間に 境に
たちあわられるもの
その「あわい」にいきること




これから 「かんがえる」ことを はじめます


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