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 講演の中で触れられる「安直な等式化」は、“さまざまな舞台の出来事が複雑に絡まっている日常”における「わかり急ぐこと」に通じます。脳は分からない状態を嫌うので、ヒトにとって「分からないままにしておく」ことは決して心地よい状態ではなく、“とりあえずでいいから理解できること、結論めいたもの”を求めてしまう。だけど その性急さは得てして思考停止につながり ものごとの捉え方を狂わせます。そこで焦らず先を急がず「分からないまま」に踏みとどまる。そんなじれったく苦しい状態を 内田樹さんは「中腰の構え」と名付けています。中腰のままでいるには そのための余地や余裕が必要です。エネルギーにおいても (私たちが時空として認識する)スペースにおいても。そして その際に生じるであろう様々なストレス[=ひずみ]についても それを調整したり解消するのに 余地や余裕が必要です。エネエルギーにおいても スペースにおいても。
 IUTにおける「歪[ひず]み」の概念は、体の「歪[ゆが]み」すなわち体の「歪[ひず]み」にも重なってきます。ここ数年 体を整えながら実感しているのは、全身の各部位をつなぐfaciaのような細胞外マトリックスの重要性です。ヒトの体は、異なった舞台のピースが異なった舞台のまま faciaのような場を介して つながり 通信している、ように感じます。そして、本来はしなやかで臨機応変 レジリエンスを備えているそれらの場が、外力によって受けたひずみから回復するために必要な余地[=エネルギー、スペース、生体のペース]を得られないままで放置されてしまうことで、体の骨格や臓器や神経にひずみやゆがみが生じ さまざまな症状や病気として現われる---。ヒトにかかる外力は 物理的な接触といったシンプルなものもありますが、日々のさまざまなな出来事は多様な舞台が複雑に絡まった状態として やってきます。そんな外力の最強のものが 災害であったり トラウマになるような出来事。トラウマの治療に体からアプローチしている方たちがいらっしゃいますが、私には理にかなった方法に思えるのです。
(余談ながら、上記の「中腰の構え」は 細胞外マトリックスの場がサポートしてくれるように感じます。その場のはたらきに拠って、分からないものことを分からないまま 文字通り 体のあちこちに置いたままにしておける、のではないかと。)

 ここでまた素人ゆえの(そして/あるいは、安直な等式化ゆえの)飛躍を許していただきたいのですが、数学でそんなfaciaのはたらきを担っているのがたし算 に思えてしまう私は、大きさの異なるピース同士を合わせるためにピースを伸び縮みさせ その際に生じるひずみを扱うのではなく、大きさの異なるピースはそのままで (その際に生じるひずみを引き受け)それらを繋いでいけるたし算、というものを考えることはできないだろうか、と夢想してしまいます。その夢想は、さらに「成っていく数学」という幻も引き寄せてきます。それは、力づくではない 自然な数学、とも言えましょうか。

 『宇宙と宇宙をつなぐ数学』の書評から こんなことをつらつら考えていたら、梅雨が明ける直前に訪ねた場所で 岡潔さんの文章をまとめた本『岡潔 数学を志す人に』と出逢いました。そしてそこにも とても興味深いことが記されていたのです。


 「数学の本体は調和の精神である」
  <(アンリ・ポアンカレーの言葉)P.36>


 調和感が深まれば可能性の選び方、つまりは「希望」というもののあり方が根本的に変わってくるわけで、(略)数学の目標はそこにあるということができます。<P.37-P.38>

 数学というものは闇夜を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こういう世相には大いに必要となるのです。闇夜であればあるほど必要なのです。<P.46>


 アンリ・ポアンカレーの言葉はこの本で知った私ですが、前々から 数学に調和の匂いを感じていました。その匂いの源は、「数の定義」の変遷です。無理数や虚数など新しい数が発見/創出されるたびに すべての数を包含できるよう 数の定義は改められてきました。当たり前と言えば確かにそうなのですが、目の前やすぐ隣に存在している人を 同じものとして/仲間の一員として包含しようとしない、そしてまた(自分たちにとって)不都合な人間を排除・殺戮しようとする人間の姿を思うと、私たちはピタゴラス教団のようなもの[*「無理数の存在を隠していた」「無理数の存在を明かした者を海に沈めた」などの話がまことしやかに語られています]。私の目に数の世界は 調和に満ちて映るのです。まぁそれは 数というものが極度に抽象化されたもので、人間の生々しい“具体”に直接関わるものではないから、理想的な調和の世界をそこにつくることができるのでしょうけれど…。
 そして、(書評と解説講演で理解した範囲ですが)IUT理論に アンリ・ポアンカレーそして岡潔いうところの「調和」を観るのです。


 岡さんの文章から もう一箇所。


 「僕は計算も論理もない数学をしてみたいと思っている」
 (略)
 計算も論理もみな妄智なのである。(略)そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切れなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。
<P.158-P.159>


 ここには「意識の流れ」とありますが、さらにその奥に「意識の流れ」を支える「生命の流れ」があります。私が アートと掛け声に見出した共通性は、「生命や意識の流れ」なのでしょう。
 私が(狭義の)アートにおいて惹かれるのはそこからほとばしっている「生命の流れ」。アートには 技術を極めていく芸能・技芸的なものと 技や術や型に収まらない生命の流れをあらわすものがあるように思えますが、岡さんがいう「計算や論理もない数学」に対応するのが 後者のアート。岡本太郎が『今日の芸術』の中で「絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。だれでもが描けるし、描くことのよろこびを持つべきであるというのが、私の主張です。」(光文社文庫P.115)というのも、すべての人それぞれの中にある生命の流れを表にあらわすことを勧めているのに他なりません。
 そして、先ほどfaciaのはたらきを数学に結びつけて語った夢想の背後に浮かんできた幻「成っていく数学」というものと、岡さんがいう「計算も論理もない数学」。この二つは、とても近しい場所にあるように思えます。


 私の言いたいのは、ただ趣味的に受動的に、芸術愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創るという感動、それをたしかめること。作品なんて結果にすぎないのですから、かならずしも作品をのこさなければ創造しなかった、なんて考える必要もありません。創るというのを、絵だとか音楽だとかいうカテゴリーにはめ込み、私は詩だ、音楽だ、踊りだ、というふうに枠に入れて考えてしまうのもまちがいです。それは、やはり職能的な芸術のせまさにとらわれた古い考え方であって、そんなものにこだわり、自分を限定して、かえってむずかしくしてしまうのはつまりません。
 それに、また、絵を描きながら、じつは音楽をやっているのかもしれない。音楽を聞きながら、じつはあなたは絵筆こそとっていないけれども、絵画的イメージを心に描いているのかもしれない。つまり、そういう絶対的な創造の意志、感動が問題です。
 さらに、自分の生活のうえで、その生きがいをどのようにあふれさせるか、自分の充実した生命、エネルギーをどうやって表現していくか。たとえ、定着された形、色、音にならなくても、心の中ですでに創作が行なわれ、創るよろこびに生命がいきいきと輝いてくれば、どんなに素晴らしいでしょう。

<P.118-P.119>


<続く>
 あれは、いつ、どこで、だったのか。
 目にしたのは、数学の未解決問題の一つである「ABC予想」を日本人が証明した という記事。それだけなら「へぇ、そうなんだ」で終わってしまう可能性が高かったのだけれど、2012年に京都大学の望月新一教授が自身のブログで発表したその論文は 教授が20年以上にわたって独力で構築した理論に基づくために難解で ほとんど誰にも理解できなかったがゆえに 論文の査読に何年もかかっている、と知るや がぜん興味が湧いたのでした。

 独自の理論。
 異世界からやってきたかのような理論!

 自分の能力は一旦棚に上げ、既存の数学にもどかしさのようなもの[*数学に惹かれてやまないのに、既存の、少なくとも私が受けた教育では、まったく体に入ってこない。というレベルのもどかしさ《注1》]を感じている私は、当然のごとく“新しい(であろう)数学”の出現に大いなる興味を持ったのでした。
 とはいえ、論文を勉強するための国際会議まで開かれた(けれどもほとんどの参加者は理解できなかった)というその理論を 数学のド素人にせめてぼんやりとした輪郭や気配だけでも示してくれる人は見あたらなかったし、自力で理解に向かうエネルギーは(少なくとも当面は)なかったので、熱い興味を心の片隅にそっと置いたまま日々を過ごしていたところ、今年になって、望月教授の「宇宙際タイヒミュラー理論」の“エッセンスを一般の読者に向けてわかりやすく紹介”した本が出たことを知りました。

 『宇宙と宇宙をつなぐ数学』
 心くすぐられるタイトルじゃありませんか!!

 とりあえず図書館の蔵書を調べてみると、あります、あります。なんと10人以上が予約待ち。でもまぁすぐに読むという感じではなかったので、待ちきれなかったら買うことにして とりあえず予約を入れ、それでも本の内容は気になるからウェブで情報収集したところ、HONZでの書評が目に留まったのでした。
 その中の「たし算とかけ算を分離する」という一文は、ずっと私の中でモヤモヤしていた“たし算とかけ算の関係”に風を吹き込み こんな気づきをもたらしてくれました。

     かけ算とは 新たな「一」を立ち上げること
     (「新一」という望月教授の名前が浮かびました。笑)


 かけ算を用いれば たし算で同じ数を足し重ねていく計算を容易にし簡潔に記述できることはわかるものの、そして 仮にそれがかけ算誕生の経緯だったとしても、素人ながら さまざまな数式において累乗が果たす役割に思い致せば、たし算と同じ土俵で考えるにはいささか無理がある というか 文字通り場違いな印象があったのでした。《注2》


 「一」は 私に数学への興味の扉を開いてくれたものです。正確には、数学者の岡潔さんが『人間の建設』で語っている「数学における一という概念」です。


     一を仮定して、一というものは定義しない。
     一はなにであるかという問題は取り扱わない。
                           <P.103>



 この文に触れてからというもの「一」というものが気になって仕方ありません。ひいては数という存在全般への興味へと広がっていきそうなものですが、(実際そういう部分もありますが)私は「一」のトコロに留まったまま、惹きつけられたまま、です。
 「一」とは、ある“まとまり”、“存在する”をあらわすコトバ。ヒトの認知や知覚の出発点とも言えます。ゼロや虚数の発見・創出も まず「一」があってこそのもの。突き詰めればor対応化を推し進めれば 数は0と1に集約できてしまうので、コンピューターが0と1だけで記述されることも理解できます。

 HONZの書評に貼られていた動画の 著者・加藤文元さんの講演で もっとも強烈に脳裏に残っているのが、エドワード・フレンケルの喩え[=学校で教わる数学は 完成図のあるジグソーパズル、研究における数学は 完成図のないジグソーパズル]をもとに 宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)が従来の数学とどう違うのか、の説明で用いた比喩です。【*映像の23分あたりからご参照ください】

     「IUT的な数学は、大きさの違うピースをはめる」


 IUT的な数学とは、普通の数学では「ぴったりはめる」ことができない「大きさの違うピース」を、互いに異なる「舞台」に属するものとして<はめる>。その上で、その際に生じる「歪[ひず]み」を定量化する。”のだと言います。
 「(異なる舞台上の)大きさの違うピース」を(そのまま)同一の舞台のものとして扱うことで生じる歪み[*IUT的数学で扱う(互いに異なる舞台に属するものとしてはめる際に生じる)歪みに通じるのものがあるように思えます]は、社会の至るところで見受けられます。いえ、様々な問題は 異なる舞台にある大きさの違うピースを同一の舞台のものとして扱っていることから生じているように 私には思えるのです。そのような状況が存在していることは、相手の土俵に乗る とか (自分と)同じ土俵に引きずり込む、というような表現に見て取ることができます。グローバル化 然り。経済システム 然り。啓蒙主義 然り。宗教や精神世界やスピリチュアル 然り。そのことを自覚的に行なっているのが洗脳なのでしょう。
 もっと言うなら、人と人が関わりあうこと自体が、大きさの違うピースをはめ合せているようなものです。ヒトに共通する知覚・認知システムはあるとしても それが同じようはたらいているとは誰にも断言できません。同じものを指して「赤」と呼んだとしても それぞれが知覚しているその色が同じかどうかは誰にも確認できないように…。人はそれぞれ違う舞台に存在している、ということは 少しずつ理解され始めているように思えますが、<はめあわせる>舞台がどうあるべきか とか 適切な舞台が用意されたとしてもそこで扱うことによって生じる歪み については、私たちはまだ無自覚というか ほどんどその存在の必要性・重要性に気づけていないというのが現状ではないでしょうか。



 IUTでは、この2つのピースは2つのかけ算です。そして、一方のかけ算は他方のかけ算に比べて伸び縮みしてしまっていて変形されています。それを いま言ったような異なる舞台を使ってはり合わせる、ということをします。それがまぁΘ[テータ]リンクと呼ばれるものになってくるわけです。これがIUTとは何かということに対する一つのまぁ比喩ということになります。
 “違う「舞台」の上で、たし算をそのままにして、かけ算部分だけ伸び縮みさせた「同じ」コピーを作って結びつける。”という考え方になるわけです。
 しかしながらですね、本来違うピースを、あるいは同じ大きさではないピースを、形式的に あるいは 同語反復的にという感じでもありますが、つなげよう、関係づけるということをしますから、しかもしれは左と右では異なった舞台に属するものですから、これを安直に等しいまた一個の舞台に戻してしまうということをすると、そのイコールは矛盾が起こります。ですから、ここは気をつけなければいけないところで、安直な等式化はそのままではできません。従って等式ないしは不等式…普通の数学に戻る…普通の数学に戻そうというのはちょっと語弊があるんですが、そういうことをしようとすると歪[ひず]みが起こります。IUTの重要なポイントは、この歪み…すなわち 異なる舞台間の通信をすることによって起こる歪みというものを その大きさを計測することができる、というところにあります。これが実はIUTの重要定理の一つになります。その大きさを計測することによって、異なる舞台にあったものの間にこのような形の不等式を出す その歪みの分というのがここに現れています。そして、このような不等式を出すことによってIUTが例えば「ABC予想」のような不等式を出してくるということになるわけです。

<加藤文元さんの講演より>

<続く>



《注1》
 ヒトが(世界を)認知する場を 一片の膜[*2次元]とし、人の数だけ さまざまな傾きや向きを持って浮かんでいる空間に、円柱[*3次元]の形をした数学の場というものが これまた浮かんでいると想定した場合、既存の数学は 例えば円柱の長方形の形を認識している人たち(つまりは数学の専門家)によって記述されているようなもので、円や他の断面を認識している人にとって 理解しにくいものになっているような印象があるのです。


《注2》
 私たちは、それが持つ可能性や それがいったいぜんたい何なのか を分からないまま、様々なものを発見/創造して 用いている。言い方を変えれば、私たちは、そうとは知らずに発見/創造したものの 奥深さを、少しずつ理解していく…。
 おもしろい現象です。



 11月6日、脳科学者の池谷裕二さんが次のように呟いていました。



【五感】
視聴味嗅触の五つの感覚のうち、視覚と聴覚はとりわけ重視されます。
しかし、これは英語を中心とする言語圏の特徴にすぎないようで、
その文化圏で用いられる言語体系によって
どの感覚が重視されるかが異なるそうです。
今朝の『PNAS』誌より



 文字通り体すべてを使って“全体”で思考するトータルな活動が 現在そしてこれからの人にとって重要になってくると考えている私にとって、この内容は示唆的です。
 人の感覚・認知は五感に限定されないもっと全体的なものであると思っていますが、五感に限っても視覚と聴覚という 非常に多くの情報を処理できる感覚であるがゆえに突出してしまった二つの感覚の偏重が、現在のアンバランスさを生み出している一因 というよりも かなり主要な原因の一つであるように思えます。「日本語の文章が視覚的になって ただちに映像が浮かぶようなものになっている」という趣旨の 以前どこかで目にした一文は、“英語を中心とする言語圏”の(価値観・思考・思想などの)影響を強く受けた“日本語の現在”を(図らずも)指摘していたと言えそうです。
 現在、世界のコミュニケーションは英語を中心に進められています。英語は、松岡正剛さん曰く「混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語」とのこと【*注】。そんな出自が 異なる母語の話者にとって使いやすいツールとして 政治力学とは違う側面からも英語の拡散を後押ししているのかもしれません。
 しかし、言語は概念の体系であり 認識が立ち上がってきてモノ・コトが起こる「コト場/事場」であり 本質的には翻訳は不可能であると考える私は、様々な分野の最先端の知が英語によって いや 英語に限らずひとつの言語によって構築され共有さている現実に 危惧を覚えます。世界の認識が一元化してしまうからです。
 それぞれの言語・コト場が本来持っている感覚を改めて取り戻しand/or獲得しand更に進化させ その立ち位置から“全体で”思考する人々が、特定の言語に偏ることなく情報を交流・共有させ 地球規模の多元的な“全体の思考”を創り出すことから、次代の新たな地平がひらかれていくのではないでしょうか。

 言語/言葉は、それぞれの集団の文化であるにとどまらず、ヒトが世界とコミュニケートする扉であり 認知の基礎であり 可能性の泉であり 未知を耕す鋤であり耕された土であり、それゆえに地球の公共財なのです。





【注】


 十一世紀以前のイギリスは多数の民族の到来によって錯綜していた。ブリトン人、アングル人、サクソン人が先住していたうえに、そこへケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンディナヴィア人、イベリア人などがやってきて、最後にノルマン人が加わった。大陸の主要な民族や部族は、みんな、あのブリテンでアイルランドでウェールズな島々に来ていたのだ。全部で六千もある島々だから、どこに誰が住みこんでも平気だった。
 この混交が進むにつれて、本来は区別されるべきだったはずの「ブリティッシュ」と「イングリッシュ」との境い目が曖昧になる。いまは我がもの顔で地球を席巻している「英語」とは、こうした混成交差する民族たちの曖昧な言語混合が生み出した人為言語だ。それゆえOED(オックスフォード英語辞典)後の英語は、これらの混合がめちゃくちゃにならないようにその用法と語彙を慎重に発達させて、「公正(フェアネス)」や「組織的な妥協力」や「失敗しても逃げられるユーモア」を巧みにあらわす必要があった。
 こんな事情にもとづいてイギリス人たちは、自分たちの起源神話をギリシア・ローマ神話にもケルト神話にも、ゲルマン神話にも聖書にも求めることにした。恣意的で、ちゃっかりした編集である。

(『擬 MODOKI 「世」あるいは別様の可能性』P.108)




【補記】


 「人口過密」も、社会において視覚と聴覚が重視される傾向を推し進めているように思います。例えば、満員電車の中で“見知らぬ他人からパーソナルスペースを著しく侵害され、場合によっては体を接触させる”という異常な状態を日常的に耐えるには、触覚や嗅覚を麻痺させる必要があります。嗅覚は味覚と深く関わっていますから 嗅覚の鈍化は味覚の鈍化へ繋がっていきます。生物としてのヒトが 持てる感覚を豊かにすることはあれ鈍化させることがないようにするには、空間的にも時間的にも一定のスペースが確保されることが必要です。
 また、ヒトが関わる情報において (視覚と聴覚への入力が圧倒的な)コンピュータなどデジタルの割合が増えていくことも、同様の傾向を加速していることでしょう。

 言葉と“全体”のつながりを深めていくことが、思考を深め 多様な認知を育み 人の可能性をひらいていくために必要だと私は思うのです。
 体を動かすとき「よいしょ」とか「どっこらしょ」と言うのは、全身に「これからこういう動きをしますよ」と知らせて 関係各位相互の連携をスムーズにする働きがあるんです。お世話になっている整体師のAさんからそう聞いたとき 私の脳裏をよぎったのは、「それって アートと一緒だ!」ということでした。少なくとも 今の私にとってのアート、表現すること、と。

 何年前のことだったか、ある時期から「脳を外部化したい」「思考を外部化したい」という欲求が芽生えた私は、やがて「それはつまり、脳という一つの臓器に限定しないで((閉じつつ)開かれた)体全体で思考したいってことなんだ」と気づきに至り[*さらにその先に、思考を個々の体から文字通り外部化した“集合意識的な思考”というものも想定しているのですが、ここでは触れません]、その流れの中で 体を整えることに加えて、アート…内なる何かを表に現わす「表現」というものが 私が欲している思考に大きく関与し たぶん不可欠なものなのだ、と感じるようになりました。そして、「表現する」という行いから “こうあるべき”という既成の様々な条件付けを その時々の自分にとって必要かつ可能な限り排除し、そう まさに体を動かすときに「よっこらしょ」と声を出すような感じで、内側で捉えたナニカ、内側にある「現れようとしているモノコト」「動き出したがっているナニモノカ」をできるだけ漏らさず掬うように捉えて外へ現わそうとするようになりました。
 …と書くと なんだか大層なことをしているように思えますが、要は “いろいろな場面において「適切な言葉を探す」”というようなことにトライしているわけです。体の側から見れば 新たに“体全体の思考回路”を構築している、ということになるのでしょうか。
 ですから、今の私にとって、スマホで写真を撮ることも 俳句や詩みたいな言葉を綴ることも 書のようなものを描くことも 声を出すことも[*うまくいけば歌になります] 動きで現わすことも[*うまくいけば踊りになります] 庭をつくることも、「作品や何かをつくる」というよりも「思考という行いの一部」という側面が強いのです。そしてまた、体を整えること 庭の手入れをすること 掃除や整理整頓をすること 体が喜ぶ食べ物を摂ること 本を読むこと 考えがまとまらないまま或いは思考しながらしどろもどろに伝えてもそれを許容してくれる友人にメールを書いたり話したりすること等が、「(全身で行う)トータルな思考」に欠かせないと、実感しています。

 考えてみれば 思考という行いは、環境との相互作用において体が感受した情報の中から 脳で処理されるものが連携・統合され さらにその中から言語化可能な部分を言葉によってまとめること。であれば、私のいうアート/表現は 思考のプロセスであると同時に思考のための掛け声である、ということになりますし、そしてまた 思考という行い自体が 次の思考のための掛け声でもある、つまり《(アート/表現≒思考)=掛け声》、ということになりそうです。
 ARTの語源を調べてみると 「to fit together」を意味する語にたどり着きます。
 生き物は 環境や世界と互いにto fit togetherすることで生き延び 変化/進化していくわけですから、「生きること 生命というものが、アート」であり、上記の考えからすれば思考もto fit togetherすることであると同時にそのための行いですから「生きること 生命というものが、思考である」と言うこともできそうです。
 いやいや 逆でした。
 生命を礎にして 思考やアートの行いがあるわけですから、「アートや思考が 生きることであり生命(のある側面)」と言う方が適切なのでしょう。「皮膚は第三の脳」という表現が 発生過程から見れば「脳は第三の皮膚」と言うべきものであるように。
 まぁ、所詮は 定義の話に過ぎないのですけれどね(笑)。
 とにかくここで言いたいのは、生きることや生命と アートや思考は とても近しく、切り離すことのできない ひと連なりのものである、ということです。

 さて。
 思考や表現というものは、木から像を彫り出すことに例えると 結構しっくりきます。
 木の中に彫り出すべき像が埋まっていて それを彫り出していく---
 彫刻家は しばしば 自らの行いについて そのような言い方をします。彫り出すべき像が 初めから観えている場合もあれば、漠とした何かを頼りに或いは導かれるように彫り進める場合もあるでしょう。思考や表現もまた 自らが捉えた像を彫り出すことであり、と同時に その彫り出すプロセスや彫り出した像が さらに奥に埋まっている像を彫り出すための一刻みとなっていくのです。
 そんなことをつらつら追っていくと、思考や表現というものは、本当に彫り出したい像 本当に手で触れたい像を かたどっていく“刻みという行い/プロセス”や刻む作業で生じる木屑でしかないのかもしれない、とも思えてきます。本当に彫り出したい 本当に手で触れたいものは 思考や表現を鋳型として浮かび上がってくる(空)間のようなものかもしれない、と。

 この“木から像を彫り出す”例えは、私に 『無限論の教室』(野矢茂樹・著)での「可能無限」の説明を思い起こさせます。野矢さん曰く、無限というものをどのように解釈するかということにおいて、“線分には無限個の点がすでに存在している”というような 無限のものがそこにあると捉える「実無限」と、“線分を切断すれば点が取り出せる。そしてそれはいつまでも続けていける。その可能性こそが無限であり、その可能性だけが無限”と捉える「可能無限」の二つの立場があるそうです。


「線分には無限個の点は存在しない、そこにはいつまでも点を切り取っていく果てしない可能性があるだけだ、と先生は言われましたよね」
「言いました」
「もし無限個の点が線分上にないとすると、ないものは取り出すことはできないので、無限個の点を取り出す可能性もない、ということにはなりませんか?(略)」
「ないものは取り出せない。だから、あるはずだ、と」
「ええ」
「なるほどねえ。…だから、トーモロコシみたいなものじゃないのですね。むしろ大理石から彫刻を彫るみたいなものなのですよ」
「というと…」
「トーモロコシから粒を取り出すようなことなら、あらかじめ粒がついていなければ取り出せませんね。しかし、大理石の塊から彫刻を彫るとき、その彫刻はすでにその大理石の内にあったのでしょうか。これはつまり、取り出すのではなく、作り出すわけですね。線分から点を切り取ると言ったのも彫刻の場合と同じようで、埋まっているものを拾いだすのではなく、作るのです。大理石の塊はそこから姿を切り出してくる無限の可能性を秘めています。」

(P.37〜P.38)


 私が捉えるアート/思考/表現と 野矢さんが言うところの可能無限のイメージは、さらに私を 量子論における真空の理解へと誘[いざな]っていきます。量子論において真空は 何もない空間ではなく 粒子と反粒子が対生成と対消滅を絶えず繰り返す「ゆらぎ」を持っていると考えられています。その「真空のゆらぎ」のイメージが 私には「可能無限」と重なり、そして アートや表現につながっていくのです。

 あれれ。
 話が、掛け声から けっこう遠いところまで来てしまいました。
 まぁ、私の中に このように話が展開していく…つまりこのように情報がつながっていく回路がある、ということですね。そして、これを記したことによって また別の回路が模索され始めるのでしょう。それが どういう現れ/表現となるのかは わかりませんが、思考もアートも表現も いわば“体の使い方”。もやもやと何かが立ち込めて来たり湧き上がって来たら とりあえず「よっこいしょ」とか「どっこらしょ」と掛け声をかけて(できれば体も一緒に動かして)みることにしましょうか。





【追記】(2018/09/02)

 体全体で思考することについての 参考として。
 「体現によって理解し変わる」

 脳科学者の池谷裕二さんがツィッターで、“脳MRI像を再精査したら実は脳に男女差はなかったそうです。典型的な男性・女性の行動パターンを示す人もわずかだとか。来月の『神経画像』ほか。”と呟いていて、これらサイトリンクされていました(*2016年12月31日)。
 また2日後の1月2日には、“【続】MRI所見なのであくまでも脳のマクロ構造に性差がないという意味です。例えば「女性は脳梁が太いから○○なのだ」という俗説が再否定されたわけです。もちろんミクロ構造には差があると思います。ただ「男らしい行動」「女らしい行動」は人々が思うほど明確な差はなく、誰にでも両方が見られます。”との追記が。

 これらを読んで思い出したのが、NHKの番組「美と若さの新常識 若さの秘薬!性ホルモンを生かせ」で紹介されていた、“女性ホルモンであるエストロゲンを作り出す酵素が 記憶を担う海馬の神経細胞をつなぐシナプスのスパインで作られている”という 東京大学名誉教授の川戸佳さんの2004年の発見でした。どうやら、女性ホルモンが脳でつくられ記憶力の向上に大きな役割を果たしている、らしいのです。つまり 性ホルモン(*川戸さんは「記憶ホルモン」と呼んでほしいようでした)が 脳のはたらきに少なからず影響を与えているようなのです。

 池谷さんが書いているように 「男性らしい行動」「女性らしい行動」ははっきりしていないと思われますし、そのような決めつけが そのような傾向を助長するとも考えられますが、例えば 空間認識が女性と男性で異なる傾向があるように思える私は、性によって脳のはたらき方に違いがある(ように見える)のは 性ホルモンのバランスやはたらき方に拠るのでは、という仮説を抱いています。
 もし そうであるなら、更年期を過ぎた後の女性の脳の変化というものが とても気になります。

 女性は更年期を過ぎても いわゆる男性ホルモンであるテストステロンの量はあまり変わらないため、「更年期を過ぎた女性は、男性でいうと急速にテストステロンが高まっていく思春期とちょっと似ている」(順天堂大学医学部附属病院・堀江重郎さん)らしいのです。





 堀江さんは更に こんなこともおっしゃいます。

 「更年期以降の女性の方は伸び盛りでしょう。というのは、だいたい電車に乗っている中学生や高校生の男の子って、みんなお互いつるんでますよね。で、非常に楽しく話しながら いろいろみんなで活動して。同じです。更年期の終わった女性の方は、皆さん非常に元気で活発になっている。これもテストステロンの一つの作用じゃないかと思います」。





 もしかしたら、更年期後の女性は それまで苦手としていた思考法や認識法が得意になるかも、しれません。脳の伸びしろは それまで使ってこなかった領域にある、ということも合わせると ますます期待が高まります。

 まだ閉経を迎えてはいませんが 更年期に突入した者として、少なくとも興味の対象は これまで苦手としてきたand/or関心外の領域に 思いっきり向かってはおります。

 自らを一人の被験者として これから検証していきたいと思います(笑)。
 今朝目にした STAP細胞についての記事

 かつてSTAP細胞フィーバーといった様相を呈した時期 私は研究内容よりも 社会の異常なほどの反応に違和感を覚え、研究も含めたそれらの出来事から距離を置いて 社会の現象を眺めていました。そんなこともあってSTAP細胞の研究やその後の捏造問題の詳細に触れることなく過ごしてきたのですが、たまたま目にしたこの記事の “「慢性的な酸性環境に置く」(=「酸性浴で培養」)ことで 細胞が多様性を持つようになった” という趣旨の記述にとても興味を持ちました。

 STAP細胞報道で耳にした「酸性溶液につける」という行為を 「慢性的な酸性環境に置く」と置き換えた途端、そのことと有酸素運動の関係性が気になってきたのです。

 適度な有酸素運動は 脳を含めた全身の細胞を活性化し 細胞や神経回路を再構築していきます。細胞は 適度なストレス(*熱や重力など)を受けると ヒートショックプロテインなどのシャペロンによって、修復や書き換えが行なわれます。


ストレスは体の均衡を脅かすものだ。体はそれを克服するか、それに適応しなければならない。脳で言えば、ニューロンの活動を引き起こすものはなんでもストレスとなる。ニューロンが発火するにはエネルギーが必要で、燃料を燃やす過程でニューロンは磨耗し、傷ついていく。ストレスという感覚は、基本的には脳細胞が受けているこのストレスが、感情に反響したものなのだ。

<『脳を鍛えるには運動しかない』P.76より>


 神経科学者が「ストレス免疫」と呼ぶらしいこの現象において 細胞が初期化されたと同義に近い多様性を持つ“ニュートラル”な状態が 存在しているのかもしれません。
 冒頭の記事によれば、STAP細胞の論文には「酸性浴のほか、細胞を初期化するさまざまな刺激方法が書かれて」いたとのこと。その刺激方法とシャペロンが活動する状況を突き合わせてみたいものです。

 酸素 熱 重力…

 シャペロンを発動させる要因を見ているうちに、ふと、生命の進化の過程で(非常なる)ストレスだったもの あるいは 生命の誕生や進化における重要な働きをしたストレスが、細胞の活性化 そしてもしかしたら多様性や初期化のトリガーとなっていたりして… という思いも湧いてきます。もしそうなら 圧力や(海)水や宇宙線などもトリガーたりうるかもしれません。さらに “生命が生きのびてきた環境”や“生命を育んできた条件や要因”にまで想像を膨らませるなら、振動や電磁波/場なども細胞の変容に関わっているのでは と思えてきます。

 あと この仮説を前提とするなら、生命の維持に酸素を必要としてない(つまり酸素が生命進化においてストレスとならなかった)嫌気性の生物の細胞も 酸性浴によって多様性を持つようになるのか、ということも知りたいところです。

「金融」とは 「金銭の融通」の意とか。
「融通」とは 仏教用語で「別々のものが融け合って一体になり、通じ合う」意とか。

とすれば 金融という言葉の本義は、「別々の(所有者の)金銭が融け合って一体となり (社会に)通じ合う」。利子がついて戻ってくる 現在の金融商品のあり方とは、異なる感じがします。

回収したら 堂々巡り、
流れは閉じてしまいそう

安心して開いていられるデザインとは…
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