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ある漫画家の ある日のつぶやき



どこで自分がノリ出すかわからないのね。
何十年やってても。
言えるのはとにかく手を動かしていれば
どこかでスイッチが入るってことだ。
やり始めなければ何も始まんない。



「やっているうちにスイッチが入る」「スイッチを入れるために やり始める」のは、文章を書くことにおいても同じです。たぶん ヒトのおこないについて 言えることではないでしょうか。


いま読んでいる『単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義』には 「脳より身体の方が真実を知っている」ことが記されています。脳は、身体の反応を過去のデータに照らし合わせて いま自分がおかれている状況を捉え 意味づけし (自らの現状に安心していられるように 当面の状況をうまく説明できる)ものがたりをつくる、ようなのです。意識は 自分の取った行動を見て その根拠を説明する、ようなのです。そうやって ヒトのこころは つくられていくようです。

“意識では認識できていないのに身体はちゃんと反応している”ことを示している実験結果は 身体が思考の主たる場であるだろうと観じていた私にさえ(*Oリングテストやキネシオロジーなど 筋反射が(ある程度)機能することは了解しているにも関わらず) 大きな驚きと衝撃を与えます。

「シン-putare」は 脳科学の領域においては既に自明のことであったのですね。





【 し こ う 】


志向

始行

指向

思考

試行

思行

志行

至高
文字には 「シンボル(=象形)としての側面」(*実線の部分と 線によってくくられた間の部分。一種の構造・建築物ともいえます) 「音としての側面」(*音にリズムや抑揚も加わり それは身体にはたらきかけます) 「意味としての側面」(*抽象性。多層性・多次元性。アナログの領域から立ち上がるデジタルの領域)、があります。

身体が世界への扉であり 身体が思考を支えている、と認識している私は、そういう文字の特性を考えたとき 手で文字を書くことの意味は かなり大きいのではないかと観じるのです。さらに 発声しながら手書きすることがもたらし育むものは もっと大きいのではないか、と。

この文章はパソコン上で書いたものですが、その前段階として 思いついたり浮かんだりしたことがらを 紙に書き留める、という作業が存在しています。また、この文章は 声に出しながら書いたわけではありませんが、文字を書くとき 同時に頭の中で発音していますし、黙読して うまく内容を捉えきれなかったり何か流れが良くないと観じた箇所は 実際に声に出して読み上げます。すべてを頭で行なうより 身体全体をプロセスに組み込んだ方が より快適で よりスムーズに事が運ぶように、現時点では思えるのです。


昨秋 建築士の方や自動車会社に勤めていた方とのおしゃべりの中で、「コンピュータで設計するようになって 欠陥やミスが増えてきた」というお話がありました。これは統計的に裏付けのあることではないので その真偽は保留しておきますが、手描きの図面とコンピュータで描いた図面とでは 確かに何かが異なるような気がします。
興味深かったのは、「手描きの図面だと 上司や同僚などまわりの人が作成途中のものを(自然に)目にする機会があり その段階でミスに気がつくことがあるけれど、CADで描いているものは ファイルを開いて覗くことができないから 出来上がるまで他の人の目に触れることがない」という指摘でした。(身体が関わると 自ずからオープンになる/隙間ができる、ということなのかもしれません。)

画面上で線を描くこと と ペンを持って紙に線を引くこと では、明らかに 身(syn・シン)-putareの稼働状況が異なります。身体を使うことで/プロセスに所作を組み込むことで 身体が記憶したり保持しているデータや機能が発動し、シン-putareが活性化する、ように思えるのです。

そう認識するなら、多様な要素が組み込まれているプロセスの方が 身体やシン-putareのはたらきが大きい、と考えることができます。たとえば 本を読むということも、電磁波だけの回路を通じて電子書籍を読むことよりも、紙やインクや物質としての印字に触れる“紙媒体としての本”を読むことの方が、手触りや香りや材質といった多様な要素が含まれています。また 考えるにしても、人工的なものに囲まれた環境と 豊かな自然の中とでは そのプロセスに作用する要素の多様さは大きく異なります。ただ、多様な要素があることや 刺激が多いことが 一概に良いとは言えませんが…。


   シン-putareを経て
   シンプルな形としてあらわされたデジタル的なもの
   (*データや情報など)は、
   合理的な思考を強力に後押しし 容易にしてくれます



   デジタル(digital)の語源は ラテン語の「指(digitus)」。
   指で数をかぞえるところから
   離散的な数を意味にするようになったとのこと。

   このことを知ってから、
   指をデジタル 手のひらをアナログ
   と捉えることが増えました。

   その比喩を使うなら
   シン-putareは “手のひら”の領域のものとなります。

   手のひらがあるから指が動くわけですが、
   手のひらでは決してできない細かな作業を
   指によって行なうことができます。


   digitusという語が
   tell, say, point outを意味するdicereという語にも関係している、

   というのは
   それらの行為と数というものの本質的なつながりを
   観じさせてくれて 興味深いです。



「文字を書く」という 非常にシンプルな、ある意味では 包含される要素が乏しいと思われるそのおこないも、冒頭に記したように よくよく観れば 豊かな側面を備えているのでした。




アルファベットの字源についての本の中に、文字の象形を 身体の象形に対応させた記述があります。人によっては突飛に思われるかもしれないその内容は、少し前に読んだボディ・メソッドの本でも触れられていたことであり、発声によって身体へのはたらきかけができることを知っている私には ごく自然に受け入れられ 読み進めることができるものです。

そのボディ・メソッドの本によれば、「声を使って音を出すことは最古のセラピーのひとつとみなされていて、古代エジプトですでに行なわれて」いたとのこと。声の振動と身体の関係をよく観ていくなら、コトバの象形である文字と その音と 身体(のしくみ)には おそらくなんからの関係があると思われます。

ただ いまここでは 音の要素は除いて、上述のボディ・メソッドの本を参考に 文字(*母音)の象形と身体の象形を照らし合わせてみることにします。
 泥みたいな材料でできた心を「無意識」と呼ぶことにすると、この「無意識」を歪めたり、抑圧したりするのではないやり方で、人の生きる社会もつくられていたほうがいいのではないか。日本列島に生きてきた人間たちは、「無意識」を泥のようにしてこね上げるやり方で、自分たちの社会をつくってきた。なんだか得体のしれないところをもっている、私たちの社会は、まぎれもないアースダイバー型の特徴をもっている。
 どんなコンピューターだって、結局はシリコンがなければつくれないが、このシリコン自体がもともと「泥」からできたものである。どんなスマートな思考も、自分だけでは存在できない。思考が空中に軽やかに飛び立っていけるのも、水中から引き出されてきた泥のような「無意識」の働きが、支えてくれていればこそである。つまり一神教の創造神話は、正直なアースダイバー神話などの前に出されれば、嘘をついていることがはっきり見えるのだ。

(『アースダイバー』P.11〜P.12)


日本列島に生きてきた人間たちは 一神教の世界に生きてきた人間たちよりは いくぶんかはアースダイバー的であるかもしれませんが、これまで観てきたように 私たちの神話も 嘘をついていることがはっきりと見えてしまいます。

だからこそ
いまこそ
神話以前にアースダイブする必要があるのではないでしょうか

ヒトが言葉や神話を持つ前の
そして ヒトが言葉や神話を持つ原動力となったであろう
森の豊かな環境とつながっているアースへ

それは 霊長類が進化した場所
霊長類が霊長類たるものになったゆえんを思い出させる その記憶を留めている場所


 奈良や近江や京都にあったこれまでの皇居は、いずれも中国の王城を模して、平地の開かれた場所に、威風堂々とつくられていた。皇帝のすまいであり政治のおこなわれる場所である王城は、都市の理想をあらわしていた。自由と秩序ということが都市の理想であり、王城はその都市性のエッセンスをあらわしていた。
 だからそれは森の中ではなく、文明のおこなわれる平地につくられなければならなかったのである。中国の皇帝は、天帝から認められて王権をふるうことのできる存在だった。だから、平地に開かれた壮麗な建物をもつ王城こそ、そういう皇帝にふさわしい場所だったわけである。
 ところがわが天皇の権威は、いと高き天の観念に支えられているのではなく、神話に支えられている。神話はこの現実の空間や時間に属さない、特別な時空間のことを語る。オーストラリア・アボリジニーは、そういう時空間のことを「ドリームタイム(夢の時間)」という、すてきな名前で呼んでいるが、天皇の権威を支えてきたのは、まさにそのドリームタイムにほかならなかった。
 神話の語られるドリームタイムは、現実の世界には属していない。文明にも属していない。むしろそれは文明の外、野生の自然のうちに見出されるのでなければならない。そうなると、天皇の権威の源泉を、文明的な都市の中に見出すことなど、不可能なことになってしまう。
 そのために、権力の根拠について根本の考え方のちがう中国の王城を模して、平地に皇居をつくったことで、わが天皇制は矛盾をかかえるこむことになった。天皇の権威の根拠を支える神話の時空は、文明の外、自然の奧にひそんでいる。ドリームランドは都市の中でも天上界でもなく、森の奧にこそ見出されなければならない。こうして、歴代天皇たちはしょっちゅう都を脱出しては、熊野や吉野の森への「隠遁(リトリート)」をおこなってきたのだった。
 すると、明治になって皇居が東京に移り、それが都市の延長上ではなく、都市の中心部にありながら、都市で展開されている騒がしい開発からぽつんと取り残された、緑濃い森の奧につくられたということには、なにかいままで十分に考え抜かれたことのない、近代天皇制の本質にかかわる、深い意味が隠されているのではないか、と思えてくる。


(『アースダイバー』P.232〜P.234)


天皇の権威の本質は、
神話にささえられてきた のではなく、
ものかたられない領域にささえられてきた、のだと思います


   それは 人々の集合意識の更に背後にある無意識の領域


日本神話も一神教と同じ変節を経ているのは 既に述べた通りです。
原初の本質と そこから変節した体制。
だからこそ、「王城としての皇居」という矛盾を その成り立ちから抱え込むことになったのではないでしょうか。現在の国家を正当化する記紀に記されたアマテラスが そのうちに矛盾を抱えているように…。

そんな天皇の住まいを東京の森に移したことで 天皇の権威を支えている私たちの意識は 少し アースに近づきました。しかし 近づいた分 現実との乖離が広がり、社会的には混迷を深めていくこととなりました。そしていま、私がこんなことを書くことができるまで 人の意識が変わっているいまこそ、ヒトの意識が育まれた森の存在が より一層 重要になっているのではないでしょうか。


   つながるのではなく
   つながっていることを自然に気づき体感できる「ひとつ」へ
   はしわたす場



「都市の中でも天上界でもなく、森の奧にこそ」アースという「ひとつ」への扉がある ように思えます。ボディ・メソッドで 身体と脳のつながりを目覚めさせるように、私たちは 森の奧で 身体によって もともとあったつながりに目覚めていくのではないでしょうか。


   黄金という輝きは みなそこにあって 輝き続けていて
   だれもが それにふれることができます

   だれかが 取り出して独り占めするものではなく
   (*本来 独り占めできるものではないのですが)
   いつも 足元から支えてくれています


そういうことに気づき 目覚めを促す場
その可能性へと誘う場
として
都市の中にこそ 森はあってほしい と思うのです

そうした眼差しで現在を捉えるとき
明治神宮の森は その意義がひときわ引き立ってきます


国家権力ではなく 国民からの発意によってつくられた明治神宮の森。
いま 新国立競技場の建設について再考が求められていますが、
神宮の 内苑と一対である外苑の在りようを考えることは

一つのスタジアムの計画を超えて
私たちの精神性や 天皇制が守り続けてきた「大切な何か」とかかわる
やや大仰に言うなら 国土創成 くにうみ をすること
のように思えます。


みなそこに潜ることなくクニをつくった神々にかわって、
今度は みなそこに潜れる人々が、
「ひとつ」とつながる あらたなクニをつくっていくとき
ではないでしょうか



それこそが、まさに com-putare
かんがえる こと



みな そこで かんがえる




[おわり]


 いま 「からだ」というものに大いなる可能性を観ている私には、世界への扉である「からだ」(及び「身体に根ざした意識」)が “みなそこ(水底、皆(の)底)”と地上の わたし となるように思えてなりません。それは 私たちが “原罪を取り除くキリスト”を経て“原罪を免れているマリア”へとかえる扉 とも言えます。
 その「からだ」のデザインが教えてくれるのは、終わったもの 役割を終えたものは 下へ、という流れです。



   異なった(=個となった)ものたちが つながっているのは
   空間で言えば 「上」ではなく「下」
   時間で言えば 未来ではなく 出発点が含まれる過去

   みなそこ・・・皆の底、皆のソ(祖・素・礎)コ(拠・処・所)

   霊は 「アース」の流れにかえす 下へかえす
   神は 「ひとつ」の流れにかえす 下へかえす

   エネルギーの処理は 下へ、足元へ

   先のものは 後から来るものを支える礎となる

   後のものは
   自分たちを支えてくれているものたちを実感/実観しつつ
   生きていく



「下」という方向を 私たちに教えてくれるのは 重力です。
視覚障碍者に垂直の感覚をつかんでもらうために 重力を使い 何度もジャンプしてもらった、と ある舞踏家がおっしゃっていました。雪崩に巻き込まれて 方向感覚を失った時は、唾液を垂らして 「下」を認識します。


   普遍・普通のものは、(空から降り注ぐ)光 ではなく
             (存在を支えている)重力


   ブレーン宇宙論では
   4つの力(電磁気力・弱い力・強い力・重力)のうち
   唯一 
ブレーン多宇宙間を行き来できるとされているのが重力

   現在 宇宙誕生の瞬間の観測の最有力候補とされているのは
   重力波


   宇宙の成分の23%を占めると観られているダークマター
   現在のような宇宙がつくられたのは
   初期宇宙にダークマターの密度のゆらぎがあったため
   と考えられており、

   宇宙の構造を支えているのは ダークマターによる重力、
   とも言えます。

   とするならば、
   「重力というのは
    各天体の部分部分が球形になりたがり一体化しようとする
    自然的な欲求だ」
   というコペルニクスの見解は それほど的外れではありません。


   「動」という文字が 重と力でつくられているのは
   とても興味深いです



私たちは 時空のそこ で つながっている…
それゆえに 古の人たちは 宇宙の象徴に「生命の木【*】」というモチーフを用いたのではないでしょうか


   禅では 日々の行ないと坐ることを大切にします

   「坐」は 土の上に 人が二人
   坐るとは 一人でいることでは ないようです

   土の上に在り 土とつながることで
   他者とつながり 世界とつながっていく…

   土の上の空間を 他者と分かち合う…

   そんな“あらわれ”に思えます


   その姿は “土という木”から芽吹く葉のようであり
   木そのもののようでもあります

   曹源寺住職の原田正道さんは、
   「坐る」ということは
   私たち自身がこの世界と一体の“いのち”を持っていきていることを
   発見していくことだとおっしゃっていました。
   そういう“いのち”に対する信頼を深めていくことが祈りであり
   それゆえに「坐禅は祈り」だとおっしゃるのでした。

   私にとっての「祈り」も
   原田さんの捉え方と近いところにあります


そこから与えられ続けている いのちの輝きは
いきることを通して
ふたたび そこへかえっていくのかもしれません

うたかた のように…


   そこ は 絶え間なく生成消滅が起こっている 真空の場
   のようなものでしょうか


戯曲「ニーベルングの指環」でも、世界を支配する力を持つラインの黄金は 最終的に ラインの水底へ還されます。


   GOLD<PIE root「ghel-」=to shine


 ラインの語源が「流れ」であるという説を採るなら、この戯曲の設定は更に興味深いものになります。また、ラインの乙女たちがアルベルヒに聞かせた「愛を断念する者がだけが黄金を手にし 無限の権力を得て 世界を支配する指環をつくることができる」という話は、封印され抑圧された女性(性)が 抑圧する側の世界(=ストーリー/枠組み)の中で 抑圧する側へ復讐しているようでもあり、開闢当時に変節してしまった神話の記録のようもあります。




【*】体=人+本
   「本」という文字は “木の根元”の意
   そこから “ねもと、もと、もとい” の意が生まれ
   “ものごとのはじめ” という意味を持つに至ったようです。
   以上から、「体」とは
   人という木の根元、人のはじまり 人のもと、
   と理解することもできます




[つづく]
EARTH<PIE root「er-」=earth, ground


GROUND
<Old English「grund」              

    bottom, foundation, ground, surface of the earth
especially "bottom of the sea"    
      <Proto-Germanic「grundus」        
 which seems to have meant "deep place"

FOUNDATION<FUND(n)<PIE root「bhudh-」=bottom, base

BOTTOM<PIE root「bhu(n)d(h)-」=同上         

BASE<Greek「bainein」=to go, walk, step        



アース



底 根底 根本 土台 基礎 出発点

深い場所



深い場所にある 進むための土台



「ひとつ」





 このブログでは 数学者・岡潔さんの名前が何度が出ていますが、家の本棚から取り出してパラパラとめくった『野生の科学』の第1章「数学と農業」で 中沢新一さんが岡潔さんのことに触れていました。


 数も論理も、私たち現生人類の脳のニューロンでくりひろげられている自然過程にループでつながってしまっています。そのため、自然過程を超越した真理として自分をしめすことができないのです。
 岡潔の抱いていた疑問は、まさにこの点にかかっていたと言っていいでしょう。ヨーロッパ人の発達させてきた数学は、自然過程を超越した真理として自分をしめすことを求めるあまり、矛盾を含まない整合的な体系の構築をめざしてきました。その結果、彼の言い方では「情緒を失う」はめになったのでした。岡潔はそこで、自然過程を自分の内部に組み込んで自らが「不思議な環」としてできているような文化をつくってきた日本人の能力を最大限に発揮することによって、「不思議な環」そのものであるような新しい数の概念を、「不定域イデアル」のちの「層」として創造してみせたのでした。

(『野生の科学』P.20)



 中沢さんは、ここで言う「不思議な環」を別の側面から語っている神話について 『アースダイバー』のなかで 次のように紹介しています。


 最初のコンピューターが、一神教の世界でつくられたというのは、けっして偶然ではない。一神教の神様は、この宇宙をプログラマーのようにして創造した。ここに空を、あそこには土地を、そのむこうには海を配置して、そこに魚や鳥や陸上動物たちを適当な比率で生息させていくという、自分の頭の中にあった計画を、実行にうつしたのがこの神様であった。神様でさえこういうコンピューター・プログラマーのイメージを持っているのであるから、その世界を生きてきた人間たちが神様のようになろうとしたときに、最初に思いついたのが、コンピューターを発明することだったのは、ちっとも不思議ではない。
 ところが、アメリカ先住民の戦士やサムライの先祖を生んできた、環太平洋圏を生きてきた人間たちは、世界の創造をそんなふうには考えてこなかった。プログラマーは世界を創造するのに手を汚さない。ところが私たちの世界では、世界を創造した神様も動物も、みんな自分の手を汚し、身体中ずぶぬれになって、ようやくこの世界をつくりあげたのだ。頭の中に描いた世界を現実化するのが、一神教のスマートなやり方だとすると、からだごと宇宙の底に潜っていき、そこでつかんだなにかとても大切なものを材料にして、粘土をこねるようにしてこの世界をつくるという、かっこうの悪いやり方を選んだのが、私たちの世界だった。
 アメリカ先住民の「アースダイバー」神話はこう語る。
 はじめ世界には陸地がなかった。地上は一面の水に覆われていたのである。そこで勇敢な動物たちがつぎつぎと、水中に潜って陸地をつくる材料を探してくる困難な任務に挑んだ。ビーバーやカモメが挑戦しては失敗した。こうしてみんなが失敗したあと、最後にカイツブリ(一説にはアビ)が勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しかった。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどり着いた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料にして、私たちの住む陸地はつくられた。
 頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのではなく、水中深くにダイビングしてつかんできたちっぽけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。こういう考え方からは、あまりスマートではないけれども、とても心優しい世界がつくられてくる。泥はぐにゅぐにゅしていて、ちっとも形が定まらない。その泥から世界はつくられたのだとすると、人間の心も同じようなつくりをしているはずである。

(『アースダイバー』P.9〜P.11)



 私は ここに書かれている「アースダイバー」神話に、多くの神話によって隠され変節させられてしまった 真実 のようなものを観じます。変節する以前の 原初な“アース”(=深いところにある 進むための土台・ひとつ)のモノカタを維持しているように思えるのです。

 聖書の物語においては、人間が持つとされる原罪の責任を 蛇と蛇にそそのかされた女性イヴに担わせました。『アースダイバー』の扉に記されている「アルゴンキン・インディアンの神話」は 上記のアースダイバー神話ととても似ているのですが、物語のはじまりで「“最初の女”の夫が 妻が蛇と性交しているのを見て怒り、蛇を殺して妻の首を刎ね」るのです。
 蛇や竜を 宇宙の創造のエネルギーや生命の流れの断片を象徴したものと捉えるなら、洋の東西を問わず かなり早い段階で 人間存在は 自分自身がその一部である「不思議な環」や「水底の領域」と断絶してしまったことが、それらの神話から見て取ることができます。ウィキペディアによれば イヴという名は 「呼吸する」という意味のchavah(ハヴァ)や「生きる」という意味のchayah(ハヤー)に由来するとのことですから、神話が告白している自らの罪は明らか とも言えるでしょう。
 中沢さんが一神教の世界とは違うという私たちの世界も、記紀においては 神々は水底に潜ることなく地をつくり、水蛭子(ヒルコ)が不具の子として生まれた責任を 女神であるイザナミに帰せるのです。

 女性は その生理から、自然と一体化するもの いのちの象徴とみなされてきたのでしょう。それを何故か 意識の世界では 闇の世界へ葬ってしまった…。意識の暴走、と捉えることもできるでしょうか。

 私たちの存在を支える 水底の「アース」のシステム(*system<共に立つ)へたどり着くには 神話が証している 私たちの意識の封印・いのちの封印を 解いていく必要があります。
 聖杯伝説の聖杯とは 「アース」なのかもしれません。





 ホツマツタヱでは アマテル(*アマテラス)が男でヒルコは女となっており、また アマテラスを男神として伝えている地域や人たちもいて、もしもそれらが何らかの事実を暗示しているとするなら、神話の開闢の時代に封印された“アースと一体化していきるもの”としての女性(性)のはたらきやちからを 封印したものたちが利用するために 男神だったアマテルを女神のアマテラスにした、と考えることができます。そう捉えるなら、出口王仁三郎さんがいうところの「変性女子」とは アマテラスのことであり ひいては その神の影響下にある現在の日本国家 なのかもしれません。とするならば、伊勢の内宮の神紋が 女性性の象徴とみなすことができる「花菱」であり、出雲大社の神紋が 花菱を波で囲ったものであることも 理解できます。


   みなそこに封印された いのち…
   そのいのちの象徴としての女性(性)…


 一般的には 伊勢に祀られているものは 先人の神々を封印した征服者の神というイメージですが、その先人の神々に封印された「いのち」を そのみなそこ深くに抱いていたのが 女神としてのアマテラス、なのかもしれません。

 そして、「岩戸開き」における だまされて外に引き出されたアマテラス というストーリーも、(鏡によって)反転させられた自分自身(=いのちを封印したもの)を見て それに対抗(=それを更に封印・抑圧)するために出てきた(=引き出された、使われた)アマテラス、という文脈で理解することもできそうです。


 この月曜日に訪ねた 丹下健三さんが設計した教会は、「無原罪の聖マリアを記念し、捧げられた聖堂」でした。
 ウィキペディアによれば、「無原罪の御宿り」とは「マリアはその存在の最初から原罪を免れていた」とするもので、「カトリック教会において原罪の本質は、人がその誕生において超自然の神の恵みがないことにあるとされる」とのこと。これを これまで書き連ねてきた仮説をもとに観てみれば、原罪とは 神話によってゆがめられたいのち と捉えることができ、神話によってゆがめられていない「無原罪(の御宿り)」のいのちとは すべての人が持つ いのちそのもの、と観ることができます。「キリストは原罪を取り除く者であり、マリアはキリストの救いに最も完全な形で与(あずか)った者である」のなら、キリストとされたイエスは 神話や宗教によってゆがめられたものを取り除く役割を担っていた と言えるのかもしれません。(しかし イエスはその死後も長きに渡って 神話や宗教に絡めとられてしまいました。)


[つづく]




【追記】(2014年05月28日(水))

最後の部分について。
無原罪とされるマリアは、未完の領域がその扉となる無限(在)と ひとつらなりである存在の象徴として、原罪を取り除くキリストとされたイエスは、ひと本来の在りようから歪められたものことを知るもの… それを別の視点から捉えるなら 原罪を象徴するもの/無限在と断絶したものの象徴(その自らを知るが故に 本来にかえろうとするもの)と、観ることもできます。

そう考えるなら、マリアもイエスも
共に 私たち自身の姿・ひとという存在の象徴 と言えそうです。



先日 画家の千住博さんと歌手の石川さゆりさんの対談番組を観ていたら、「体現によって理解し変わる」という文章の内容と重なることを 千住さんがおっしゃいました。

千住さんの代表作である「滝」の絵は、水で溶いた絵の具を瓶に詰めて それを 黒く塗った和紙の上から直接流して描かれます。キャンパスの上部に落とされた絵の具は 自然に流れ落ち、絵の具が和紙に描く自然な流れを いくつも重ねることによって そしてそれにエアブラシでしぶきを加えることで あの「滝」がうまれるのです。

その作法について 千住さんは次のように語ります。


   「自然との共同作業なんですよ
    そうやって自然に きれいに このカタチが流れてくれる」

   「自然に 1回 作品をまかせることで
    自分を越えた あるカタチが 生まれてくる」

   「手に負えない自然というものを 毎回経験していくことが
    とても大切な気がします」


それは、岡潔さんが言う「心は心の理法に 大自然は大自然の理法にまかせて その心をもって 数学をし続ける」ありかたや 「自分を使って行為することで 自然や宇宙を理解していく」ありかたと等しいものです。

千住さんの滝を観ていると、広隆寺の半跏思惟像が思い浮かびます。
番組の中でも触れられていましたが、滝という具象の背後にあるものが観じられ 立ち上がってくるのです。


   石川「ここに見えているのは 水の…
      上から落ちてくる滝なんだけれども
      もしかしたら千住さんの中には
      この滝に向こう側に何かの絵があって
      今これがここに描かれているのかなって…
      これは滝の絵なんだけれども
      どこでもドアの入口のような気がして…」

   千住「僕は滝を描いているんじゃなくて
      たとえばそこに描きたいのは
      静けさであったり
      希望であったり
      あるエネルギーであったり
      生きる力であったり…
      そういうものが描きたいんですよ」


それは 同じく番組の中で話題になった「すき間」というものと つながっているように思えます。和紙の皺を活かして描かれる崖の絵を見て、石川さんは 崖のすき間について触れられました。


   石川「歌もそうなんですけど、
      このすき間の中に いろんなものを感じるんです。
      …すき間があるっていうのは
      勇気のいることなんですよね」

   千住「人間はそんなに完成されていませんよね。
      だから自分と同じ未完成な部分に
      感情が入りやすいんじゃないでしょうか。
      そのスキをのこすのが すごく大切…」

   石川「じゃあ 完成しちゃいけないんですかね」

   千住「完成しないんですよ、したくても」


捉えきれないものを観じつつ それを背景に あるいは それに拠って表現することは、暗黙の領域に支えられた 明白の領域とも言えます。


先日アップしたブログの記事の中で 「以前どこかのブログにも書いたと思うのですが」と記しました。が、どうらや勘違いをしていたようです。「“現在”とつながっているのは身体である」ということを書いたのは、ブログの記事ではなく 数学のゼミの課題として提出した文章であったことに 昨日気づきました。

参考までに その文章をアップしておくことにいたします。

課題は、「自分にとっての「感覚や思考を調整する風景」を見つけて下さい」。前にも この課題に対して記した文章をアップしましたが、思考のプロセスをまとめる意味もあったため 最終的な“こたえ”を記すのに 7つの段階…つまり7つの小文を書くこととなりました。この文章は そのなかの2番目のものです。(ちなみに 以前アップした文章は7番目のもの)



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