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X⁴
X⁵

はじまりと同じひろがりが
つぎつぎひらく
次元のなかで
のびてゆく

次元をつらぬく対角線/対角川(的な場/間)





(1)×2
(1×2)×3
(1×2×3)×4
(1×2×3×4)×5

つぎつぎひらく
次元のなかで
一定の割合ずつ
渦巻き状に(?)ひろがってゆく(場/間)





上記以外のかけ算は
いろいろ
なみうち
ゆらぎながら
のびて
ちぢんで
ひろがってゆく(場/間)








【参考】「」の字源・語源


【追記】(2020/07/19)








 「累乗」というものは 何をあらわしているのだろうか---
 ということが ずっと気になっています。

 2
 2×2
 2×2×2
 2×2×2×2
 2×2×2×2×2
 ・・・・・・・・・

 (多)次元をつらぬく対角線、みたいな位置付けかな?
 上記の例でいうなら 「2」という“まとまり”によって、つまりは、ある“まとまり”によって つながっている、関係性?
 始まりと同じところにとどまり深まる 直線的な穴、みたいなもの?



 対して
 1
 1×2
 1×2×3
 1×2×3×4
 1×2×3×4×5
 ・・・・・・・・・

 次元が増えるに従って 渦巻き状に展開していく場?






【参考】の字源・語源

 『未来のルーシー』の中で中沢新一さんが触れた “経済学者のハイエクと日本の霊長類研究の創始者として知られる今西錦司の対談” に興味を惹かれ、昨日 図書館から『自然・人類・文明』を借りてきました。今朝 掃除機をかけているときにちょっと息抜きしたくなって、その本の冒頭の、この対談のオブザーバーだった桑原武夫氏の「感想」を読んだのですが、その最後の部分に触発されるものがありました。


 博士は本年の晩秋にもまた来日されるという噂を聞いた。これが実現することを希望したい。ハイエク・今西対談はさまざまの示唆に富む興味深いものだが、両者の相互理解への努力にもかかわらず、歩み寄りはけっして容易なものではなかった。完全な意見の一致を要請することは無理ということであるかもしれないが、もう一度討論をかさねることは、少なくとも不一致の要因がどこにあるかがつきとめられ、そのつきとめの過程が、私たち読者にとっては新しい思想探求のきっかけとなりうるように思われる。討論の再開を希望する。 (一九七九年 八月末日)


 立場の異なるもの(たち)が「歩み寄ること」は望ましいこと。
 私たちはそう考えがちですが、本当にそうなのでしょうか。

 「歩み寄る」という言葉/言い様/概念は、それぞれの立ち“位置”に拠っています。でも、意識を向けるべきところは、位置ではなく、それぞれが立っている場の広がり というか 常に動きゆらいでいる(空)間、ではないかと思うのです。
 「歩み寄る」というあり方、意識の向け方は、それぞれが(たまたまその時)立っている位置を鮮明にし…というよりは固定しかねず、仮に「歩み寄る」ことができたとしても それは それぞれが異なっていた地平においてであって、本当の解決は 問題が提示されあらわれている地平とは別の地平/捉え方にあると 常々思っている私は、そんな「歩み寄り」にはあまり関心がもてません。

 互いの立っている場所から 相手の立っている場所をなるべく広い空間の中で眺めながら、それぞれの考えや思いを伝え合い、その伝え合う波によって互いのあいだに広がる空間や互いを含む場が動き変わっていくのを体感し そしてそのなかで動き変わっていく(であろう)自らを感じる。それは、それぞれが自らを伝えることで 場の重力のようなものが動き 空間のありようが変わる、といったようなもので、場合によっては 結果的に傍目には(立ち位置が近づいて)「歩み寄った」ように見えるかもしれませんが 多分それは重要ではありません。

 …と ここまで書いて、『未来のルーシー』のある箇所を思い出しました。


中沢 響きを聞くんですね。蜘蛛の糸でできた世界みたいなものですね。

山極 そして最終決断しない。これが京都人の生き方です。私も京都の町家に住み始めてから、町会長をやらされたりして地区の集まりなどに出るのですが、絶対に決定しない。決定しようとすると邪魔が入る。「ちょっと待て。まだ全体のかたちができていない」と。誰かが何かを言い出したら、その人をリーダーにして周りがフォローしようという考え方を絶対しないのです。みんながいろいろ言いあいながら、絡みあいがきちんと見えていかないとあかん、みたいな感じです。

中沢 アメリカ先住民や縄文人の集会も、そんな具合だったと思います。何の結論も出さないけれど、それでいて全体の編み目は変化していくわけですね。今西さんの進化論では、なぜ進化するのかというと、適者生存だからではなく、何となく変わっていくのだという言い方をしたりしますよね。何となく変わっていくというのは、まさに今おっしゃったような、変わるべくして変わるということです。こっちの方向に行こうとか、因果関係でこっちのほうに進化していったのだ、ということは言えない。そういう進化ですね。
<P.119-P.120/下線は当ブログ筆者によるもの> 



 それゆえに、安易に「理解」や「同意」や「同調」や「フォロー」することも またさせることも、避けたいものであり、(特定の相手に、ではなく)“間”にはたらきかけることで全体の空間(の編み目)が自然に変わり そのなかで自らが変わっていくことを「待つ」ゆとりや間を持つことこそが 大切だと考えます。

 いま これを書きながら、ずっと不思議だったことの絡まりが少しほぐれてきました。
 ずっと不思議だったこと。
 ある番組で ジャレド・ダイヤモンド博士が、ヒトの手足は失ったら(トカゲの尻尾のように)生えてこないのは “手足を失った個体が生き延びる可能性”が“再生するために費やすエネルギー”に見合わないから、というようなことを話していたように記憶しています。それは一つの見解に過ぎませんが、もし生命というものがそういう振る舞いをするのであれば 初めから重篤なハンディを持った生命をこの世に送り出すのは不思議です。それは、私たちからすれば重篤なハンディであっても 生命からすれば 生き延びる可能性があると判断したものなのかもしれない。その個体が生まれ出た社会に生きるヒトに その個体の可能性を託す、ということも含めて。…そんなことを考えたりしていました。
 でもたぶん 不思議でもなんでもないのでしょう。
 私たちが生きる(世界/宇宙)全体の編み目が たまたま そう である、そう であった、ということ。に過ぎないのでしょう。
 それは、枯葉剤などが原因のハンディが「そう である」から そのままでいい、ということではなく、「そう である」ところから 人々が望ましいように動くことで 全体の編み目は変わっていく。「どう」なっていくのかは定かではないけれど、それぞれが それぞれにとって正直なところから 社会へ 全体へ 伝える。そうやって 結果的にたぶんそれぞれにとって納得できる/腑に落ちるありようへと 自然に変わっていくのではないでしょうか。

 この数年 半世紀のあいだにため込んだ体の歪み(の編み目)をほどきつつ なんどもなんども実感するのは、体 つまりは 生物、生命は、その場のバランスを(たぶん最良に)保ちつつゆっくりと変わっていくものだ、ということです。速さ/早さを求め良しとするのは 体から切り離されて暴走する脳なのだ、ということです。全体から(つまりは、世界/宇宙から)切り離された脳は 時空の豊かさ(つまりは、この宇宙の豊かさ)を感受できないがために 待つことができません。
 そんな「切り離された脳」がつくりだした現在の社会は、いま、生命と非生命のあわいに“位置”づけられるウイルスによって (少なくとも農耕牧畜を始めて以降)ため込んできたであろう様々な歪みを露呈しています。

 新型コロナの終息がまだ見えないいま思うのは、パンデミックに際しては迅速な対応が不可欠であることは言うまでもないものの、ヒトの健康や生命を脅かす細菌・ウイルスへの長期的かつ包括的な対応の一つとして、「撲滅」や「闘い」というそれぞれの立ち位置に基づくアプローチではなく 両者を含む“相互作用しあう全体的な間”へアプローチする研究が始まってほしいということです。
 それは、感染症についてだけではなく (家畜や作物も含めた)生物の病というものについても 願うことであります。「撲滅」や「闘い」のアプローチの結果、現存する抗生物質がまったく効かない耐性菌が生まれています。抹殺しようとされれば 命は その“編み目”のバランスの中で生き延びる方策を模索します。開発当初は劇的な効果があった農薬が やがては効かなくなるのも、道理です。「立ち位置」や「(離散した)個(体)」による認識・対応だけでは 私たちが生きるこの世界を捉えることはできないのです。




<ほとんどを7月2日に書き、7月6日に書き終えました>







鳴くことを忘れた動物

ヒト



鳴くかわりに

うたいはじめた

【『都市の自然史』品田穰著 P.196~P.198】


生物の進化と都市の進化

 生物が単純なものから複雑なものへと進化してきたことは言うまでもないが、進化して次第に複雑さをましてきたことから起る問題の一つは、人間の都市の場合と同様に、生体内のある部分から他の部分へ物資を輸送しなければならないことであった。
 生物の中でもっとも単純な、アミーバやゾウリムシのような単細胞動物は、栄養分をとるのに原形質を通して物質が拡散して入ってくるので、特別な輸送系は必要としない。ある意味では細胞の外全部が輸送系として働いている。これは狩猟時代の集落と全くよく似ている。集落という細胞のすぐ外側には栄養源となる食糧ーー野生動植物ーーに接しており、集落の外にも内にも道らしい道はなかった。それで充分、事足りたのである。
 単細胞動物から少し進化した簡単な多細胞動物、たとえばクラゲやヒドラのような腔腸動物でも、単細胞動物と同じように、体液の移動のための特別なシステムはまだもっていない。細胞が多少多くなっても、外部の栄養源と直接接することができるからである。集落が少し大きくなっても道の必要はなかったのと同じだろう。
 しかし、多細胞動物が次第に大きくなってくると、栄養物質や水や酸素は、拡散だけではすべての細胞に到達できなくなる。そして、数百万年以上の試みの末についに、それらを運ぶための器官を発達させるという真価をした。
 バッタやカタツムリのような無脊椎動物は、一つまたは数個の心臓から送り出された血液が組織のあいだの空隙を流れて細胞とのあいだで物質の交換をおこなう開放循環系というシステムをもっている。街道らしきものはできていたが、部落近くになると、思い思いにあぜ道や広場を横ぎって歩いていた農村と大変よく似た輸送系である。
 さらに動物が大型化すると、もうこれではすまなくなり、独立の輸送システム、閉鎖循環系をもつようになった。これが、心臓から動脈という筋肉細胞でできている管を通して血液が毛細血管に送られ、細胞とのあいだで物質の交換がおこなわれ、そして再び静脈を通じて心臓に帰ってくるシステムであることはよく知られている。
 生物の体が複雑になったとき、輸送系なら輸送系が、簡単な生物のときのままの状態で据えおかれていたら、生きてゆけずに絶滅してしまう。都市だってそうではないか。細胞が積み重なって巨大都市になっても、輸送系=道路が、細胞=最小生活圏の中を貫いたりして独立のシステムになってもいない下等動物時代の道路のままで、都市が成り立っていくはずがないではないか。
 今、物の運搬、生物の輸送系だけについて見てみたが、神経系、消化系、調節系などにしても、一つの有機体を維持する上で驚くばかりよくできているのに対して、都市のそれに当るシステムは、都市が巨大化しても一向に進化しておらず、満足に消化もできず廃棄物の山を作るばかりでなく、慢性自律神経失調症という有様である。

 (略)

 私が言いたいのは、いかなる場合であっても、個々の細胞なり組織の独立性をおかして、一つの有機体が進化した例はないということである。
 細胞の中に別の細胞でできている血管は入っていない。最小生活圏という一つの独立した生態系に、その生態系の役にも立たない通過道路ができるのに対して住民が反対するのは当り前である。これを公共性の名のもとに我慢させようとしても、けっして解決しないに違いない。解決しうると思ったら、それはとんでもない幻想である。有機体の基本法則を無視しているのだから。方法はただ一つ、その通過する生態系とは別の生態系を作ることである。
 生物の進化を参考にしながら、一つ一つの細胞を並べて都市を作っていったらどうなるか。それは、専門の学者でなくても、誰にでもできる都市づくりだけに、かえって未来があるに違いない。


*****


 「所有」や「もつ」ということを、生物の進化における“外環境の内部化”=「内臓化」と“内環境の外部化”=「外臓化」の延長線上のものとして 思いつくままを書き留めた後、家人が借りてきていた上掲本を開いたら 目次の「生物の進化と都市の進化」という見出しが目にとまりました。



 『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』を ようやく読み終えました。内容に触発されて思考はいろいろと広がっていくのですが、その一つに「ピダハン語の文にはリカージョン[再帰]が無い」というものがあります。リカージョンとは、一つの文の中にいくつかの文章が組み込まれている状態のこと。たとえば「私は、家人が図書館で借りてきた本を 手に取った。」というような 入れ子構造のことです[*言語学をきちんと理解していない私は、正確には「入れ子構造のことのようです。」と書くべきなのでしょうが、文章が煩雑になるので 以下そのような伝聞表現を略することにします]。ピダハン語が世に知られるまでは リカージョンは言語に普遍なものだと考えられていました。


 リカージョンは従来、文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力と定義されている(もっと数学よりの言い方をすると、実行すると自分自身を参照するような手順ないし命令系である)。鏡と鏡を向かい合わせて持つと、互いの鏡像がどこまでも果てしなく見えるというのが、目で見るリカージョンの例だ。耳で聴くリカージョンの例としては、フィードバックがある。アンプが自分自身の出力した音を拾い、増幅してさらに出力し、それをまた拾って増幅し、延々と出力しつづけるような場合である。(略)
 2002年、マーク・ハウザーとノーム・チョムスキー、テクムセ・フィッチが『サイエンス』誌に、リカージョンは人間言語に固有の要素であると発表し、リカージョンに大変な重責を担わせることになった。三人の主張は、リカージョンが言語の豊かさのカギであり、文法上リカージョンという形の上での技巧があるために言語は制限なく長く、また無数の文を作ることができるのであるということだった。

<『ピダハン』P.318-P.319>


 そのため、著者によるピダハン語の報告は 言語学会に大きな動揺を与えました。
 ヒトの脳を特徴づける性質、と捉えられているリカージョン。それをピダハンは 一つの文章の中で行なわず、文と文の関係性の中であらわします。一般的な言語では「おい、パイター、ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」というところを、彼らは「おい、パイター。針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と、表現するのです。


 コーホイの発した短い文章を合わせると関係節を含んだひとつの文のようになり、英語ではそうやって訳すことも可能だが、それでいて形がまったく異なっていることに気づいたのだ。コーホイが発したのは独立した三つの文で、どの文も英語と違ってほかの文のなかに組み込まれてはいない。つまりこのピダハン語の構造には、言語学で一般にいう関係節を欠いているのだ。決定的なのは、最後の文「アイシギーアイ(同じ針だ)」で、最初のふたつの文に出てくる「針」を同一のものとしていることだ。(略)わたしはおのおのは独立した文でありながら、一緒になることで意味をなす表現を耳にしたというわけだ。つまり、形の上では関係節とは言えないが、意味的には関係節になるような表現を作る方法はあるということだ。

<同上 P.317>


 リカージョンがヒトの言語文法に普遍かどうか、については 少なくとも今の私は興味がありません。興味をそそられるのは、“おのおの独立した文”を“一緒にする”ことで“相互の関係性”を示す、その認知、その「世界のあらわし方」です。
 通常の 入れ子構造的表現であるリカージョンは、(さまざまな)現象を線的なつながりであらわす意識が 生み出し 用いる手法、のように思えます。世界の出来事を 原因と結果という因果的・直線的な対応に収め その関係性に閉じ込めてしまう意識。それに対し、ピダハンの世界の表し方は、おのおのの現象を独立したものとして認め それらを安易に関係づけることはせず とりあえずまとめて提示することで、「相互に関わりがあり影響し合っているけれど ものごとの関わりっていうのはそんな狭い範囲だけにとどまるものではないよ」という 仏教的な縁起にも似た 世界の捉え方をその根底に持っているようにかんじるのです。そのあり方は、ピダハンが出来事を物語るスタイル〜各文同士が複雑に関わり合い入り組んでいる〜にも 観ることができます。
 ものごと/できごとの関わりを、それを一つの文として限定された関係に落とし込まず 文のまとまりとしてあらわすことは、より俯瞰的な意識が必要であり より高度でそのため脳にとっての負担が大きいと思われるのです。


 現在の社会問題…特に経済制度 そして その根底に横たわる数学、というものを考える中で 「対応」というものを問い直そうとしている私にとって、ピダハンの言語…すなわち世界認識とそれに即した表現 は、非常に興味深く示唆に富んでいます。
マイナス(➖)と虚数単位(i)は
ベクトル[vector < PIE root wegh- “to go, move, transport in a vehicle”](記号)なのではないだろうか

マイナスは、180度の回転。
虚数は、実数領域[=認知できる領域]の外へはたらきかけることができ、2回転すると[*同じうごきを2度重ねると→2乗すると](実数領域にあらわれて)マイナスとなる 90度の回転。


まる/丸 → 円 は、
うごきをあらわすカタチ/座標

曲線 回転 の、うごき


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