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 体を動かすとき「よいしょ」とか「どっこらしょ」と言うのは、全身に「これからこういう動きをしますよ」と知らせて 関係各位相互の連携をスムーズにする働きがあるんです。お世話になっている整体師のAさんからそう聞いたとき 私の脳裏をよぎったのは、「それって アートと一緒だ!」ということでした。少なくとも 今の私にとってのアート、表現すること、と。

 何年前のことだったか、ある時期から「脳を外部化したい」「思考を外部化したい」という欲求が芽生えた私は、やがて「それはつまり、脳という一つの臓器に限定しないで((閉じつつ)開かれた)体全体で思考したいってことなんだ」と気づきに至り[*さらにその先に、思考を個々の体から文字通り外部化した“集合意識的な思考”というものも想定しているのですが、ここでは触れません]、その流れの中で 体を整えることに加えて、アート…内なる何かを表に現わす「表現」というものが 私が欲している思考に大きく関与し たぶん不可欠なものなのだ、と感じるようになりました。そして、「表現する」という行いから “こうあるべき”という既成の様々な条件付けを その時々の自分にとって必要かつ可能な限り排除し、そう まさに体を動かすときに「よっこらしょ」と声を出すような感じで、内側で捉えたナニカ、内側にある「現れようとしているモノコト」「動き出したがっているナニモノカ」をできるだけ漏らさず掬うように捉えて外へ現わそうとするようになりました。
 …と書くと なんだか大層なことをしているように思えますが、要は “いろいろな場面において「適切な言葉を探す」”というようなことにトライしているわけです。体の側から見れば 新たに“体全体の思考回路”を構築している、ということになるのでしょうか。
 ですから、今の私にとって、スマホで写真を撮ることも 俳句や詩みたいな言葉を綴ることも 書のようなものを描くことも 声を出すことも[*うまくいけば歌になります] 動きで現わすことも[*うまくいけば踊りになります] 庭をつくることも、「作品や何かをつくる」というよりも「思考という行いの一部」という側面が強いのです。そしてまた、体を整えること 庭の手入れをすること 掃除や整理整頓をすること 体が喜ぶ食べ物を摂ること 本を読むこと 考えがまとまらないまま或いは思考しながらしどろもどろに伝えてもそれを許容してくれる友人にメールを書いたり話したりすること等が、「(全身で行う)トータルな思考」に欠かせないと、実感しています。

 考えてみれば 思考という行いは、環境との相互作用において体が感受した情報の中から 脳で処理されるものが連携・統合され さらにその中から言語化可能な部分を言葉によってまとめること。であれば、私のいうアート/表現は 思考のプロセスであると同時に思考のための掛け声である、ということになりますし、そしてまた 思考という行い自体が 次の思考のための掛け声でもある、つまり《(アート/表現≒思考)=掛け声》、ということになりそうです。
 ARTの語源を調べてみると 「to fit together」を意味する語にたどり着きます。
 生き物は 環境や世界と互いにto fit togetherすることで生き延び 変化/進化していくわけですから、「生きること 生命というものが、アート」であり、上記の考えからすれば思考もto fit togetherすることであると同時にそのための行いですから「生きること 生命というものが、思考である」と言うこともできそうです。
 いやいや 逆でした。
 生命を礎にして 思考やアートの行いがあるわけですから、「アートや思考が 生きることであり生命(のある側面)」と言う方が適切なのでしょう。「皮膚は第三の脳」という表現が 発生過程から見れば「脳は第三の皮膚」と言うべきものであるように。
 まぁ、所詮は 定義の話に過ぎないのですけれどね(笑)。
 とにかくここで言いたいのは、生きることや生命と アートや思考は とても近しく、切り離すことのできない ひと連なりのものである、ということです。

 さて。
 思考や表現というものは、木から像を彫り出すことに例えると 結構しっくりきます。
 木の中に彫り出すべき像が埋まっていて それを彫り出していく---
 彫刻家は しばしば 自らの行いについて そのような言い方をします。彫り出すべき像が 初めから観えている場合もあれば、漠とした何かを頼りに或いは導かれるように彫り進める場合もあるでしょう。思考や表現もまた 自らが捉えた像を彫り出すことであり、と同時に その彫り出すプロセスや彫り出した像が さらに奥に埋まっている像を彫り出すための一刻みとなっていくのです。
 そんなことをつらつら追っていくと、思考や表現というものは、本当に彫り出したい像 本当に手で触れたい像を かたどっていく“刻みという行い/プロセス”や刻む作業で生じる木屑でしかないのかもしれない、とも思えてきます。本当に彫り出したい 本当に手で触れたいものは 思考や表現を鋳型として浮かび上がってくる(空)間のようなものかもしれない、と。

 この“木から像を彫り出す”例えは、私に 『無限論の教室』(野矢茂樹・著)での「可能無限」の説明を思い起こさせます。野矢さん曰く、無限というものをどのように解釈するかということにおいて、“線分には無限個の点がすでに存在している”というような 無限のものがそこにあると捉える「実無限」と、“線分を切断すれば点が取り出せる。そしてそれはいつまでも続けていける。その可能性こそが無限であり、その可能性だけが無限”と捉える「可能無限」の二つの立場があるそうです。


「線分には無限個の点は存在しない、そこにはいつまでも点を切り取っていく果てしない可能性があるだけだ、と先生は言われましたよね」
「言いました」
「もし無限個の点が線分上にないとすると、ないものは取り出すことはできないので、無限個の点を取り出す可能性もない、ということにはなりませんか?(略)」
「ないものは取り出せない。だから、あるはずだ、と」
「ええ」
「なるほどねえ。…だから、トーモロコシみたいなものじゃないのですね。むしろ大理石から彫刻を彫るみたいなものなのですよ」
「というと…」
「トーモロコシから粒を取り出すようなことなら、あらかじめ粒がついていなければ取り出せませんね。しかし、大理石の塊から彫刻を彫るとき、その彫刻はすでにその大理石の内にあったのでしょうか。これはつまり、取り出すのではなく、作り出すわけですね。線分から点を切り取ると言ったのも彫刻の場合と同じようで、埋まっているものを拾いだすのではなく、作るのです。大理石の塊はそこから姿を切り出してくる無限の可能性を秘めています。」

(P.37〜P.38)


 私が捉えるアート/思考/表現と 野矢さんが言うところの可能無限のイメージは、さらに私を 量子論における真空の理解へと誘[いざな]っていきます。量子論において真空は 何もない空間ではなく 粒子と反粒子が対生成と対消滅を絶えず繰り返す「ゆらぎ」を持っていると考えられています。その「真空のゆらぎ」のイメージが 私には「可能無限」と重なり、そして アートや表現につながっていくのです。

 あれれ。
 話が、掛け声から けっこう遠いところまで来てしまいました。
 まぁ、私の中に このように話が展開していく…つまりこのように情報がつながっていく回路がある、ということですね。そして、これを記したことによって また別の回路が模索され始めるのでしょう。それが どういう現れ/表現となるのかは わかりませんが、思考もアートも表現も いわば“体の使い方”。もやもやと何かが立ち込めて来たり湧き上がって来たら とりあえず「よっこいしょ」とか「どっこらしょ」と掛け声をかけて(できれば体も一緒に動かして)みることにしましょうか。





【追記】(2018/09/02)

 体全体で思考することについての 参考として。
 「体現によって理解し変わる」

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