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「かんがえる」を “うごき”として捉えるなら
「かんがえる」は 体の使い方、であるから
体の状態はもちろんのこと
かんがえる際の 具体的な体の使い方が
かんがえる行為の内実に 深く関わってきます


ゆえに
(ロダンの「考える人」のように)
体を固くしたり
眉間にしわを寄せるような「かんがえる」はよろしくない、
と 思うのです


そしてまた、
さまざまなうごきへ柔軟に対応するには
ベースとなる体の しなやかさを担保する
fasciaや結合組織や細胞外マトリクスといった(膜的な)ものの状態が調っていることが、望まれます


“体という場”の感受・知覚の一部が
あるレベル/そう(層、相、総、奏、創、装)において
まとまったものが、
感情
意識

体における
ある情報の 流れ/ネットワーク/からまり/重なり を 捉えたもの

(それぞれは 異なる“宇宙/舞台”)



体という場が
(外部)環境と相互作用しバランスをとり動的平衡を保つ
ふるまい
の一部が、
思考


「うごき」[≒ふるまい、いとなみ]として 考える


さまざまな「うごき」のまとまりとしての 思考/かんがえる


「うごき」として思考があるなら
思考[=うごき]によって(だけでも)
環境/世界と作用しうる





【補記】

ことなる「うごき」「宇宙/舞台」が作用しあえるのは、
それらすべてが「一」(の場)に かか(わ)っている から
であり、
その「一」は 不知の「無」「闇」(の領域)にうかんでいて、
「一」(の場)にもとづく 平衡状態を
私たちはゼロ/0/zero/零と呼んでいる

「一」と“不知の領域”の あわい もまた、
ゼロ/0/zero/零と呼ばれていると思われ、
それもまた 平衡状態 をあらわしている。だろう


「一[ひとつ]」(の場)から 「1[いち]」がうまれ
「1」からあらゆる数がうまれる



「一」は、
レンマ的領域であり
あらゆるものが かか(わ)っている 網/編み(目)/織り
として 現時点のヒトは認識し得ている




































































重なり合うには
重ね合わせには

間/ま/MA



要る




X⁴
X⁵

はじまりと同じひろがりが
つぎつぎひらく
次元のなかで
のびてゆく

次元をつらぬく対角線/対角川(的な場/間)





(1)×2
(1×2)×3
(1×2×3)×4
(1×2×3×4)×5

つぎつぎひらく
次元のなかで
一定の割合ずつ
渦巻き状に(?)ひろがってゆく(場/間)





上記以外のかけ算は
いろいろ
なみうち
ゆらぎながら
のびて
ちぢんで
ひろがってゆく(場/間)








【参考】「」の字源・語源


【追記】(2020/07/19)








 「累乗」というものは 何をあらわしているのだろうか---
 ということが ずっと気になっています。

 2
 2×2
 2×2×2
 2×2×2×2
 2×2×2×2×2
 ・・・・・・・・・

 (多)次元をつらぬく対角線、みたいな位置付けかな?
 上記の例でいうなら 「2」という“まとまり”によって、つまりは、ある“まとまり”によって つながっている、関係性?
 始まりと同じところにとどまり深まる 直線的な穴、みたいなもの?



 対して
 1
 1×2
 1×2×3
 1×2×3×4
 1×2×3×4×5
 ・・・・・・・・・

 次元が増えるに従って 渦巻き状に展開していく場?






【参考】の字源・語源

マイナス(➖)と虚数単位(i)は
ベクトル[vector < PIE root wegh- “to go, move, transport in a vehicle”](記号)なのではないだろうか

マイナスは、180度の回転。
虚数は、実数領域[=認知できる領域]の外へはたらきかけることができ、2回転すると[*同じうごきを2度重ねると→2乗すると](実数領域にあらわれて)マイナスとなる 90度の回転。


まる/丸 → 円 は、
うごきをあらわすカタチ/座標

曲線 回転 の、うごき


 「侘び・寂び」という言葉が 本来備えているコトバ/事場は、カタにとらわれない 内包された“生命が躍動する存在のベクトル”としての「前衛のありよう」、というのが 現時点での私の理解です。「わぶ」「さぶ」というコトバ/事場をどう認識しているかついては 項を改めて記すとして、ここでは それに連なる『千利休 無言の前衛』での赤瀬川原平さんの文章を引用しておきます。
(途中の文章をいくつか略しますが、見た目が煩雑になるので(略)の記載はいたしません。)


avant-garde < avant + guard
=PIE root
 ant- “front, forehead”, with derivatives meaning “in front of, before”

 +
  wer-(3) “perceive, watch out for”


***********


 利休が晩年に言い残した、
 「私が死ぬと茶は廃れる」
という言葉を見たときにはドキリとした。
 利休はいったい何を言おうとしたのか。
 察するところ、すでにこの時代から茶の湯が形式としてだけ固まっていく風潮があったようなのである。利休はそれを嘆いているのだ。茶の湯を好む人がふえるに連れて、師匠も多くなったが、規則ばかりを細かくいいたてて、世俗の義理に堕落し、ちょっとした作法の無知をあざけるようになり果てたという。そんな利休の言葉が残されている。
 なるほどと思う。それはいまの私たちにも、そのままそっくり実感できることである。茶の世界でなくても、どの世界でも、この風潮を見ることができる。むしろこの風潮こそが多数かもしれない。いつの時代にも見られることなのだろう。社会一般としては、この風潮を基本としているとさえいえるほどだ。それを知った利休の嘆きの言葉なのだろう。
 しかし先に挙げた。
 「私が死ぬと…」
の言葉になると、嘆きだけではないような気がする。嘆いているというよりは、もっと攻撃的なメッセージが伝わってくる。
 はじめてこれを見たときには、何と傲慢な言葉だろうと思った。茶は利休だけで持っているのかと、とくに同時代の茶人は思うのではないか。しかし利休によってこそ茶が究められていったことは確かなことで、それはしかも言葉では間に合わぬほどの微細な意味をつないで究められていった。言葉以外に受容器をもたぬ人には、当面受け取りようのないことなのである。
 この利休の言葉は、そのことを言おうとしているのではないか。つまり言葉で言えぬことこそが茶の湯の大本であると、それを言葉で言ったのだろう。それを言葉でいうと「私が死ぬと…」となってしまう。
 誤解されるすれすれのところを言葉が横切る。
 つまり直感の世界のことだ。直感とは言葉の論理を追い抜く感覚にほかならない。言葉を追い抜くし、言葉をすり抜ける。言葉の論理からはあるかなきかの、あるといえばそれはまやかしではないかと思えるほどの危ういものである。しかしあてずっぽうではなく、それはあくまで言葉の延長上にあることはあるのである。
 ある基本的な感覚基盤をもった集合があって、その上でのほんのわずかな変化によってメッセージが飛び交う。それが直感の世界でのやりとりである。それを分析的に言葉に置き換えていくことは、長い時間を待てばできなくはない。しかしその言葉の分析を積み重ねた末に直感に至る、ということはないのである。つまり閃きは、言葉で追うことはできても、閃きを言葉が追い抜くことはできない。言葉にとっては、ほとんど幻想世界だ。つまり言葉の届かぬ先で意味の沸騰している世界である。微細な意味が、その沸点の上で小さなダンスをしている。それが直感的世界の断面図である。それは後からの言葉ではなく、その沸点の上に身を置いたときにだけ感応できる。
 そこでやっと、先の利休の言葉が身をもってわかる。この茶の湯の沸点における意味のダンスをこそ踊るべきだと利休は言うのだろう。それが絶えれば、沸点を下がったところの言葉の論理が、あとをなぞりはじめる。人々はそれをなぞることだけに精を出しはじめる。茶の湯はそれをなぞることだけで固められて、沸点の上でのダンスは遂に消え去り、そのまま廃れる。
 つまり言葉で拾ったものだけをなぞる間に、茶の湯は形式だけのものになってしまったということだろう。これは非常に危険なことで、直感と言葉の間の落とし穴みたいなものだ。本人は形式に堕するつもりはなく、とにかく見えている言葉の論理を伝って、その師とする人の位置に近づこうとするのだけど、近づけば近づくほど精気が失せていく。つまりその師とする人の感覚基盤がないところで、結局は形式の抜け殻となるのである。

 絵画ならまだしも、文学ならまだしも、音楽ならまだしも、茶の湯というのはそれ自体がどこどいってつかみどころのないものである。そのつかみどころのなさを究めていったのが利休だから、それを師として近づくのは非常に危険なことである。それを知って近づくならまだしも、そのことに無知のまま、そして利休と同じ感覚基盤を持たぬままに近づいていくと、一歩一歩近づくことが形式をなぞることになり、ついに近づいたと思って気がつけば、自分がからくり人形のような形骸と化している。利休自身がそれを見て嘆いているのだ。
 利休はそのような危険について警告を発している。伝え残されている教訓的な言葉では、人と同じことをなぞるな、ということをよく言っている。つまり新しいことをやれ、自分だからこそのことをやれ、ということである。つまり芸術の本来の姿、前衛芸術への煽動である。そのような、人のあとをなぞらず、繰り返さず、常に新しく、一回性の輝きを求めていく作業を、別の言葉では「一期一会」ともいうわけである。

<P.215〜P.221>

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