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今まとめている文章を受けて、
数学のゼミの課題として7月にまとめた文章を
先にアップしておくことにしました。


その課題とは、


  自分にとっての「感覚や思考を調整する風景」を見つけてみて下さい。
  写真、絵、言葉、音など 自由にその風景を表現した上で、
  その風景の中のどこに
  action、perception、understanding、imaginationがあるかを
  考えてみて下さい。


というものでした。

***



「自分にとっての 感覚や思考を調整する風景」
として思い出すのは、6月末の早池峰山登山です。

南麓の小田越から登頂し、北側の門馬へ抜けているときのこと。

高山植物の花々が広がっていた 伸びやかなお花畑を楽しんだ登りの風景とはガラリと変わり、針葉樹が生い茂る森の中を 久しぶりの本格的な登山で疲れた身体をいたわりながら 黙々と歩いていました。

特に何も考えていなかったと思います。

針葉樹の葉と幹 そして土の香りの中を、時おりよろけそうになる足を 一歩一歩確かめながら進んでいくうちに、自分がその風景の一部になったような気がしました。

遠くの下草の葉のゆらめきが リアルな実感として捉えられるほどに。

森の空気が皮膚の中を通り過ぎていると観じるほどに。

森の鼓動と自分の鼓動が同期していると観じるほどに。

ふと ライアル・ワトソン氏の『エレファントム』に書かれてあったことを思い出しました。



 バーニー・クラウスは著書『野生の聖域へ into a wild sanctuary』の中で、音の棲み分けという考えを持ち出している。それぞれの種は、音響的“なわばり”を持っている。つまり意志をうまく伝達するために、他の種に使われていない周波数を自分のものにしている。

 クラウスは一つの地域に住む動物たちの音全体を録音し、「常に変化する反響的な音の組成」に気がついた。録音した音を分析すると、そこには地面を掘り進むミミズの音までが含まれていた。そしてこうした音を用いれば、生息場所を特定したり、音の衰退によって生態の変化を指摘したりできることがわかった。

 生態が安定したところでは、生物音が切れ目なく全体を満たしている。あらゆる周波数のスペースがきちんと埋められているので、音が一つの完全な状態を保っているのだ。それぞれの地域で、生物たちは互いに穴埋めをするように音を出している。そして象がいなくなった今、象の占めていた場所には音の穴が開いている。

 これは重要な発想だと思う。自然を全体として捉え、その鼓動を聴くことの大切さを教えてくれる。一部の文化において、ある種の音が自然に有効な働きかけをすると考えられているのもうなずけるだろう。彼らは音によって世界の裂け目を癒し、森の隠れた生命を呼び起こすことができると考えている。

(P.330~P.331)



そして、自分もその森の生態系の音の一部(あるいは もしかしたら全部)になっているように観じられました。

そんな意識のまま 改めて風景を眺めてみると、連続する風景のどこを切り取っても絵になるのです。そのとき ゼミに申し込むために『人間の建設』を読んで「ひとつ」ということが気になっていた私は、どこをどう切り取っても「ひとつ」になっていることに 驚いた というより 歓びを感じました。

直接俯瞰することのできない早池峰山を「ひとつ」として観じつつ、いま自分が歩いている北斜面の森もまた そのなかの「ひとつ」であり、その森を歩きながら通り過ぎる風景もまた「ひとつ」となっている…。そして 同じ場所に身を置きながらも 自分の意識を変えると、「ひとつ」だったものが「ばらばら」な風景となってしまう…。


『人間の建設』の中で小林秀雄さんが地主悌助さんという画家についてお話しされますが、地主さんが「写実しか認めない」ことが少し分かったような気がしました。小林さんの「いまの絵描きは自分を主張して、物をかくことをしないから、それが不愉快なんだな」(P.17)という台詞は そのまま、「抽象的になった数学」を思い起こさせます。

そして、岡潔さんが 奈良の博物館で正倉院の布(きれ)を丹念に見たあと外に出てみると どの松を見てもいい枝ぶりをしていた とおっしゃった体験は、今回の私の体験にとても似ているように観じたのでした。

丹念に長いあいだ取り扱ってきたものを見ているうちに、自分の心からほしいままなものが取れたのじゃないか。ほしいままなものが取れさえすれば、自然は何を見ても美しいのじゃないか。自然をありのままにかきさえすればいいのだ、そのためには、心のほしいままをとってからでなければかけないのだ、そういうふうになっているらしい。この松は枝ぶりがよいとかいけないとかいう見方は、思い上がったことなのです。それではほんとうの絵はかけないらしい。(P.19)

たぶん 「人生はアート(芸術)だ」という言葉がいわんとしているのは、こういうことなのではないでしょうか。枝ぶりを云々いうのは 思い上がったことではなく、知らない・気づかないだけであり もったいないことなのだと思います。

現象の背後に何を観るか

あるいは

現象の背後にあるものを観じられるか

「ひとつ」を観じる人

裏打ちを持っている人は、何をしても絵になっていて そのままで芸術、ような気がします。

…ということで、問いへの応えはこちらとなります。

  action(おこなう あう):

    登山道を下山していました

  perception(きづく):

    森の「けしき」が 私(の場)と溶け合っていることに気づきました

  understanding(わかる あらわる):

    自分が森や山(の一部)となっていました

  imagination(うまれる ひろがる まとまる):

    どこをみても絵になっていて 「ひとつ」として完成していました

最後に

感覚や思考を調整する「けしき」を持つ言葉

「窓は開けたままにしておく」




【余談】

ゼミの申し込みに添えられたお題と 今回のお題。

共に 私の感覚や思考を調整…いや 刺激し 望む方向へと促してくれたものでした。そういう意味では 私にとって感覚や思考を調整する「けしき」を持った問いだったと言えます。




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