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EARTH<PIE root「er-」=earth, ground


GROUND
<Old English「grund」              

    bottom, foundation, ground, surface of the earth
especially "bottom of the sea"    
      <Proto-Germanic「grundus」        
 which seems to have meant "deep place"

FOUNDATION<FUND(n)<PIE root「bhudh-」=bottom, base

BOTTOM<PIE root「bhu(n)d(h)-」=同上         

BASE<Greek「bainein」=to go, walk, step        



アース



底 根底 根本 土台 基礎 出発点

深い場所



深い場所にある 進むための土台



「ひとつ」





 このブログでは 数学者・岡潔さんの名前が何度が出ていますが、家の本棚から取り出してパラパラとめくった『野生の科学』の第1章「数学と農業」で 中沢新一さんが岡潔さんのことに触れていました。


 数も論理も、私たち現生人類の脳のニューロンでくりひろげられている自然過程にループでつながってしまっています。そのため、自然過程を超越した真理として自分をしめすことができないのです。
 岡潔の抱いていた疑問は、まさにこの点にかかっていたと言っていいでしょう。ヨーロッパ人の発達させてきた数学は、自然過程を超越した真理として自分をしめすことを求めるあまり、矛盾を含まない整合的な体系の構築をめざしてきました。その結果、彼の言い方では「情緒を失う」はめになったのでした。岡潔はそこで、自然過程を自分の内部に組み込んで自らが「不思議な環」としてできているような文化をつくってきた日本人の能力を最大限に発揮することによって、「不思議な環」そのものであるような新しい数の概念を、「不定域イデアル」のちの「層」として創造してみせたのでした。

(『野生の科学』P.20)



 中沢さんは、ここで言う「不思議な環」を別の側面から語っている神話について 『アースダイバー』のなかで 次のように紹介しています。


 最初のコンピューターが、一神教の世界でつくられたというのは、けっして偶然ではない。一神教の神様は、この宇宙をプログラマーのようにして創造した。ここに空を、あそこには土地を、そのむこうには海を配置して、そこに魚や鳥や陸上動物たちを適当な比率で生息させていくという、自分の頭の中にあった計画を、実行にうつしたのがこの神様であった。神様でさえこういうコンピューター・プログラマーのイメージを持っているのであるから、その世界を生きてきた人間たちが神様のようになろうとしたときに、最初に思いついたのが、コンピューターを発明することだったのは、ちっとも不思議ではない。
 ところが、アメリカ先住民の戦士やサムライの先祖を生んできた、環太平洋圏を生きてきた人間たちは、世界の創造をそんなふうには考えてこなかった。プログラマーは世界を創造するのに手を汚さない。ところが私たちの世界では、世界を創造した神様も動物も、みんな自分の手を汚し、身体中ずぶぬれになって、ようやくこの世界をつくりあげたのだ。頭の中に描いた世界を現実化するのが、一神教のスマートなやり方だとすると、からだごと宇宙の底に潜っていき、そこでつかんだなにかとても大切なものを材料にして、粘土をこねるようにしてこの世界をつくるという、かっこうの悪いやり方を選んだのが、私たちの世界だった。
 アメリカ先住民の「アースダイバー」神話はこう語る。
 はじめ世界には陸地がなかった。地上は一面の水に覆われていたのである。そこで勇敢な動物たちがつぎつぎと、水中に潜って陸地をつくる材料を探してくる困難な任務に挑んだ。ビーバーやカモメが挑戦しては失敗した。こうしてみんなが失敗したあと、最後にカイツブリ(一説にはアビ)が勢いよく水に潜っていった。水はとても深かったので、カイツブリは苦しかった。それでも水かきにこめる力をふりしぼって潜って、ようやく水底にたどり着いた。そこで一握りの泥をつかむと、一息で浮上した。このとき勇敢なカイツブリが水かきの間にはさんで持ってきた一握りの泥を材料にして、私たちの住む陸地はつくられた。
 頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのではなく、水中深くにダイビングしてつかんできたちっぽけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。こういう考え方からは、あまりスマートではないけれども、とても心優しい世界がつくられてくる。泥はぐにゅぐにゅしていて、ちっとも形が定まらない。その泥から世界はつくられたのだとすると、人間の心も同じようなつくりをしているはずである。

(『アースダイバー』P.9〜P.11)



 私は ここに書かれている「アースダイバー」神話に、多くの神話によって隠され変節させられてしまった 真実 のようなものを観じます。変節する以前の 原初な“アース”(=深いところにある 進むための土台・ひとつ)のモノカタを維持しているように思えるのです。

 聖書の物語においては、人間が持つとされる原罪の責任を 蛇と蛇にそそのかされた女性イヴに担わせました。『アースダイバー』の扉に記されている「アルゴンキン・インディアンの神話」は 上記のアースダイバー神話ととても似ているのですが、物語のはじまりで「“最初の女”の夫が 妻が蛇と性交しているのを見て怒り、蛇を殺して妻の首を刎ね」るのです。
 蛇や竜を 宇宙の創造のエネルギーや生命の流れの断片を象徴したものと捉えるなら、洋の東西を問わず かなり早い段階で 人間存在は 自分自身がその一部である「不思議な環」や「水底の領域」と断絶してしまったことが、それらの神話から見て取ることができます。ウィキペディアによれば イヴという名は 「呼吸する」という意味のchavah(ハヴァ)や「生きる」という意味のchayah(ハヤー)に由来するとのことですから、神話が告白している自らの罪は明らか とも言えるでしょう。
 中沢さんが一神教の世界とは違うという私たちの世界も、記紀においては 神々は水底に潜ることなく地をつくり、水蛭子(ヒルコ)が不具の子として生まれた責任を 女神であるイザナミに帰せるのです。

 女性は その生理から、自然と一体化するもの いのちの象徴とみなされてきたのでしょう。それを何故か 意識の世界では 闇の世界へ葬ってしまった…。意識の暴走、と捉えることもできるでしょうか。

 私たちの存在を支える 水底の「アース」のシステム(*system<共に立つ)へたどり着くには 神話が証している 私たちの意識の封印・いのちの封印を 解いていく必要があります。
 聖杯伝説の聖杯とは 「アース」なのかもしれません。





 ホツマツタヱでは アマテル(*アマテラス)が男でヒルコは女となっており、また アマテラスを男神として伝えている地域や人たちもいて、もしもそれらが何らかの事実を暗示しているとするなら、神話の開闢の時代に封印された“アースと一体化していきるもの”としての女性(性)のはたらきやちからを 封印したものたちが利用するために 男神だったアマテルを女神のアマテラスにした、と考えることができます。そう捉えるなら、出口王仁三郎さんがいうところの「変性女子」とは アマテラスのことであり ひいては その神の影響下にある現在の日本国家 なのかもしれません。とするならば、伊勢の内宮の神紋が 女性性の象徴とみなすことができる「花菱」であり、出雲大社の神紋が 花菱を波で囲ったものであることも 理解できます。


   みなそこに封印された いのち…
   そのいのちの象徴としての女性(性)…


 一般的には 伊勢に祀られているものは 先人の神々を封印した征服者の神というイメージですが、その先人の神々に封印された「いのち」を そのみなそこ深くに抱いていたのが 女神としてのアマテラス、なのかもしれません。

 そして、「岩戸開き」における だまされて外に引き出されたアマテラス というストーリーも、(鏡によって)反転させられた自分自身(=いのちを封印したもの)を見て それに対抗(=それを更に封印・抑圧)するために出てきた(=引き出された、使われた)アマテラス、という文脈で理解することもできそうです。


 この月曜日に訪ねた 丹下健三さんが設計した教会は、「無原罪の聖マリアを記念し、捧げられた聖堂」でした。
 ウィキペディアによれば、「無原罪の御宿り」とは「マリアはその存在の最初から原罪を免れていた」とするもので、「カトリック教会において原罪の本質は、人がその誕生において超自然の神の恵みがないことにあるとされる」とのこと。これを これまで書き連ねてきた仮説をもとに観てみれば、原罪とは 神話によってゆがめられたいのち と捉えることができ、神話によってゆがめられていない「無原罪(の御宿り)」のいのちとは すべての人が持つ いのちそのもの、と観ることができます。「キリストは原罪を取り除く者であり、マリアはキリストの救いに最も完全な形で与(あずか)った者である」のなら、キリストとされたイエスは 神話や宗教によってゆがめられたものを取り除く役割を担っていた と言えるのかもしれません。(しかし イエスはその死後も長きに渡って 神話や宗教に絡めとられてしまいました。)


[つづく]




【追記】(2014年05月28日(水))

最後の部分について。
無原罪とされるマリアは、未完の領域がその扉となる無限(在)と ひとつらなりである存在の象徴として、原罪を取り除くキリストとされたイエスは、ひと本来の在りようから歪められたものことを知るもの… それを別の視点から捉えるなら 原罪を象徴するもの/無限在と断絶したものの象徴(その自らを知るが故に 本来にかえろうとするもの)と、観ることもできます。

そう考えるなら、マリアもイエスも
共に 私たち自身の姿・ひとという存在の象徴 と言えそうです。



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