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 先ほどアップした記事に、「武」や「舞」は “世界のバランス・動的平衡を探り求めるうごき”と書きました。
 そして、後半のほうの()内で、“私たちが認識できる現象に 私たちが認識できない領域も関わっているとするなら、私たちが認識しうるバランスや動的平衡といった現象など 実際に起こっている現象のほんの一部であるかもしれません。”とも書きました。

 また、ツイッターでは、「反転した認知」から想起した“対象化”というコトバについて、

 対象化することで、私たちは多くのものことを認識することができています。が、対象化することで、実在している“つながり”が断ち切られ 認識から消えてしまいます。
 対象化とは鏡像であり、向かい合うありよう。対立するありよう。
 同じ方向を向いたありようとして、認識することはできないのでしょうか。同じ流れをいくもの同士として認識し合うことはできないものでしょうか。そのような認知・認知にもとづく科学、ができないものでしょうか。

とつぶやきました。

 ブログの記事とつぶやきの内容は ひとつならりの思考にあります。

 ある現象に遇したとき、その捉え方や認識あるいは対応が 不知の領域も含めた全体(の現象)の流れに適っているかどうか。その判断基準の一つとして考えられるのは、
 自らの捉え方や認識あるいは対応が エネルギーの流れを停滞させていないかどうか。
 自らの場のエネルギーand/or自らの場にやってきたエネルギーが 滑らかにうごき流れているかどうか。
 武術でいうところの「順」であるかどうか。
 集め固める「力」ではなく 流れていく「うごき」であるかどうか。
…ではないかと。

 苫米地さんが考案したベーシックインカムのシステム[*下に動画あり]は、お金というエネルギーを停滞させることなく常に人々の間・社会の間を流れるように設計されています。

 では、滑らかに流れているかどうかを、(不特定多数の)他者と共有するのにふさわしい「型」は どのようなものなのでしょうか?
 苫米地さんのベーシックインカム案が参考になりそうですが、今日のところはここまで。









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