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 今朝、会社に出かけた家人が散らかしたままにしてあった本の帯を 片付けていたら、そのうちの一つが目に留まりました。


       


 「好きだ」と言わないこと…

 という部分が、私のアンテナに引っかかりました。

 「そうそう。『好きだ』とか『愛(してます)』って 欧米人がよく口にするけど、(私には)しっくりこない、というか 疲れる、というか。なんか白々しくて 興ざめしちゃうんだよね」

 文章表現において、悲しい気持ちを表現するのに「悲しい」という言葉を使わない(方がいい)、というようなことがよく言われます。それは、往往にしてテクニック的な使われ方をしたりしますが、“言葉であらわす”ということに真摯に向き合うなら、非常に理にかなっていると思うのです。

 神の名をみだりに呼んではならない
 ということにも通じるのではないでしょうか。

 「言葉にする」ということは、量子に例えるなら 波を粒子化することです。

 知覚できない不知領域との動的平衡and/or相互作用によって知覚領域に現われる 波のような“エネルギーの蠢き”。その蠢きが、ゆらぎや混沌や波としてしか受けとめられない領域 あるいは ゆらぎや混沌や波の相のままとして受けとめたい状態を超え、周囲から屹立と浮かびあがる粒子的な存在として現われるものを象る“(もの)カタ”の一つに、言葉があります。


       


      



 一つの粒、一つの音としてあらわれる/あらわされる言葉。その根本・背後には、粒子化し得ない 不知領域にまで連なる場が、広がっています。だから、本当に深く何かに触れたとき それは決して「言葉にならない」し、その深さを保ったまま言葉(や他の表現)になってゆくには それ相応の時間がかかります。

 そして、コトダマとは、不知領域に至るひろがりを実感しつつ(声に出してand/or文字として)使われた言葉が 不知領域における動的平衡を介して可知領域にあらたな 動きを生み出し 粒子化された世界にまでその作用が及ぶ、その一連のはたらきを意味している。というのが、現時点での私の理解です。

 よく見聞きする「引き寄せの法則」や「(定型としての)真言や呪文」のようなものは、本来のコトダマ(や意識)の表層的な部分のはたらきであり、ある意味では そういう人々の意識がつくりあげたバーチャルな“コトダマのシステム”に拠るもの、ではないでしょうか。“システム”は、それを使う人たちのエネルギーによってチャージされ 力を維持している、ように思えます。

 昨日、“ずっと気になっていたけれど 果たして自分が持ってよいものか迷っていた石”を 直接に手にして 我が家に迎えることに決めた帰りの電車で、膝の上に乗せた紙袋の中にあるその石をどこに置こうかと考えていた時、これは一種の化学実験 化学反応を起こす行ないではないか、という思いが湧いてきました。

 それぞれの石として現象したエネルギーの構造体。それら個々のエネルギー体を どのように配置するか。その配置…つまりは それらによって生まれるより大規模な構造体を どのようなものにするのか。
 その構造体が有するエネルギーは、個々の石の物理的な構造だけでなく それがどのような場所でどのように生まれたのか、いま私が手にするまでどのような(エネルギー的な)プロセス[*どのように採掘され、どのような人の手を経て、どのように扱われてきたのか…]を経てきたのか、という 個々の石につながる時空的広がりも含まれます。

 人生二度目の石ブームの今 いくつかの石を家に迎えているところですが、それは そのすべてをひっくるめたエネルギー建造物をつくっているのだ、ということに、今更ながら気づいたのでした。とするなら、庭は 土や微生物や植物、そしてそこへやってくる動物たちが織りなす一つの宇宙なのだと、ということに、同じく今更ながら思い至ったのでした。気がつけば、我が家の石も庭の草木も 国際色豊かな面々です。

 この春あたりから起動し始めた“人生二度目の石ブーム”においては、石の意味や効能というような事前情報は極力目にせず 石に対する自分の感覚(だけ)に拠って石と接することを心がけています。知識や情報が先にある行ないは 宇宙の自然なエネルギーの流れに逆行している、と感じるからです。そして、「まず 自分の内から現われる…自らに由る“自由な”エネルギーの流れに沿って 自らの行ないを立てていく」ことを体得する一環でもあります。

 今回私は 石や庭をエネルギー構造体として捉える視点が腑に落ちたわけですが、それはあらゆるものことに通じることです[*一例として]。まずは自分がいま興味が惹かれている石や庭をフィールドに、その感覚を育んでいこうと思います。

 最近、宮古島出身で彼の地のノロの血筋を引く友人から何年も前に聞いた言葉を よく思い出しています。

 土で変える世。

 それは、石で変える世。とも言えます。

 普遍のものに 宇宙が導かれていくのだとすれば…。普遍な場、普遍なエネルギー構造を実現することで 世が変わっていっても、不思議ではありません。

 岩石惑星である、私たちの地球。その変化が一番素直に反映されるのが 石であり岩であり土なのではないでしょうか。
 いま、地球/Gaiaは 日々刻々と新たまっているようです。



1の冪乗を辿って
みちへむかう

はじまりのひずみ
初期異常

そのむこう



 これから書こうとしている内容の始まりは、このツイートだったと言えるかもしれません。
 神戸に出現した巨大な仏塔のような姿の電波塔が、イシス・ペンデュラムに似ている、という…。そのペンデュラムの形が、私には、人の脊椎〜正確には、頭蓋骨ー蝶形骨ー脊椎[環椎から尾骨]〜に見えたのです。




こちらのサイトからお借りしました>

 この連想の始まりにあった電波塔はフリーエネルギー装置と思われ、また、イシス・ペンデュラムも説明によれば安定したエネルギー(場)を生み出すもののようで、…という流れから、エネルギーの編み方ともいえる「構造」に似たものを感じた私は、人の体軸の骨格は もしかしたらフリーエネルギー装置なのではないか、という思いを抱いたのでした。
 現時点では何の証明された根拠もない 人によっては妄想としか受け止められないであろう仮説ですが、この考えがいたく気に入った私は、その妄想めいた仮説を展開していくことにしました。

 すると、そのあと目にしたこちらこちらのツイートの動画が、人の軸骨格で生じているエネルギーの動きに見えてきます。
 また、人の骨格がそうであるなら 植物…特に樹木の幹は同じような働きがあってもおかしくないなぁと考えていたら、数ヶ月前に見た『この地球に山や森は存在しない』という動画を思い出したのでした。



 この動画を改めて観終えたときには、かつてケイ素ベースだった生命が 何らかの理由から今では炭素ベースとなっているけれども[*ケイ素も炭素も手が4つなので、置換しやすいのではないでしょうか]、現在の体においてもケイ素は重要なエネルギー装置のはたらきを担っているのではないだろうか…という考えが浮かんできたのでした。「生命の樹」という概念の根底には、人体と樹木に共通するもの…構造やしくみ…があるように思えます。太古のガイアにおいて、ケイ素ベースの巨大な樹木はフリーエネルギー装置として機能し、ガイア中の必要なところへエネルギーを渡していたのかもしれません。

 実際、ケイ素は人体において、結合組織の形成や肌や骨や腱、血管、歯、爪、胸腺、松果体など体の主要な組織の形成など、非常に重要は働きをしています。また、骨に圧力をかけると電気が起こり 骨の形成を促す、という仕組みにも、ケイ素が重要な働きをしているように感じます。結合組織と聞くと 私は反射的に、細胞を修復するシャペロンタンパク質を連想してしまいますが(笑)、“骨への圧力”もシャペロンタンパク質を誘発する“結合組織の変形”も ケイ素がメインプレイヤーに思えてしまうのです。
 妄想ついでに言うなら、ケイ素は、宇宙の源…宇宙の素[そ]のエネルギーを媒介し、それ故に新たなものを生み出す“創造への媒介”なのではないだろうか、とも感じています。その真偽は未確認ながら、天然の水晶を使ったクウォーツ時計は宇宙空間でも狂わないけれど 人工水晶を使ったものだと狂う、という話を聞いたことがあります。水晶、クリスタル、クウォーツは、二酸化珪素です。時間とは、宇宙における動きを捉え記述する概念、ツール。宇宙における動きの元は 宇宙の源…素のエネルギー。ケイ素は、宇宙の情報の運び手と考えられている電磁波と似たようなはたらき、振る舞いをしているような気がします。少なくとも宇宙に普遍のエネルギーと非常に高い親和性を持っているように思えます。
 これは少し古いものになりますが、「微生物が互いに電子をやり取りする未知の『電気共生』を発見」や「生きた微生物が電気エネルギーを作り出す仕組みを解明」という記事があります。その内容を消化できていないものの、生きた微生物が細胞の外にある電極などに電子を渡す過程「細胞外電子移動」は、“細胞”を“一つの生命体”と捉えると 景色が広がっていきます。人体でタンパク質と結合した状態にあるケイ素 と 宇宙に充満している水素。何かそこらあたりに、ヒントがあるように思えるのです。

 テスラタワーも悪くはありませんが[いや、ほんとは あの姿形はあまり好みじゃないのですけどね。笑]、私は 東京タワーやスカイツリーほどの高さのある(ケイ素ベースの?)巨樹がフリーエネルギー装置として 地球のあちらこちらに立っている世界の方が嬉しいし 楽しいなぁと思います。
 いや、そのような集中型のシステムではなく、エネルギーが必要な物自体がフリーエネルギー装置を内蔵しているような個々に自立した在り方のほうが、いいかな。いや。個々の装置はエネルギー的に自立しつつ、土地やガイア全体ひいては銀河へのエネルギーの“わたし”として 巨樹から庭の木々というバリエーション豊かな緑が溢れている世界を、私は大いに望みます。




Think Out Loudとは
考えていたこと、あるいは考えていることを声に出すのではなく、
声を出しながら考える行為である。

文字で書くことを優先させる習慣から、
声を出しながら同時に思考する行為に変えるだけで、
脳の質と速度は飛躍する。

ミュートで思考するよりも
プリミティブな言語空間に到達する。



 この 梶川泰司さんのツイートは、私が模索している「全体でかんがえる」(*この「全体」とは文字通りの意味)というあり方に 大きな指針を与えてくれました。

 とはいえ、いまこの文章を書くにあたっても なかなか実行できず、これまでの習慣…つまりはこれまで構築してきた回路や場というものに いかに縛られているかを実感しています。

 声とは、まさに わたしの場と世界とのまじわりで生まれたものを体が感受し それを世界へ発する流路です。エネルギーの流れであり かつ エネルギーの構造体でもあり。現象と(可能無限的な)意味が同居しています。

 今朝、布団の中で 声を出しながら思考することを試みているとき、皮膚という「膜」が 強烈に意識にのぼってきました。これまで 発生的に「脳は第三の皮膚である」と捉えていたのですが、それがよりリアルに実感されたのです。
 そして、受精卵のような 原初の生命体ような「一つの細胞」となった自分を、また 膜で囲われて生まれたばかりの初々しい「生命体の場」である自分を実感し、膜が“思考”の場であり 最前線であることを 体感したのでした。

 ミュートで思考すると 膜は起動しません。
 ミュートで思考すると エネルギーは脳の中へ凝っていき、ロダンの「考える人」のような 考えることが出来ない体になっていきます。
 考えていたことや考えていることを 声に出すのも、ミュート思考の延長です。

 声に出しながらかんがえると 全体の膜[*たぶん皮膚だけでなくfaciaや細胞骨格などの結合組織も]が起動し連動します。
 いや 全体の膜が発動することで、声に出しながらかんがえることができるようです。

 膜のネットワークの中に “現時点で最も新しい形態である膜”としての脳が位置づけられているのが、感じられます。



 まだ 始めたばかりなので、この認識が正しくないかもしれません。
 あらたな場づくりに取り掛かるよろこびだけは、確かにあります。

 果たして このあり方は 本当にわたしが求めているものなのかどうか。それも含め、どうなっていくのか。
 これからが楽しみです。




 先ほどアップした記事に、「武」や「舞」は “世界のバランス・動的平衡を探り求めるうごき”と書きました。
 そして、後半のほうの()内で、“私たちが認識できる現象に 私たちが認識できない領域も関わっているとするなら、私たちが認識しうるバランスや動的平衡といった現象など 実際に起こっている現象のほんの一部であるかもしれません。”とも書きました。

 また、ツイッターでは、「反転した認知」から想起した“対象化”というコトバについて、

 対象化することで、私たちは多くのものことを認識することができています。が、対象化することで、実在している“つながり”が断ち切られ 認識から消えてしまいます。
 対象化とは鏡像であり、向かい合うありよう。対立するありよう。
 同じ方向を向いたありようとして、認識することはできないのでしょうか。同じ流れをいくもの同士として認識し合うことはできないものでしょうか。そのような認知・認知にもとづく科学、ができないものでしょうか。

とつぶやきました。

 ブログの記事とつぶやきの内容は ひとつならりの思考にあります。

 ある現象に遇したとき、その捉え方や認識あるいは対応が 不知の領域も含めた全体(の現象)の流れに適っているかどうか。その判断基準の一つとして考えられるのは、
 自らの捉え方や認識あるいは対応が エネルギーの流れを停滞させていないかどうか。
 自らの場のエネルギーand/or自らの場にやってきたエネルギーが 滑らかにうごき流れているかどうか。
 武術でいうところの「順」であるかどうか。
 集め固める「力」ではなく 流れていく「うごき」であるかどうか。
…ではないかと。

 苫米地さんが考案したベーシックインカムのシステム[*下に動画あり]は、お金というエネルギーを停滞させることなく常に人々の間・社会の間を流れるように設計されています。

 では、滑らかに流れているかどうかを、(不特定多数の)他者と共有するのにふさわしい「型」は どのようなものなのでしょうか?
 苫米地さんのベーシックインカム案が参考になりそうですが、今日のところはここまで。









 先日放映されたテレビ番組『明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜』の「三の巻」と「四の巻」を観て、「武」というコトバの源を知りたくなり 漢字の語源ではいつもお世話になっているサイトで調べたところ、興味深いことが書かれていました。


 現代では藤堂明保が武の語源を解き明かした。藤堂は武のグループ幕(武・賦)、馬のグループ(馬・罵)、莫のグループ(莫・摸・募・驀など)、無のグループ(無・舞・撫)、巫のグループ(巫・誣)、明のグループ(明・盟・萌)、皿のグループ(皿・孟・猛)などを一つの単語家族にくくり、これらの語群はMAK・MAG・MANGという音形と、「探り求める」という基本義があるとした(『漢字語源辞典』)。
 武の根源にあるイメージは「無いものを求める」というイメージである。無いものを求めるためにがむしゃらに突き進む。


 武と舞はみなもとが同じ と感じていましたが、武と舞のコトバの祖音/語源が「MAK・MAG・MANG」であり 舞の訓読み[MAI・MAU]の音にその面影を大きく留めているのは おもしろい限りです。<参照:ツイッターでのつぶやき

 今日 上記のことをブログに書き留めるにあたって、以前どこかで「王朝を最初に開いた皇帝に武の名/諡が贈られ それを発展させた皇帝に文が贈られる」というような趣旨の記述を目にしたような記憶があり そのことも書き加えておこうと調べたのですが、見つけることができませんでした。が、その検索の過程で大紀元「一舞(武)両用の智慧」という記事に出逢いました。
 神韻芸術団のホームページより転載されたその文中に 次のようなくだりがあります。


この「一舞(武)両用」の中には、実は神の文化の博大な智慧を秘めています。道教の祖である老子は、「天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。」と言いました。中国人の考え方には陰陽の概念があり。宇宙のすべてのものは相対的であり、陰と陽は共存し、物事には正と負、難と易、長と短などがあると考えています。これは道教思想における宇宙の運行の重要な法則です。もちろん、武術(舞踏)にも同じ原則が当てはまります。実際の戦闘に使われた武術は、暴力を止めさせたり、世の中を安定させたり、善良な人々を守ることができますが、武術という手段自体は、目的を達成するためには流血まで惜しなく[原文ママ]残酷で暴力的なものです。そこで、陰と陽を補うという宇宙的な法則に則って、舞踊が生まれました。舞踊は武術の出身ですが、柔らかな資質を持ち、善良さと美しさで観客を感動させることができます。兵事や武器を動かすことはないが、時に戦争よりも強大な力を発揮することができます。


 この文章の書き手は、武から舞が生まれたと捉えています。
 しかし、私には、上掲した「武」の原義から 藤堂明保さんが言う単語家族としての身体的うごきのコトバから「武」や「舞」などが生まれたと捉える方がしっくりきます。

 探り求める。うごき。

 何を?

 世界のバランスを。動的平衡を。

 2011年に縁あって第10回クイチャーフェスティバルのお手伝いをした時、担当作業の合間を縫って目にしたあるクイチャーが印象残っています。男性二人(か数人)が棒を持って地面を突く動作をしながら舞う姿です。この貴重な機会を提供してくれた宮古島出身の友人とは、武と舞は同源・同根という認識を共有しており、彼女もそのクイチャーが目に留まったようでした。
 大地という不知の領域につながる場を 棒で突き叩き、地上の世界に欠けているものを呼び起こしている。そんな行ないとして 私には観えたのです。
 この友人も私も、武も舞ももともとは神事であったと捉えています。

 神。
 このコトバの語源も非常に興味深いのです。


 神にどんなコアイメージがあるのか。
 古人は「神は申(伸びる)なり」「神は信(伸びる)なり」という語源意識を持っていた。稲妻は雨を予想させる。雨は植物の生長を予想させる。こんな連想から、植物を伸ばし生長させる不思議な力をもつ存在として神が捉えられた。


 現代において用いられる「神」というコトバには 数千年にわたった蓄積された人間の思いが積み重なっているため、個人的に あまり使いたくないコトバでした。しかし、この語源 このコアイメージに基づいてならば 抵抗なく使えそうです。
 話がやや逸れてしまいましたが、武や舞という行ないがはたらきかけていた先は この意味における神というもの。たぶん最初は、枝や石などの自然物をもちいて あるいは 身一つで、「MAK・MAG・MANG」するという 武と舞の前段階のうごきがあったのだと思います。その過程で、神を感受する体の 神や世界/宇宙への応答が、体の使い方を多様化させ、それがとなり 型となり、世界/宇宙への応答の延長線上に 対人の(平面的な)振る舞いとして 現在使われる意味での武力というものが派生してきたのではないでしょうか。そして、他者に対せず 天や世界や宇宙に対する(垂直的な)振る舞いとして 舞という括りがうまれたのではないでしょうか。


 話を 神韻芸術団の文章に戻しますと、ここに書かれてある陰陽のような「ものごとの二元的な捉え方」について ちょうど考えていたところでした。この記事では陰陽は宇宙普遍の理とされていますが、私は異なる立ち位置にいます。
 この記事では、引用している老子の言葉を その本質とは違う捉え方をしているように思えます。

 どうして ヒトは 二元的な捉え方をしてしまうのでしょうか?

 二項対立であれ 補完・相補的な関係であれ、私にはずっと違和感がつきまとっていました。
 
 平衡している状態から 何かが動けば、その動きに応じた動きがうまれます。“きっかけとなった動き”と“それによって引き起こされた動き”という捉え方をすれば 二つの存在として認識することはできます。しかしそれは、補完的なものでも ましてや対立するものでもなく、一つの流れ・現象を部分的に区切っただけのこと。(しかも、私たちが認識できる現象に 私たちが認識できない領域も関わっているとするなら《私はそう考えています》、私たちが認識しうるバランスや動的平衡といった現象など 実際に起こっている現象のほんの一部であるかもしれません。)また、往往にしてその区切りは、平面的になり 豊かな流れを無味乾燥な数学世界の線に置き換えるようなことになってしまいます。
 その要因の一つは、「意識」と私たちば呼ぶ現象が 電気信号に拠っていることが、おおきく関わっているように思われます。
 ある閾値を超えたところであらわれるもの。
 それは、神経系統に限らず、ヒトの知覚や感受といったシステムが採用している在り方です。
 つまりは、0と1。
 区切りをはさんだ、二つの領域。

 しかしその間には 感受できない“未知/不知の領域でのつながり”が存在しています。
 ヒトのシステムにおいて 「0と1に支配される意識」を未知/不知の領域にはしわたすのは「体」です。不知の領域を感受できないけれども存在していると予め了解しているであろう“体の領域”。そこから意識が気づき学ぶことは思いのほかたくさんあるはずです。

「体に対してのアプローチの仕方がそれぞれ違う。
 で、当然出てきているあらわれが違う。
 そういうところでね、体っていうもんて ほんとに不思議やな、
 というふうに思います。
 で、構成は一緒ですからね、みんな」

 冒頭の番組の「三の巻」の最後に 武道研究家の日野晃さんがそうおっしゃったことが、とても印象に残っています。

 体を使うように 意識を使っている、私たち。
 体の使い方に沿って 意識を使っている、私たち。

 以上のように捉えるなら、私がいま武術というものに観ている可能性は 武のおおもとのコトバを観ている、ということになりそうです。
 体の可能性が智の可能性、ひいてはヒトの可能性。
 そんなふうに思えてなりません。



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