先日 画家の千住博さんと歌手の石川さゆりさんの対談番組を観ていたら、「体現によって理解し変わる」という文章の内容と重なることを 千住さんがおっしゃいました。
千住さんの代表作である「滝」の絵は、水で溶いた絵の具を瓶に詰めて それを 黒く塗った和紙の上から直接流して描かれます。キャンパスの上部に落とされた絵の具は 自然に流れ落ち、絵の具が和紙に描く自然な流れを いくつも重ねることによって そしてそれにエアブラシでしぶきを加えることで あの「滝」がうまれるのです。
その作法について 千住さんは次のように語ります。
「自然との共同作業なんですよ
そうやって自然に きれいに このカタチが流れてくれる」
「自然に 1回 作品をまかせることで
自分を越えた あるカタチが 生まれてくる」
「手に負えない自然というものを 毎回経験していくことが
とても大切な気がします」
それは、岡潔さんが言う「心は心の理法に 大自然は大自然の理法にまかせて その心をもって 数学をし続ける」ありかたや 「自分を使って行為することで 自然や宇宙を理解していく」ありかたと等しいものです。
千住さんの滝を観ていると、広隆寺の半跏思惟像が思い浮かびます。
番組の中でも触れられていましたが、滝という具象の背後にあるものが観じられ 立ち上がってくるのです。
石川「ここに見えているのは 水の…
上から落ちてくる滝なんだけれども
もしかしたら千住さんの中には
この滝に向こう側に何かの絵があって
今これがここに描かれているのかなって…
これは滝の絵なんだけれども
どこでもドアの入口のような気がして…」
千住「僕は滝を描いているんじゃなくて
たとえばそこに描きたいのは
静けさであったり
希望であったり
あるエネルギーであったり
生きる力であったり…
そういうものが描きたいんですよ」
それは 同じく番組の中で話題になった「すき間」というものと つながっているように思えます。和紙の皺を活かして描かれる崖の絵を見て、石川さんは 崖のすき間について触れられました。
石川「歌もそうなんですけど、
このすき間の中に いろんなものを感じるんです。
…すき間があるっていうのは
勇気のいることなんですよね」
千住「人間はそんなに完成されていませんよね。
だから自分と同じ未完成な部分に
感情が入りやすいんじゃないでしょうか。
そのスキをのこすのが すごく大切…」
石川「じゃあ 完成しちゃいけないんですかね」
千住「完成しないんですよ、したくても」
捉えきれないものを観じつつ それを背景に あるいは それに拠って表現することは、暗黙の領域に支えられた 明白の領域とも言えます。
千住さんの代表作である「滝」の絵は、水で溶いた絵の具を瓶に詰めて それを 黒く塗った和紙の上から直接流して描かれます。キャンパスの上部に落とされた絵の具は 自然に流れ落ち、絵の具が和紙に描く自然な流れを いくつも重ねることによって そしてそれにエアブラシでしぶきを加えることで あの「滝」がうまれるのです。
その作法について 千住さんは次のように語ります。
「自然との共同作業なんですよ
そうやって自然に きれいに このカタチが流れてくれる」
「自然に 1回 作品をまかせることで
自分を越えた あるカタチが 生まれてくる」
「手に負えない自然というものを 毎回経験していくことが
とても大切な気がします」
それは、岡潔さんが言う「心は心の理法に 大自然は大自然の理法にまかせて その心をもって 数学をし続ける」ありかたや 「自分を使って行為することで 自然や宇宙を理解していく」ありかたと等しいものです。
千住さんの滝を観ていると、広隆寺の半跏思惟像が思い浮かびます。
番組の中でも触れられていましたが、滝という具象の背後にあるものが観じられ 立ち上がってくるのです。
石川「ここに見えているのは 水の…
上から落ちてくる滝なんだけれども
もしかしたら千住さんの中には
この滝に向こう側に何かの絵があって
今これがここに描かれているのかなって…
これは滝の絵なんだけれども
どこでもドアの入口のような気がして…」
千住「僕は滝を描いているんじゃなくて
たとえばそこに描きたいのは
静けさであったり
希望であったり
あるエネルギーであったり
生きる力であったり…
そういうものが描きたいんですよ」
それは 同じく番組の中で話題になった「すき間」というものと つながっているように思えます。和紙の皺を活かして描かれる崖の絵を見て、石川さんは 崖のすき間について触れられました。
石川「歌もそうなんですけど、
このすき間の中に いろんなものを感じるんです。
…すき間があるっていうのは
勇気のいることなんですよね」
千住「人間はそんなに完成されていませんよね。
だから自分と同じ未完成な部分に
感情が入りやすいんじゃないでしょうか。
そのスキをのこすのが すごく大切…」
石川「じゃあ 完成しちゃいけないんですかね」
千住「完成しないんですよ、したくても」
捉えきれないものを観じつつ それを背景に あるいは それに拠って表現することは、暗黙の領域に支えられた 明白の領域とも言えます。
「すき間」という未完な部分は 未知にひらかれた領域のように 私には思えてなりません。うごきかわり続ける私たちや世界や宇宙が うごきかわっていく まさにその(最先端の/現在進行形の)場所、進化していく場、と観じるのです。
興味深いことに 『数学者の哲学 哲学者の数学』によれば、宇宙を現わす言葉は COSMOS(美しい秩序) UNIVERSE(統一された全体) SPACE(空間)と変遷してきた、とのこと[P.168〜P.169]。この記述が正しいとして そのSPACEという言葉に「すき間」や「間」の意味を重ねてみるなら、宇宙というものに対する認識が (秩序や全体といった)固定したものから (未知へひらいていく場という)うごきかわるものへ 変遷していった軌跡と捉えることもできそうです。
未完だから 未知だから 進み続けることができる、
ということになるでしょうか。
あるいは 進み続けているからこそ 未完であり 未知である、
ということでしょうか。
それは 無限の領域とつながっていきます。
「限」の字源は、白川静さんの『字統』によれば、
【阜(ふ)[*文字が表示できませんした。正しくは、
十の字を取った状態で 下にもう1つコの字がつきます]
と目と匕(ひ)とに従う。
阜は神の捗降(ちょくこう)する神梯の形。
その聖所を守るために、上に目を掲げる。いわゆる邪眼で、
辟邪の意をもつ。匕は人の却く形で、にそむいてかえる意
である。(略)神梯の前で辟邪の邪眼に会い、
辟易して立ち去ることを示す。
すなわちそこを限界とする意である。】
とのこと。
無限とは 現在の人知がおよぶ先
無限=未完 未知(みち→道)
ひとがあるくみち の 進む先
未知の領域が 新たな扉を開ける場となることを、私は 傾聴の講座で教えていただきました。その講座では傾聴のことを「精神対話」と呼び、言葉のやり取りはなくともそれは相対する二人の人間の精神の対話であると捉えていました。その“対話”において、話す側[A]と聴く側[B]それぞれに “知っていること”と“知らないこと”が現れてきます。AもBも知っていること Aが知っていてBが知らないこと Aは知らないけれどBが知っていること。通常は そのいずれかの領域で対話は進んでいくのですが、AもBも知らない「未知なる領域」が立ち現れたとき 精神対話は素晴らしいものになるのだと、おっしゃったのです。
「そうなったとき どんな所であっても 聖なる場所となるのです」
という言葉が 今も強く印象に残っています。
これは 通常の会話や人と人との関わりにおいても 起こることです。
未完だから 未知だから 希望が生まれる、
ということなのかもしれません。
それは 「おこなってみる」「やってみる」ということにも つながっていくように思えます。
*
これまた同じ番組の中で、石川さんの訪問を受けた千住さんが 今度は 石川さんの収録の場を訪ねます。ちょうど製作しているアルバムの中の一曲「空を見上げる時」を石川さんは 千住さんに披露するのですが、歌い終わった石川さんに 千住さんは次のようにおっしゃいました。
「この空間には空がないけど、
こういう格好(=空を見上げる格好)をして聴くと
ぐわぁ〜ん と 入り方が違って、
ふと石川さんを見たら
こうやって(=上を見上げて)歌っているじゃないですか。
そうなんだな と思って…。
こうやって(=下を向いて)歌ってちゃ 駄目なんですね。
空を見上げて歌うと
身体が覚えている“空を見上げた記憶”が
全部そこに出てくるんですね。」
記憶は意識領域のものですが、身体を使うことで あらわれ認識される意識がある、ということなのでしょう。それは 身体を使わなければあらわれない(というのが断定的すぎるなら あらわれにくい)意識や精神状態があるということを意味し、更に言うなら 私たちは身体的なうごきと共に意識や精神を育んでいく、ということになります。
千住さんが上記のようなことを気づいたのは、
空を見上げる格好をしたからこそ。
そういう格好をした千住さんが上記のように観じたのは
その時々の所作と共に石川さんが歌ったからこそ。
身体を動かしているときや移動中に 良いアイデアが浮かぶことは 少なくありませんし、思考するために あるいは 思考しながら話すために 部屋の中を歩き回る方もいらっしゃいます。
「おこない」という“表現”は 未完や未知の領域へ踏み出すことと同義、
と言えるのかもしれません。
それは 世界に触れる ということでもあります。
触れてみて わかる
触れてみなければ わからない
未完を身観によって知る
昨夏の数学のゼミでは、認知のプロセスとして
ACTION PERCEPTION UNDERSTANDING IMAGINATION
という4つの段階を仮定して 話が進められました。
「おこない(=ACTION)」と「気づき(=PERCEPTION)」は 決して一方向のものではなく 幾度も双方向のやり取りが行なわれる関係ではありますが、プロセスの最初のものとして「おこない(=ACTION)」が置かれた意味が 私なりに理解できました。
意識を向けることも 十分「おこない」ではあるものの、身体を使う「おこない」の方が 未完や未知へと踏み出す歩幅が広いような気がします。
ACTの語は インド・ヨーロッパ祖語の
「ag-」(to drive, draw out or forth, move)に遡ります
駆り立てる 引き出す 動く…
上記のACTIONは
to draw/引き出す というニュアンスがふさわしいでしょうか
PERCEPTIONの語源は
インド・ヨーロッパ祖語の「kap-」(to grasp)
つかむ しっかりと握る…
あるいは
per「徹底的に」+cept「つかむ・取る」+ion「〜すること」
徹底的につかみ取ること
未知なる領域から引き出す おこない ACTION
引き出されたものを つかむ PERCEPTION
*
和紙にできてしまった皺という傷を活かして生まれた「崖」の絵。
それは 最初 森に見えました。
いつか これまで描いてきた滝と崖をその懐に抱く「森」のけしきを 千住さんに描いてもらいたいと思いました。そして、そのプロセスを経て それらすべてを背後に抱きつつ千住さんが描く「滝」を観てみたいと思うのです。
プロフィール
HN:
Ri-Design
性別:
非公開
最新記事
(10/12)
(07/09)
(06/02)
(05/03)
(04/20)
(10/28)
(09/04)
(07/13)
(07/13)
(05/01)
アーカイブ
最古記事
(09/10)
(10/02)
(11/14)
(11/15)
(04/17)
(04/22)
(05/15)
(05/21)
(05/28)
(05/29)
ブログ内検索