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Sさま


寒中お見舞い申し上げます。

過日は 思いがけない素敵で美味しいクリスマスプレゼントを ありがとうございました。すぐにお返事をと思いつつ、なかなか“そういう感じ”にならないまま年が明け ようやく自然に手紙を書くことができています。

いただいた 無農薬・無施肥のコシヒカリ、
従来の「(粘り気がありすぎて)重く胃に負担がかかる」イメージを覆す さっぱりとした味わいで、それでもササニシキとは違い ギュッと中身が詰まっていますね。我が家定番の自然栽培ササニシキと代わる代わる楽しませていただいています。
そして『捕食者なき世界』。
こちらはまだ読めていませんが、とても興味のあるテーマです。
一旦壊れてしまったバランスは たぶん 元には戻らず、新たに より良い動的平衡状態を、模索し つくっていくしかないように思えます。
問題は、そのことに対して どのようにヒトが関わっていくのか。
“全体を俯瞰する視点”は(少なくとも太陽系の範囲における)生物と無生物の相互作用も含めたものであるべきで、
しかし その点に関して ヒトはまだまだ知識が乏しく、
しかし だからといって現状を放置することはできず、
だからこそ 粘り強い探究心と慎重すぎるほどの自制心と謙虚さを持って 焦らず一歩一歩事を進めていくことが必要になりますね。

「焦らず急ごう」
という 自然栽培の作り手さんの言葉を思い出します。

[*この文章を寝かせている間に、ブルーバックスの『海と陸をつなぐ進化論 気候変動と微生物がもたらした驚きの共進化』を 時間つぶしにのぞいた駅の本屋で見つけました。移動中さらっと冒頭の部分に目を通した限りでは、有機物と無機物が渾然一体となって織りなす「生態網」とでも呼ぶべき相関関係について記されているようで、“全体を俯瞰した視点”を得る助けとなってくれそうです。]


エネルギーについては、ヒトの活動が自然環境にどのような影響を与え、その結果 気候などにどのような変化をもたらすのか、正確に把握できない以上、エネルギー源や利用形態において 多様な選択肢・あり方が必要だと考えています。
仮に全てを自然エネルギーでまかなえたとしても、利用できる形が「電気」だけだとしたら、(太陽フレアの影響を考えるだけでも)それには大きなリスクが伴いますものね。

当たり前のことですが どんなことでも
一元化しない
多様であること
が大切なポイントかと。
(少なくとも宇宙はそのように進化/変化してきているように見受けられます。)


先日参加した『起源への問い』という講演会で 人間知性の起源について講演された方が、「自然と人為 どちらが大きいか、どちらがもう一方を包含しているか、考えてみてください」と聴衆に宿題を出されました。
その方が問うたのは、
ヒトが「自然」の一部であるなら “自然であるヒト”が行う「人為」も「自然」である、ということになりませんか?
しかし 自然であるはずの「人為」が自然を破壊している、ということは、「人為」が「自然」を内包している、ということになりませんか?
、というようなことでした。

ここで問われている「人為」と「自然」の関係が、この3年近く体を整えてきた私には 「脳」と「体」の関係に重なります。

「脳」は体の一部、臓器の一つなのだけれど、生命が 情報処理/情報統合の最新の一形態として「意識」というもの[=「意識」という現象]を持ち、その意識を使って 自身に言及できる“メタ的なはたらき[メタ認知/メタ思考]”を獲得したことで、体という“自らが拠って立つ基盤”である現実から遊離して 想像したり夢想したりすることができるようになりました。
それが ヒトの優れた点でもあるのですが、
それが ヒトを 体や自然といった現実とのつながりから切り離して活動させる、駆動力ともなりました。
(余談:中枢神経は皮膚と同じ外胚葉由来。皮膚のはたらきから推測するに、もしかしたら外胚葉由来のものには、原始細胞の細胞膜のように 外部と切り離しその内部で別の体系を発展させていく“ことなる[=個となる、異なる]はたらきが共通しているのかもしれませんね。)

そして、脳による“現実から遊離した活動”が ヒトの生存を脅かすほどに現実から遊離してしまったのが、現在なのではないでしょうか。例えていうなら、現実は線上の0から1を経て2へ3へ…と広がり繋がって動いているのに、脳は 0と1の間で無限の数を取り出すことに夢中になっている、というようなイメージ。
あたかも「自然」を内包しているのではと思わせる「人為」は、ヒトに 「自然」/「現実」に包含されていることの忘却を“自由”と錯覚させ、その結果 ヒトは その(まやかしの)“自由”を追い求め、それが「自然の征服」「自然の克服」という概念や態度へ繋がっていき、ヒトという存在を生み出した「自然」の“全体の調和/相関網”のありようを 大きく歪めてしまっている…。
もちろん 従来のバランスが崩れれば 自然/宇宙は新たなバランスへ移行していくだけのことですが、ヒトが今のまま無自覚・無反省に突き進むなら その結果もたらさせる新たなバランスにおいては ヒトが(そして現在の地球の自然や環境が)生き残ることはかなり絶望的だと思われます。

現実/実態から遊離し肥大化し膨張するものとして思い浮かぶものに「通貨」があり、通貨もまた 私には「脳」と「体」の関係に重なります。
(*通貨に限らず ヒトが考え出し作り出したものは 脳のはたらきによるものですから、当然ですね。笑)

通貨の具体的な発生の詳細について私は不案内ですが、分業社会を円滑に運営するために 人々の活動をつなぐ手段である という基本的な役割を考えるとき、それは 分業体制を可能にしている“食糧の余剰生産量”に依拠している、と理解することができます。
日本政府が関心を示しているという仮想通貨は 数学にその根拠を置いているとか。しかし、数学の理論は 通貨制度を成り立たせている“食糧の余剰生産量”から通貨の流通量を決定するためのツールとして活用はできても 通貨の本拠にはなり得ません。
基本に戻って考えるなら、通貨とは 他者に対してあるはたらきをしてもらう権利、あるいは他者のはたらきに対する御礼、なのだと思います。それが ある時期から 通貨が通貨を生むようなシステムが考えられ 現実のヒト(のはたらき)から遊離してしまい、額面という数字だけが肥大化するようになりました。
それは 上に書いた0と1の間で無限の数を取り出すことに夢中になっている姿と重なります。
それは 体から遊離し 体から自らの存在を切り離して夢想し続けている脳のありようと重なります。
[*通貨制度について再考するにあたっても 上掲のブルーバックスが参考になりそうです。]


この3年近く 私の中では、
体が整っていくに従って
余計な感情やこだわりや心の強張りが減っていき、

自律神経がきちんと機能し始めたからでしょう
体の状態と脳のつながりが 以前と比べれば格段に良くなり
脳は体の一部として 自然に落ち着きを取り戻している、
実感があります。


Sさんが ヒトの命の基礎を担う「食」と「(住/自然)環境=林業」を 全体に還していくのなら、私は まず 体のありようを全体に還していくところから 始めていこうと思っているところです。


以上、長くてきちんと整理されていない文章なので たぶん読みにくいであろうと思いつつ、自分の考えをまとめるプロセスとして この機会を使わせていただきました。

いつか直接お話を伺える機会がやってくるのを 楽しみにしています。

なにとぞご自愛くださいませ。



2019年2月1日(金)
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