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 講演の中で触れられる「安直な等式化」は、“さまざまな舞台の出来事が複雑に絡まっている日常”における「わかり急ぐこと」に通じます。脳は分からない状態を嫌うので、ヒトにとって「分からないままにしておく」ことは決して心地よい状態ではなく、“とりあえずでいいから理解できること、結論めいたもの”を求めてしまう。だけど その性急さは得てして思考停止につながり ものごとの捉え方を狂わせます。そこで焦らず先を急がず「分からないまま」に踏みとどまる。そんなじれったく苦しい状態を 内田樹さんは「中腰の構え」と名付けています。中腰のままでいるには そのための余地や余裕が必要です。エネルギーにおいても (私たちが時空として認識する)スペースにおいても。そして その際に生じるであろう様々なストレス[=ひずみ]についても それを調整したり解消するのに 余地や余裕が必要です。エネエルギーにおいても スペースにおいても。
 IUTにおける「歪[ひず]み」の概念は、体の「歪[ゆが]み」すなわち体の「歪[ひず]み」にも重なってきます。ここ数年 体を整えながら実感しているのは、全身の各部位をつなぐfaciaのような細胞外マトリックスの重要性です。ヒトの体は、異なった舞台のピースが異なった舞台のまま faciaのような場を介して つながり 通信している、ように感じます。そして、本来はしなやかで臨機応変 レジリエンスを備えているそれらの場が、外力によって受けたひずみから回復するために必要な余地[=エネルギー、スペース、生体のペース]を得られないままで放置されてしまうことで、体の骨格や臓器や神経にひずみやゆがみが生じ さまざまな症状や病気として現われる---。ヒトにかかる外力は 物理的な接触といったシンプルなものもありますが、日々のさまざまなな出来事は多様な舞台が複雑に絡まった状態として やってきます。そんな外力の最強のものが 災害であったり トラウマになるような出来事。トラウマの治療に体からアプローチしている方たちがいらっしゃいますが、私には理にかなった方法に思えるのです。
(余談ながら、上記の「中腰の構え」は 細胞外マトリックスの場がサポートしてくれるように感じます。その場のはたらきに拠って、分からないものことを分からないまま 文字通り 体のあちこちに置いたままにしておける、のではないかと。)

 ここでまた素人ゆえの(そして/あるいは、安直な等式化ゆえの)飛躍を許していただきたいのですが、数学でそんなfaciaのはたらきを担っているのがたし算 に思えてしまう私は、大きさの異なるピース同士を合わせるためにピースを伸び縮みさせ その際に生じるひずみを扱うのではなく、大きさの異なるピースはそのままで (その際に生じるひずみを引き受け)それらを繋いでいけるたし算、というものを考えることはできないだろうか、と夢想してしまいます。その夢想は、さらに「成っていく数学」という幻も引き寄せてきます。それは、力づくではない 自然な数学、とも言えましょうか。

 『宇宙と宇宙をつなぐ数学』の書評から こんなことをつらつら考えていたら、梅雨が明ける直前に訪ねた場所で 岡潔さんの文章をまとめた本『岡潔 数学を志す人に』と出逢いました。そしてそこにも とても興味深いことが記されていたのです。


 「数学の本体は調和の精神である」
  <(アンリ・ポアンカレーの言葉)P.36>


 調和感が深まれば可能性の選び方、つまりは「希望」というもののあり方が根本的に変わってくるわけで、(略)数学の目標はそこにあるということができます。<P.37-P.38>

 数学というものは闇夜を照らす光なのであって、白昼にはいらないのですが、こういう世相には大いに必要となるのです。闇夜であればあるほど必要なのです。<P.46>


 アンリ・ポアンカレーの言葉はこの本で知った私ですが、前々から 数学に調和の匂いを感じていました。その匂いの源は、「数の定義」の変遷です。無理数や虚数など新しい数が発見/創出されるたびに すべての数を包含できるよう 数の定義は改められてきました。当たり前と言えば確かにそうなのですが、目の前やすぐ隣に存在している人を 同じものとして/仲間の一員として包含しようとしない、そしてまた(自分たちにとって)不都合な人間を排除・殺戮しようとする人間の姿を思うと、私たちはピタゴラス教団のようなもの[*「無理数の存在を隠していた」「無理数の存在を明かした者を海に沈めた」などの話がまことしやかに語られています]。私の目に数の世界は 調和に満ちて映るのです。まぁそれは 数というものが極度に抽象化されたもので、人間の生々しい“具体”に直接関わるものではないから、理想的な調和の世界をそこにつくることができるのでしょうけれど…。
 そして、(書評と解説講演で理解した範囲ですが)IUT理論に アンリ・ポアンカレーそして岡潔いうところの「調和」を観るのです。


 岡さんの文章から もう一箇所。


 「僕は計算も論理もない数学をしてみたいと思っている」
 (略)
 計算も論理もみな妄智なのである。(略)そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切れなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。
<P.158-P.159>


 ここには「意識の流れ」とありますが、さらにその奥に「意識の流れ」を支える「生命の流れ」があります。私が アートと掛け声に見出した共通性は、「生命や意識の流れ」なのでしょう。
 私が(狭義の)アートにおいて惹かれるのはそこからほとばしっている「生命の流れ」。アートには 技術を極めていく芸能・技芸的なものと 技や術や型に収まらない生命の流れをあらわすものがあるように思えますが、岡さんがいう「計算や論理もない数学」に対応するのが 後者のアート。岡本太郎が『今日の芸術』の中で「絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。だれでもが描けるし、描くことのよろこびを持つべきであるというのが、私の主張です。」(光文社文庫P.115)というのも、すべての人それぞれの中にある生命の流れを表にあらわすことを勧めているのに他なりません。
 そして、先ほどfaciaのはたらきを数学に結びつけて語った夢想の背後に浮かんできた幻「成っていく数学」というものと、岡さんがいう「計算も論理もない数学」。この二つは、とても近しい場所にあるように思えます。


 私の言いたいのは、ただ趣味的に受動的に、芸術愛好家になるのではなく、もっと積極的に、自信をもって創るという感動、それをたしかめること。作品なんて結果にすぎないのですから、かならずしも作品をのこさなければ創造しなかった、なんて考える必要もありません。創るというのを、絵だとか音楽だとかいうカテゴリーにはめ込み、私は詩だ、音楽だ、踊りだ、というふうに枠に入れて考えてしまうのもまちがいです。それは、やはり職能的な芸術のせまさにとらわれた古い考え方であって、そんなものにこだわり、自分を限定して、かえってむずかしくしてしまうのはつまりません。
 それに、また、絵を描きながら、じつは音楽をやっているのかもしれない。音楽を聞きながら、じつはあなたは絵筆こそとっていないけれども、絵画的イメージを心に描いているのかもしれない。つまり、そういう絶対的な創造の意志、感動が問題です。
 さらに、自分の生活のうえで、その生きがいをどのようにあふれさせるか、自分の充実した生命、エネルギーをどうやって表現していくか。たとえ、定着された形、色、音にならなくても、心の中ですでに創作が行なわれ、創るよろこびに生命がいきいきと輝いてくれば、どんなに素晴らしいでしょう。

<P.118-P.119>


<続く>
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