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 あれは、いつ、どこで、だったのか。
 目にしたのは、数学の未解決問題の一つである「ABC予想」を日本人が証明した という記事。それだけなら「へぇ、そうなんだ」で終わってしまう可能性が高かったのだけれど、2012年に京都大学の望月新一教授が自身のブログで発表したその論文は 教授が20年以上にわたって独力で構築した理論に基づくために難解で ほとんど誰にも理解できなかったがゆえに 論文の査読に何年もかかっている、と知るや がぜん興味が湧いたのでした。

 独自の理論。
 異世界からやってきたかのような理論!

 自分の能力は一旦棚に上げ、既存の数学にもどかしさのようなもの[*数学に惹かれてやまないのに、既存の、少なくとも私が受けた教育では、まったく体に入ってこない。というレベルのもどかしさ《注1》]を感じている私は、当然のごとく“新しい(であろう)数学”の出現に大いなる興味を持ったのでした。
 とはいえ、論文を勉強するための国際会議まで開かれた(けれどもほとんどの参加者は理解できなかった)というその理論を 数学のド素人にせめてぼんやりとした輪郭や気配だけでも示してくれる人は見あたらなかったし、自力で理解に向かうエネルギーは(少なくとも当面は)なかったので、熱い興味を心の片隅にそっと置いたまま日々を過ごしていたところ、今年になって、望月教授の「宇宙際タイヒミュラー理論」の“エッセンスを一般の読者に向けてわかりやすく紹介”した本が出たことを知りました。

 『宇宙と宇宙をつなぐ数学』
 心くすぐられるタイトルじゃありませんか!!

 とりあえず図書館の蔵書を調べてみると、あります、あります。なんと10人以上が予約待ち。でもまぁすぐに読むという感じではなかったので、待ちきれなかったら買うことにして とりあえず予約を入れ、それでも本の内容は気になるからウェブで情報収集したところ、HONZでの書評が目に留まったのでした。
 その中の「たし算とかけ算を分離する」という一文は、ずっと私の中でモヤモヤしていた“たし算とかけ算の関係”に風を吹き込み こんな気づきをもたらしてくれました。

     かけ算とは 新たな「一」を立ち上げること
     (「新一」という望月教授の名前が浮かびました。笑)


 かけ算を用いれば たし算で同じ数を足し重ねていく計算を容易にし簡潔に記述できることはわかるものの、そして 仮にそれがかけ算誕生の経緯だったとしても、素人ながら さまざまな数式において累乗が果たす役割に思い致せば、たし算と同じ土俵で考えるにはいささか無理がある というか 文字通り場違いな印象があったのでした。《注2》


 「一」は 私に数学への興味の扉を開いてくれたものです。正確には、数学者の岡潔さんが『人間の建設』で語っている「数学における一という概念」です。


     一を仮定して、一というものは定義しない。
     一はなにであるかという問題は取り扱わない。
                           <P.103>



 この文に触れてからというもの「一」というものが気になって仕方ありません。ひいては数という存在全般への興味へと広がっていきそうなものですが、(実際そういう部分もありますが)私は「一」のトコロに留まったまま、惹きつけられたまま、です。
 「一」とは、ある“まとまり”、“存在する”をあらわすコトバ。ヒトの認知や知覚の出発点とも言えます。ゼロや虚数の発見・創出も まず「一」があってこそのもの。突き詰めればor対応化を推し進めれば 数は0と1に集約できてしまうので、コンピューターが0と1だけで記述されることも理解できます。

 HONZの書評に貼られていた動画の 著者・加藤文元さんの講演で もっとも強烈に脳裏に残っているのが、エドワード・フレンケルの喩え[=学校で教わる数学は 完成図のあるジグソーパズル、研究における数学は 完成図のないジグソーパズル]をもとに 宇宙際タイヒミュラー理論(IUT)が従来の数学とどう違うのか、の説明で用いた比喩です。【*映像の23分あたりからご参照ください】

     「IUT的な数学は、大きさの違うピースをはめる」


 IUT的な数学とは、普通の数学では「ぴったりはめる」ことができない「大きさの違うピース」を、互いに異なる「舞台」に属するものとして<はめる>。その上で、その際に生じる「歪[ひず]み」を定量化する。”のだと言います。
 「(異なる舞台上の)大きさの違うピース」を(そのまま)同一の舞台のものとして扱うことで生じる歪み[*IUT的数学で扱う(互いに異なる舞台に属するものとしてはめる際に生じる)歪みに通じるのものがあるように思えます]は、社会の至るところで見受けられます。いえ、様々な問題は 異なる舞台にある大きさの違うピースを同一の舞台のものとして扱っていることから生じているように 私には思えるのです。そのような状況が存在していることは、相手の土俵に乗る とか (自分と)同じ土俵に引きずり込む、というような表現に見て取ることができます。グローバル化 然り。経済システム 然り。啓蒙主義 然り。宗教や精神世界やスピリチュアル 然り。そのことを自覚的に行なっているのが洗脳なのでしょう。
 もっと言うなら、人と人が関わりあうこと自体が、大きさの違うピースをはめ合せているようなものです。ヒトに共通する知覚・認知システムはあるとしても それが同じようはたらいているとは誰にも断言できません。同じものを指して「赤」と呼んだとしても それぞれが知覚しているその色が同じかどうかは誰にも確認できないように…。人はそれぞれ違う舞台に存在している、ということは 少しずつ理解され始めているように思えますが、<はめあわせる>舞台がどうあるべきか とか 適切な舞台が用意されたとしてもそこで扱うことによって生じる歪み については、私たちはまだ無自覚というか ほどんどその存在の必要性・重要性に気づけていないというのが現状ではないでしょうか。



 IUTでは、この2つのピースは2つのかけ算です。そして、一方のかけ算は他方のかけ算に比べて伸び縮みしてしまっていて変形されています。それを いま言ったような異なる舞台を使ってはり合わせる、ということをします。それがまぁΘ[テータ]リンクと呼ばれるものになってくるわけです。これがIUTとは何かということに対する一つのまぁ比喩ということになります。
 “違う「舞台」の上で、たし算をそのままにして、かけ算部分だけ伸び縮みさせた「同じ」コピーを作って結びつける。”という考え方になるわけです。
 しかしながらですね、本来違うピースを、あるいは同じ大きさではないピースを、形式的に あるいは 同語反復的にという感じでもありますが、つなげよう、関係づけるということをしますから、しかもしれは左と右では異なった舞台に属するものですから、これを安直に等しいまた一個の舞台に戻してしまうということをすると、そのイコールは矛盾が起こります。ですから、ここは気をつけなければいけないところで、安直な等式化はそのままではできません。従って等式ないしは不等式…普通の数学に戻る…普通の数学に戻そうというのはちょっと語弊があるんですが、そういうことをしようとすると歪[ひず]みが起こります。IUTの重要なポイントは、この歪み…すなわち 異なる舞台間の通信をすることによって起こる歪みというものを その大きさを計測することができる、というところにあります。これが実はIUTの重要定理の一つになります。その大きさを計測することによって、異なる舞台にあったものの間にこのような形の不等式を出す その歪みの分というのがここに現れています。そして、このような不等式を出すことによってIUTが例えば「ABC予想」のような不等式を出してくるということになるわけです。

<加藤文元さんの講演より>

<続く>



《注1》
 ヒトが(世界を)認知する場を 一片の膜[*2次元]とし、人の数だけ さまざまな傾きや向きを持って浮かんでいる空間に、円柱[*3次元]の形をした数学の場というものが これまた浮かんでいると想定した場合、既存の数学は 例えば円柱の長方形の形を認識している人たち(つまりは数学の専門家)によって記述されているようなもので、円や他の断面を認識している人にとって 理解しにくいものになっているような印象があるのです。


《注2》
 私たちは、それが持つ可能性や それがいったいぜんたい何なのか を分からないまま、様々なものを発見/創造して 用いている。言い方を変えれば、私たちは、そうとは知らずに発見/創造したものの 奥深さを、少しずつ理解していく…。
 おもしろい現象です。



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