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先日 後輩に送ったメールです。(一部修正あり)
いまかんがえていることの メモとして。


*****


Sくん


やっと返事がかけそうです(笑)。

いま、『生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像』という本を
読んでいます。

まだ途中なのですが、その本には
「地球の進化とは、地球の熱の放出による エントロピーの低下による構造の秩序化」であり、「生命の発生と生物進化は、地球のエントロピーの減少に応じた、地球軽元素の秩序化である」との説が記されています。

“生物と非生物の区別なく 変化を導く同じ要因がある”という考えは、
意識と物質ももとは同じという強い感覚を持ち続けてきた私には スッと腑に落ちます。

この説に拠った上で、
知ることや創造することを (いまだ現れていないものも含めた)多様なものを関連づけ構造化することと捉えるなら、カラダのことに限らず 様々なことを人が知りたいと思うその心/意識の働きは 自然なことと言えそうです。

好奇心や知りたいという気持ちに、目的はないのではないでしょうか。
「目的」というような意図や枠組みにはそぐわない しぜんなこころの/いのちの はたらき、なのでは。
 
だってそれは自分自身を知ることだから…


ヨガのようなボディ・メソッドも
奇跡のようなことを目指す カラダやスピリチュアルな能力開発も
意識が全てをコントロールできる/コントロールしようとする
というところから出発するなら、
マッドサイエンティストとなんら変わらないのではないでしょうか

「心を記述するのではなく
 心は心の理法に
 大自然は大自然の理法に任せて
 その心をもって 数学し続けることで わかっていく」
というようなことをおっしゃっています

「いまだ未知なるものの 一部である」
ということの自覚のなかで行うなら、
科学の探究も
精神の探究も
カラダの探究も
大きく間違うことはないでしょうし、
現在そのように分断されている これらの知が
融合されていくように思うのです

客観的な視点を失ったものは
バランスを崩します

証明できることだけしか見ないのも
感覚で捉えられることだけしか見ないのも
どちらも危険です

そういう意味では
私が触れてきた限られた範囲において ではありますが、
ヨガなどのボディ・メソッドもスピリチュアルなアプローチも
科学的な盲信と同じ範疇にあるように感じています
(まるで未知なるものを恐れているかのように感じることがあります。「未知」とは可能性であり伸び代だと思うのですが…。)

人類がどこに向かうのかは わかりません

それを決めるのは
いのちを体験することで(さまざまなことを)理解していく 私たちなのではないでしょうか



【補記】


コントロールや支配は、一見「エントロピーの低下による構造の秩序化」に適っているようですが、進化/いのちを ある固定した枠内に留めるものであるがゆえに それ以上の変化や秩序化や構造化を阻害し、結果的に ここでいう進化の流れに逆らうものとなります。

創造や思考が 高度な秩序化のいとなみであるとするなら、ヒトの可能性や創造性を育む社会をつくることが 進化/自然/宇宙の大きな流れに沿う、と言えそうです。(あくまで 冒頭で紹介した本の説に拠れば、ということですが。。。)
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