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 昨年「量子もつれが時空を形成する仕組みを解明」という報道に触れ、私にとって“時空の形成”とは宇宙の始まりと限りなく同義であるがゆえ それが量子もつれによってもたらされているとするなら この宇宙のすべては“量子もつれ”の関係にあることが証明されたのでは!と ひとり大いに興奮しました。

 私の理解(*この文章に限らずすべての文章は、その時点での私の理解に拠っていますので 間違い・勘違いがあるかもしれぬことを ご了解くださいませ)では、量子もつれとは 離れている2つの粒子が何の媒介もなく同期して振る舞う現象のこと。本当に 量子もつれによって時空が作られたのなら その時空上に展開しているこの宇宙のすべては 量子的に相関関係にある と言えるのではないだろうか、ひいては 物理/物と意識の繋がりが 見えてきたと言えるのではないだろうか、と考えたのです。

 実は 先日「宇宙物理学と仏教の対話」の講座に参加したのは、その研究をされた大栗博司さんが二人の講師のうちの一人であり 3回シリーズの最終回とあって 何か物理と意識の接点みたいな話が聞けるのではないだろうか、と期待してのことでした。

 講座の内容自体は 私の予想は大きく外れ、それぞれが自分の研究について発表され 聞いている側の講師が適宜質問をする というもの。「せっかく遠路はるばるやってきたのに 残念」と思ったのですが、それは後日 もう一人の講師であり今回の講座の進行役でもある佐々木閑さんの本を開いたとき 己の浅はかさとともに その講座の意図を分かっていなかったことに気づかされたのでした。

 幸い講座の終わりに質問の時間が設けられたので、「大栗さんの今回の研究に基づいて 宇宙のすべては量子もつれの関係にあると考えるのは 拡大解釈しすぎでしょうか?」と尋ねてみました。

 そこは やはり 世界トップレベルの科学者です。

 いろんなことに安易に当てはめ 解釈を自分の希望に沿って拡大していこうとする 素人に対し、今回の研究は近似でしかないこと ゆえにまだまだ数式を洗練させていかなければならないこと また 時空というものが一般相対性理論における仮説であること 仮に数式で正確な証明ができたとしてもそれは理論における話なので観測できる予言を行って実証される必要があること(*ここで要約した内容は私の理解によるものなので おしゃったことと違っているかもしれません)などを、説明してくださいました。

 また、この講座で知り合った方が持っていた佐々木さんの本を 後日取り寄せてみたところ、序文にはこのように記されていました。

 ある面からみれば、科学と仏教は似ているように見えるのに、別の面から見るとまったく違うものに見える。こういうことが起こった場合、結論をいそぐと失敗する。まず考慮すべきことは、両者を並べて見る場合の、そのスケールをしっかり見きわめることである。ふたつのものを見比べるにしても、それを一体どういうスケールで見るのか、その視点の違いによって、両者は同一物に見えることもあるし、まったく別ものに見えることもある。リンゴとミカンを百メートル先から見比べれば、区別のつかない二つの球体だが、蟻さんの視点で見ればまったくの別ものである。このことをよくわきまえず、自分の勝手な思い込みで独断的に結論すると、科学を汚染し仏教を冒瀆する怪しい神秘論になってしまう。自分が比較したい点だけをひっぱり出してきて並べて見せて、「ほら、科学と仏教にはこんな共通点があるんです。だから科学の本当の意味を知るためには、仏教の神秘や直感を理解する必要があるんです」と言った愚論を開陳するはめになるのである。肝心肝要な部分に神秘性を持ってきて、それで科学の意味づけをしようという安易な論法である。

 一時、思想界に病毒をまき散らしたニューサイエンスはその典型であるし、今でも、引退した科学者が暇つぶしに仏教をかじる場合など、大方こういった方向に進みやすい。確かに科学と仏教のひとつひとつの要素を見ていけば、似ている点は見つかる。しかし実際には、その何百倍も何千倍も、似ていない点があるのだから、個々の類似点を持って、両者の総体的類似性を主張することなどできない。

【『犀の角たち』P.3~P.4】

 佐々木さんが指摘される「怪しい神秘論」や「安易な論法」は いわゆるスピリチュアルや精神世界といった分野で 普通に見られます。そして困ったことには、物理学や数学の十分な知識もない者が 現在の物理学は偽物で今ここで(その人が信奉する人物によって)唱えられている知識こそが正しいと、無条件に思い込んでいるのです。

 京都大学の工学部を卒業したのち同大学の文学部で仏教学を専攻された佐々木さんにとって、量子と意識の類似点をあげつらうような安易な企画は 選択肢になかったのでしょう。

 もちろん 現在の科学 現在の知識が この世界の全てを説明できるわけではありません。トップレベルの科学者は そのことを十分かつ最も理解していると思われます。

 私が大栗さんを素晴らしい科学者(ひいては人物)と思ったのは、数年前に受けた講座でのこと。大栗さんの書著を読めばわかるように 世界トップレベルの仕事をする一方で 最先端の知識を数式を用いずわかりやすく伝えるその能力と意欲に 大いに惹かれました。そして、「神様から教えてもらって 宇宙の謎を全て解きました」という女性に対し、多くの聴講者のように失笑したり眉をひそめることなく その正しさをきちんと(物理的・数学的に)証明してください、というような返答をされたのでした。


 インド人の天才数学者であるシュリニヴァーサ・ラマヌジャンに 「夢の中でインドの女神に方程式を教えてもらった」という逸話があるように、当人が(神様からの啓示であれ 直感であれ)どう認識するにせよ “ひらめきのように生まれる理解”というものがあります。それは多分 睡眠中に脳が行っている情報統合のはたらきと関連していると思われますが、それらがどんなに素晴らしくとも他者が理解できるように伝えることができなければ 人類共有の智とは成り得ません。「思いつくこと」と「それを証明すること」には 大きな隔たりがある、とある数学の研究者が話していたことを思い出します。

 物理学者の講義で聞いた話によれば、時空が同じものであることは アインシュタインの他にも少なからぬ人たちが指摘していたそうです。その中にあって アインシュタインの素晴らしいところは それを(それまでの物理学を踏まえ 他の科学者が納得でき また後世使うことができる)数式で証明したことなのでしょう。余談ながら 今この文章を書きながら、「理」とは、他者と分かち合うことができ 後の人たちも使うことができるフォーマットのようなものなのかもしれない、と思いました。そう思うと、文系・理系という区分けが奇妙に感じられます。いわゆる文系にも「理」はあるのですから…。

 ただこの文章の最後に、「安易な論法」に属するかもしれないれけど 冒頭の研究成果を受けて考えたことを記しておきたいと思います。


 量子について深い知識はないものの、量子の奇妙な振る舞いとしてあげられる「量子もつれ」や「量子のトンネル効果」は 意識のはたらきとの共通点を感じます。超常現象や超能力とされる現象も シンクロニシティやセレンディピティと呼ばれる現象も 量子的な意識のはたらきと捉えることもできそうです。

 何れにしても 現段階では「自分勝手な思い込みで独断的に結論」したことなので、きちんと証明できるようになりたいと思うのですが…。人の生存ポテンシャルとされる120年~125年の折り返し地点付近(±10年)にある今 これからの人生の目標にしてみようかな。と意志する 2016年の年明けand/or旧暦2015年の年の瀬です。


究極の真理へと到達するために精励努力し

心 怯むことなく

行い 怠ることなく

足取り堅固に

体力 智力を身につけて

犀の角の如くただ独り歩め



『スッタニパータ』六八







誰も知らない世の中の真理を、己が力でつかみ取る人たち。
私はこの本を、そういった真理の探究者たちに捧げる。

(略)

科学も仏教も、一人ゆく勇者の世界である。
そこには本当のカッコよさがある。
カッコよくない人生なんか、絶対選んではいけない。
この世の真理を自分の手でつかむために
すべてを投げ打つ覚悟で前進する、
そんな人生を目指してほしい。
それが人として生まれてきた甲斐というものである。



<『犀の角たち』「あとがき 未来の犀の角たちへ」より>




いま考えていることのメモとして、
友人に宛てたメールをアップしておきます。
[一部修正あり]


***


こんにちは♪
昨日は 朝起きて窓を開けたら 冬の匂いが流れ込んできて
遅まきながら、「あぁ〜 冬になったなぁ」と しみじみ実感しました。

私の体の不調[注1]は どうも更年期障害が主たる原因のようで、
閉経してからなるものと思い込んでいた私は 自分には縁のない症状と思っていましたが、調べてみると かなり重なるものがあり…、そういうお年頃になったのだなぁ と これまたしみじみしているこのところです(笑)。

一日中横になっていた日の夜、ちょうどプレゼントされていた 女性の体をサポートするドリンクがあったことを思い出して試してみたところ、翌朝には 普通に日常生活を送れるぐらいに回復したので、しばらくそのドリンクを試して 様子を見てみようと思っています。

<再構築>[注2]ってことに関して
そのドリンクのパンフレットにね こんなことが書かれてありました。


  子宮は、人を宿し育てるために、毎月その準備を行います。
  これが崩壊し、新たな準備のために月経があります。
  子宮は、人が形を得るために大地の母性を満たして育む館ですから、
  女性は本来月経や更年期に不快を伴う存在ではなく、
  毎月母性の神秘が巡って
  さらに美しく変身できる神秘的な存在なのです。
  (略)
  女性は毎月
  優しさと美しさを手に入れる神秘の仕組みが約束されているのに、

  現実的には、
  様々な不快を体験する人が多く、
  肌や髪質や体形にも悩みが生まれます。




「生理の時は 排毒期間」と よく言われます。
経験上、感情や意識の面でも 排毒するのに適当な期間だな、と思っています。でも 考えてみれば 生理期間に限らず、日々私たちの体の細胞は生まれ変わっていて 常に再構築されているわけで。このシステムは とってもありがたいなぁと、つくづく思う次第です。

「厳密な定義」[注3]って 細胞や体で言えば
何も出入りできない細胞膜や表皮でその場を覆うようなもの。
そんなことをしたら 細胞や体は死んでしまいます。。。
自分という場を 境界線などを使いながら(笑) その時々や場や環境に応じて再構築しつつ 良い加減にあいまいな存在が私たちであり、そんなあり方がいいんじゃないのかなぁ〜 なんて思っているところです。
言葉というものを完全に否定した時期もあった私ですが(*文章なんて二度と書かない!と思ってました。笑)、言葉も そんな風に使えたらいいな と思っています。

「あいまい」って 見方を変えれば「余裕」であったり 「隙間」であったり 「スペース」であったりしますよね。ユーモアっていう遊び心も そんな「あいまいさ」と通じるものがあるように思います。「ゆるさ」とも 言えるかな。あいまいだから 常に自らを書き換え 再構築することができるのではないのかな、と。

…ということで
この冬は 「更年期のお年頃」という絶好の機会(?)を使って
自分らしく 美しくなってやろうじゃないの
って気分になっているところです。

あ、でも 春になって会った時に何も変わってなくても
何事もなかったかのようにスルーしてくださいね。



★余談:人は 痛みの回路を使いまわして「共感」という感情を持つようになったと 昨夏読んだ脳についての本に書かれてありました。思考の途中経過は思いっきり省きますが(*すまん…)、それとは別に 悦び[注4]の回路(*ホルモンでいうと オキシトシンとかセロトニンが活性化する回路。ドーパミンとかの快楽の回路じゃなくて。)を使った「共感」の回路が構築できれば けっこう人間関係や社会が変わるのではないかなぁと、昨日おもいつきました。
 これまた途中経過を省いて言えば(*再びスマン…)、今の人にとって (できれば他者との交わりの中で)“悦びつつ行うこと”を増やしていくことが大切なんじゃないか、と。それは 自分の感覚や自分自身を大切にすることとも つながってきます。

 …以上、昨日おもいついたことを この場を借りて文字化させていただきました。m(_ _)m



★他者の存在はありがたいです。
 二人に向けたメールだからこそ 文字化されること/文字化できること があるのですから。自分用に書き留めるだけだと こうはまとまりません。(えっ、まとまってないって…。汗)


@2015/11/28(土)


/////



[注1]ずっと「体の接続があちこち悪い というか、好意的に捉えれば 体が再構築されているような感じで、さまざまなピースがばらばらにとっちらかったまま ちぐはぐしていて、芯はとっても明瞭で元気なのだけれど なんとなくだるくて外に出るのが億劫という 冬ごもりなモード」にありました。この現象が顕著になったのが フランスでのテロがあった日です。倒れるんじゃないかとヒヤヒヤしながら外出していた先で 夕方に合流した家人からテロのことを知らされ、ちらりと共時性(*因果関係があるということではなく、時を同じくして起こった現象 という意味で)を感じたりもしたのでした(笑)。



[注2]友人の一人が 私の「体が再構築されているような感じ」という文章を受けて、季節だけではなく生理が来るたびに同じようなことを感じている、と記したことを指しています。



[注3]もう一人の友人が「言葉自体の厳密な定義をつきあわせるより、場の擦り合わせがここちいいな…」と書いたことを受けています。



[注4]「よろこび」をどういう漢字で現わそうかと考えて 字源を調べたら(*字源もいまひとつはっきしりしないようですが…)、他者からの働きかけに応じる意を持つ他の文字とは異なり 「悦」は内側からおのづから湧き出るもの との記述を見つけ、悦の字を採用しました。
今日届いた 自然栽培の野菜の荷に入っていた冊子の中の一文。


「自然栽培が今できているのは、慣行栽培(の経験)があったからだよ。
 (肥料を施しての)きゅうりの最大のパワーと姿を見てきたから、
 どうすればきゅうりが採れるのかっていうのがわかったんだよね」。
 自然栽培でのきゅうりの姿しか見たことがなければ、
 それ以上どんな風に手をかけていいのかわからなかったという。

 <文中最初の()内の言葉は、私が挿入したものです。>


自然というトータルな“アナログ”における 人の意識やはたらきや創造という“デジタル”の あり方の、あるいは 可能性や進む方向を発見し それを全体の中に改めて位置づける際の、ヒントとなるように思えます。




先日 後輩に送ったメールです。(一部修正あり)
いまかんがえていることの メモとして。


*****


Sくん


やっと返事がかけそうです(笑)。

いま、『生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像』という本を
読んでいます。

まだ途中なのですが、その本には
「地球の進化とは、地球の熱の放出による エントロピーの低下による構造の秩序化」であり、「生命の発生と生物進化は、地球のエントロピーの減少に応じた、地球軽元素の秩序化である」との説が記されています。

“生物と非生物の区別なく 変化を導く同じ要因がある”という考えは、
意識と物質ももとは同じという強い感覚を持ち続けてきた私には スッと腑に落ちます。

この説に拠った上で、
知ることや創造することを (いまだ現れていないものも含めた)多様なものを関連づけ構造化することと捉えるなら、カラダのことに限らず 様々なことを人が知りたいと思うその心/意識の働きは 自然なことと言えそうです。

好奇心や知りたいという気持ちに、目的はないのではないでしょうか。
「目的」というような意図や枠組みにはそぐわない しぜんなこころの/いのちの はたらき、なのでは。
 
だってそれは自分自身を知ることだから…


ヨガのようなボディ・メソッドも
奇跡のようなことを目指す カラダやスピリチュアルな能力開発も
意識が全てをコントロールできる/コントロールしようとする
というところから出発するなら、
マッドサイエンティストとなんら変わらないのではないでしょうか

「心を記述するのではなく
 心は心の理法に
 大自然は大自然の理法に任せて
 その心をもって 数学し続けることで わかっていく」
というようなことをおっしゃっています

「いまだ未知なるものの 一部である」
ということの自覚のなかで行うなら、
科学の探究も
精神の探究も
カラダの探究も
大きく間違うことはないでしょうし、
現在そのように分断されている これらの知が
融合されていくように思うのです

客観的な視点を失ったものは
バランスを崩します

証明できることだけしか見ないのも
感覚で捉えられることだけしか見ないのも
どちらも危険です

そういう意味では
私が触れてきた限られた範囲において ではありますが、
ヨガなどのボディ・メソッドもスピリチュアルなアプローチも
科学的な盲信と同じ範疇にあるように感じています
(まるで未知なるものを恐れているかのように感じることがあります。「未知」とは可能性であり伸び代だと思うのですが…。)

人類がどこに向かうのかは わかりません

それを決めるのは
いのちを体験することで(さまざまなことを)理解していく 私たちなのではないでしょうか



【補記】


コントロールや支配は、一見「エントロピーの低下による構造の秩序化」に適っているようですが、進化/いのちを ある固定した枠内に留めるものであるがゆえに それ以上の変化や秩序化や構造化を阻害し、結果的に ここでいう進化の流れに逆らうものとなります。

創造や思考が 高度な秩序化のいとなみであるとするなら、ヒトの可能性や創造性を育む社会をつくることが 進化/自然/宇宙の大きな流れに沿う、と言えそうです。(あくまで 冒頭で紹介した本の説に拠れば、ということですが。。。)
昨日 久しぶりに スティーブ・ジョブズ氏がスタンフォード大学の卒業式(2005年6月12日)で行なったスピーチのことを思い出し、知人に 私が感動した日本語訳を送ろうと ウェブで探したところ、「とても良いスピーチなので、全文を保存させてもらおう。」という前書きとともに保存されていた“溜池通信(2005年9月27日)で紹介された全文”を 発見することができました。

そのサイトもいつまで在るかわからないので、私も ここで、この とても良いスピーチの日本語訳を全文保存しておくことにいたします。



原文URL:
http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404



今年の夏は、池谷裕二さんの本を 何冊かまとめて図書館から借りてきて読んでいます。私が池谷さんの本を初めて読んだのは 数年前のこと。家人が借りていた 糸井重里さんとの対談『海馬』です。この本を読んで、年を取ることを かなり肯定的に捉えられるようになりました。

子どもの頃から 大人になることへのあこがれのようなものがあったからでしょうか、特にモデルとする人がいたわけではないのですが 年を取るということについて ずっと 楽観的なイメージを抱いてきました(*年を取ることに実感が持てなかった、ということもあるのでしょう)。子どもであることや若さに対する 特権的な意識はほとんどなく(*“甘え”は充分にありましたが…)、素敵な大人になりたい 素敵なおばあさんになりたい、つまりは いい年の取り方をしたい という気持ちが強かったように思えます。
それでも 年を重ねるにつれ 加齢に伴うさまざまな不具合について見聞きすることが増え、実際に自分の身体の動きの悪さを実感することも増え、生物としての機能は衰えていく一方 というイメージが拭えなかったのも事実です。

そんなとき『海馬』を読んで、減る一方だと思っていた脳の神経細胞は 年をとっても増え続けることができ(*すべてではなく 特定の箇所においてですが) 経験にともなって能力やはたらきを高めていくことができることを知り、ものすごく元気づけられ 未来がぱぁーっと開けたような気持ちになりました。


実はその時は 本の内容だけが印象に強く残り 著者である池谷さんの名前は 記憶に留まっていませんでした。そしてその後は たまに『海馬』のことを思い出すことはあったものの 脳についての本を読むことはなかったのですが、今年に入って身体に対する関心が再燃し 身体と脳の関わりが気になってきたことをきっかけに、たしか「内部モデル」についてネットで調べていたときだと思うのですが 池谷さんの本と再び出逢ったのです。

脳のクセを知ると、自分や他人の思い込みやその結果がもたらす意見の相違に対して 距離が置け かなり寛容になれるような気がします。
また、脳の最新の知見に触れると 年を取るのが楽しくなってきます。

いま言われているアンチエイジングとはまったく違う あらたな大人(あるいは成熟者)たちがうまれてくるような…。

どうも そのための主要な鍵(の一つ)は 身体のようです。

一回の通読では 内容を捉えきれないので(*脳は ゆっくり覚えていくものらしいので、それは理に適っているのです。笑)、ふたたび よみなおしながら 脳のスピードにあわせて ゆっくり消化し ゆっくり考えていきたいと思います。


 動物相手に実験しているとわかるんだけど、下等な動物ほど記憶が正確でね。つまり融通が利かない。しかも一回覚えた記憶はなかなか消えない。「雀百まで踊り忘れず」という言葉もあって、うわぁ、すごい記憶力だな…と、一瞬尊敬に近い気持ちも生まれるかもしれないけれど、そういう記憶は基本的に役に立たないと思ってもらったほうがいい。だって、応用が利かないんだから。
 記憶があいまいであることは応用という観点から重要なポイント。人間の脳では記憶はほかの動物に例を見ないほどあいまいでいい加減なんだけど、それこそが人間の臨機応変な適応力の源にもなっているわけだ。
 そのあいまい性を確保するために、脳は何をしているかというと、ものすごくゆっくり学習するようにしているんだよね。学習の速度がある程度遅いというのが重要なの、特徴を抽出するために。
 (略)
 もし、学習のスピードが速いと、表面に見えている浅い情報だけに振り回されてしまって、その奧にひそんでいるものが見えてこなくなっちゃうのね。
 みんな勉強してて、なかなか覚えられないな、と苦労することがあるかもしれないけれども、それはこの脳の作用の裏返しなんだよね。しょうがないんだ。ものごとの裏にひそんでいるルールを確実に抽出して学習するためには、学習スピードが遅いことが必須条件なんだ。そして繰り返し勉強することもまた必要なんだね。
 コンピュータはなかなかそういうのがむずかしい。そういうプログラムを組めば多少はできるんだけれども、相当凝ったプログラムを組まない限り、そんな学習はできないんだ。
 ともかく、表面に見えているものに振り回されないためには、学習のスピードの遅さがキーになる。ゆっくり覚えてはじめてルールの抽出ができる。つまり、授業で先生に「まだ覚えられないのか!」と怒られても、それは脳がそうなっているからしょうがないんだよね。これからは怒られても、そうやって先生に言い返せばいいからね。

(池谷裕二・著『進化しすぎた脳』P.192〜P.194)





【補記】

脳にとって「あいまいで いい加減な」記憶が重要であることを考えると、絶対音感といわれるものは 一時期(今でも?)もてはやされたような“素晴らしいもの”ではない、ことになりそうです。大橋力さんも『音と文明』の中で 「十二平均律が導き出した特異で深刻な現象」として 絶対音感に伴う問題を指摘されています。









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