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「これは鼻に通る香りがするでしょ?
 こっちは鼻に抜けてく人工的な香りがするんですよね。」

「何の匂いがするか 無視してください。
 それ気にしだすとキリないですから。」


<下の動画の1:08 あたりから>





まとわりつく細かなものに気を取られず
より大枠の
より抽象な層でとらえる





 今年の初めのテレビ番組で初めて知った 日野武道研究所を主催している日野晃さん。研究所のHPに、武神館宗家初見良昭さんから学ばれたことを記したページがありました。初見さんについては、日本に来た外国人旅行者に密着取材するテレビ番組に写る様子しか知りませんでしたが、その“武”の有り様に興味を持っていましたので、日野さんが綴るその内容には非常に触発されるものがありました。

 その一つが、「“居着くは死、居着かざるは生”の教え」の次のくだりです。


「初見先生、つかぬ事をうかがいますが、初見先生が師の高松先生の所に弟子入りされた時、高松先生からの洗礼に『痛い』とは、おっしゃらなかったのですか?」
「もちろん私も悲鳴を上げましたよ、高松先生は『初見はん、痛いのは生きてる証拠でっせ、いつまで痛いところに止まっているんや』と怒られたものです、本当に優しい先生でした」



 日野さんがここで語る「居着くは死、居着飾るは生」の心境には及びませんが、この5年ほど体の歪みを取り除きつつ体を整えている私が 現時点で得られている気づきと、重なるものがあったのでした。

 この5年、心というものがいかに体調に左右されるかということを嫌というほど身を以て気づかされてきました。体のつまりや歪みが取れてゆくにしたがって、それまで悩まされて自己嫌悪に陥っていた不快な感情や思いも 取れてゆくのです。
 意識や感情というものは、体で起こっていることを あるレベルでまとめて行動に結びつけやすくした情報だと思うので、その大元は いま体で起こっていること、体の状態、ということになります。もちろん、考え方や受け取り方が体に作用し その結果引き起こされる意識や感情もあるでしょうが、個人的な実感からは 圧倒的に体の状態の作用の方が大きいと考えています。

 ですから、体に負荷や痛みを感じた場合だけではなく 何か不快な感情や意識が生じたとき、体に意識を向けて こわばっているところを外していくようにすると、心身の不具合が減少…うまくいけばなくなってしまうのです。【注】 武術をやったことはありませんが、ある意味では 状況から技をかけられていて それを受けている、ように感じたりもします。


 「傷つくのは傷つく用意ができているから」。
 何年も前に聞いた言葉を 思い出します。

 いつまで痛いところにとどまっているんや


 生きること は すなわち 世界(から技)を受け 世界と出会っている、と言えるのかもしれません。







【注】
 臨床動作法という心身へのアプローチは、同じような理解に基づいていると思われます。






【追記(2021/04/03)】

『ゴリラの森、言葉の海』より、山極寿一さんの言葉[P.119-P.120]

「人間というのは進化の過程で森から出て行きましたが、森の中で適応した特徴を今も多く保有しています。森にいたころに何が一番重要かというと、突然現れたものにすぐに対処するということなんです。森の中では見通しが利かず、視界が狭くなります。すると、いきなり目の前に何かが飛び出してくることもある。あるいは歩いているとどんどん景色が変わっていく。それに対してすぐに反応しなくちゃいけない。これは頭で考えていては無理なんですよ。予測できませんから。人間の祖先が森から出てずいぶん長い時間が経っているから、二次元平面の中で遠くの相手との距離を測りながらいろんなことを予測して、という世界に慣れてしまっているけれど、我々の身体感覚というのは、まだある程度は森の中にいると思うんです。今では因果関係や論理的な構造に基づいて、近未来を予測しながら準備して何かを達成していくというやり方が尊ばれるけど、とっさに何かがばんばん目の前に浮かび上がってきて、それに対応しなければならないというほうが、生き生きしているという感覚が残っていると思います。自分が考えるというより周囲から考えさせられている。」




 『未来のルーシー』の中で中沢新一さんが触れた “経済学者のハイエクと日本の霊長類研究の創始者として知られる今西錦司の対談” に興味を惹かれ、昨日 図書館から『自然・人類・文明』を借りてきました。今朝 掃除機をかけているときにちょっと息抜きしたくなって、その本の冒頭の、この対談のオブザーバーだった桑原武夫氏の「感想」を読んだのですが、その最後の部分に触発されるものがありました。


 博士は本年の晩秋にもまた来日されるという噂を聞いた。これが実現することを希望したい。ハイエク・今西対談はさまざまの示唆に富む興味深いものだが、両者の相互理解への努力にもかかわらず、歩み寄りはけっして容易なものではなかった。完全な意見の一致を要請することは無理ということであるかもしれないが、もう一度討論をかさねることは、少なくとも不一致の要因がどこにあるかがつきとめられ、そのつきとめの過程が、私たち読者にとっては新しい思想探求のきっかけとなりうるように思われる。討論の再開を希望する。 (一九七九年 八月末日)


 立場の異なるもの(たち)が「歩み寄ること」は望ましいこと。
 私たちはそう考えがちですが、本当にそうなのでしょうか。

 「歩み寄る」という言葉/言い様/概念は、それぞれの立ち“位置”に拠っています。でも、意識を向けるべきところは、位置ではなく、それぞれが立っている場の広がり というか 常に動きゆらいでいる(空)間、ではないかと思うのです。
 「歩み寄る」というあり方、意識の向け方は、それぞれが(たまたまその時)立っている位置を鮮明にし…というよりは固定しかねず、仮に「歩み寄る」ことができたとしても それは それぞれが異なっていた地平においてであって、本当の解決は 問題が提示されあらわれている地平とは別の地平/捉え方にあると 常々思っている私は、そんな「歩み寄り」にはあまり関心がもてません。

 互いの立っている場所から 相手の立っている場所をなるべく広い空間の中で眺めながら、それぞれの考えや思いを伝え合い、その伝え合う波によって互いのあいだに広がる空間や互いを含む場が動き変わっていくのを体感し そしてそのなかで動き変わっていく(であろう)自らを感じる。それは、それぞれが自らを伝えることで 場の重力のようなものが動き 空間のありようが変わる、といったようなもので、場合によっては 結果的に傍目には(立ち位置が近づいて)「歩み寄った」ように見えるかもしれませんが 多分それは重要ではありません。

 …と ここまで書いて、『未来のルーシー』のある箇所を思い出しました。


中沢 響きを聞くんですね。蜘蛛の糸でできた世界みたいなものですね。

山極 そして最終決断しない。これが京都人の生き方です。私も京都の町家に住み始めてから、町会長をやらされたりして地区の集まりなどに出るのですが、絶対に決定しない。決定しようとすると邪魔が入る。「ちょっと待て。まだ全体のかたちができていない」と。誰かが何かを言い出したら、その人をリーダーにして周りがフォローしようという考え方を絶対しないのです。みんながいろいろ言いあいながら、絡みあいがきちんと見えていかないとあかん、みたいな感じです。

中沢 アメリカ先住民や縄文人の集会も、そんな具合だったと思います。何の結論も出さないけれど、それでいて全体の編み目は変化していくわけですね。今西さんの進化論では、なぜ進化するのかというと、適者生存だからではなく、何となく変わっていくのだという言い方をしたりしますよね。何となく変わっていくというのは、まさに今おっしゃったような、変わるべくして変わるということです。こっちの方向に行こうとか、因果関係でこっちのほうに進化していったのだ、ということは言えない。そういう進化ですね。
<P.119-P.120/下線は当ブログ筆者によるもの> 



 それゆえに、安易に「理解」や「同意」や「同調」や「フォロー」することも またさせることも、避けたいものであり、(特定の相手に、ではなく)“間”にはたらきかけることで全体の空間(の編み目)が自然に変わり そのなかで自らが変わっていくことを「待つ」ゆとりや間を持つことこそが 大切だと考えます。

 いま これを書きながら、ずっと不思議だったことの絡まりが少しほぐれてきました。
 ずっと不思議だったこと。
 ある番組で ジャレド・ダイヤモンド博士が、ヒトの手足は失ったら(トカゲの尻尾のように)生えてこないのは “手足を失った個体が生き延びる可能性”が“再生するために費やすエネルギー”に見合わないから、というようなことを話していたように記憶しています。それは一つの見解に過ぎませんが、もし生命というものがそういう振る舞いをするのであれば 初めから重篤なハンディを持った生命をこの世に送り出すのは不思議です。それは、私たちからすれば重篤なハンディであっても 生命からすれば 生き延びる可能性があると判断したものなのかもしれない。その個体が生まれ出た社会に生きるヒトに その個体の可能性を託す、ということも含めて。…そんなことを考えたりしていました。
 でもたぶん 不思議でもなんでもないのでしょう。
 私たちが生きる(世界/宇宙)全体の編み目が たまたま そう である、そう であった、ということ。に過ぎないのでしょう。
 それは、枯葉剤などが原因のハンディが「そう である」から そのままでいい、ということではなく、「そう である」ところから 人々が望ましいように動くことで 全体の編み目は変わっていく。「どう」なっていくのかは定かではないけれど、それぞれが それぞれにとって正直なところから 社会へ 全体へ 伝える。そうやって 結果的にたぶんそれぞれにとって納得できる/腑に落ちるありようへと 自然に変わっていくのではないでしょうか。

 この数年 半世紀のあいだにため込んだ体の歪み(の編み目)をほどきつつ なんどもなんども実感するのは、体 つまりは 生物、生命は、その場のバランスを(たぶん最良に)保ちつつゆっくりと変わっていくものだ、ということです。速さ/早さを求め良しとするのは 体から切り離されて暴走する脳なのだ、ということです。全体から(つまりは、世界/宇宙から)切り離された脳は 時空の豊かさ(つまりは、この宇宙の豊かさ)を感受できないがために 待つことができません。
 そんな「切り離された脳」がつくりだした現在の社会は、いま、生命と非生命のあわいに“位置”づけられるウイルスによって (少なくとも農耕牧畜を始めて以降)ため込んできたであろう様々な歪みを露呈しています。

 新型コロナの終息がまだ見えないいま思うのは、パンデミックに際しては迅速な対応が不可欠であることは言うまでもないものの、ヒトの健康や生命を脅かす細菌・ウイルスへの長期的かつ包括的な対応の一つとして、「撲滅」や「闘い」というそれぞれの立ち位置に基づくアプローチではなく 両者を含む“相互作用しあう全体的な間”へアプローチする研究が始まってほしいということです。
 それは、感染症についてだけではなく (家畜や作物も含めた)生物の病というものについても 願うことであります。「撲滅」や「闘い」のアプローチの結果、現存する抗生物質がまったく効かない耐性菌が生まれています。抹殺しようとされれば 命は その“編み目”のバランスの中で生き延びる方策を模索します。開発当初は劇的な効果があった農薬が やがては効かなくなるのも、道理です。「立ち位置」や「(離散した)個(体)」による認識・対応だけでは 私たちが生きるこの世界を捉えることはできないのです。




<ほとんどを7月2日に書き、7月6日に書き終えました>







鳴くことを忘れた動物

ヒト



鳴くかわりに

うたいはじめた

 『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』を ようやく読み終えました。内容に触発されて思考はいろいろと広がっていくのですが、その一つに「ピダハン語の文にはリカージョン[再帰]が無い」というものがあります。リカージョンとは、一つの文の中にいくつかの文章が組み込まれている状態のこと。たとえば「私は、家人が図書館で借りてきた本を 手に取った。」というような 入れ子構造のことです[*言語学をきちんと理解していない私は、正確には「入れ子構造のことのようです。」と書くべきなのでしょうが、文章が煩雑になるので 以下そのような伝聞表現を略することにします]。ピダハン語が世に知られるまでは リカージョンは言語に普遍なものだと考えられていました。


 リカージョンは従来、文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力と定義されている(もっと数学よりの言い方をすると、実行すると自分自身を参照するような手順ないし命令系である)。鏡と鏡を向かい合わせて持つと、互いの鏡像がどこまでも果てしなく見えるというのが、目で見るリカージョンの例だ。耳で聴くリカージョンの例としては、フィードバックがある。アンプが自分自身の出力した音を拾い、増幅してさらに出力し、それをまた拾って増幅し、延々と出力しつづけるような場合である。(略)
 2002年、マーク・ハウザーとノーム・チョムスキー、テクムセ・フィッチが『サイエンス』誌に、リカージョンは人間言語に固有の要素であると発表し、リカージョンに大変な重責を担わせることになった。三人の主張は、リカージョンが言語の豊かさのカギであり、文法上リカージョンという形の上での技巧があるために言語は制限なく長く、また無数の文を作ることができるのであるということだった。

<『ピダハン』P.318-P.319>


 そのため、著者によるピダハン語の報告は 言語学会に大きな動揺を与えました。
 ヒトの脳を特徴づける性質、と捉えられているリカージョン。それをピダハンは 一つの文章の中で行なわず、文と文の関係性の中であらわします。一般的な言語では「おい、パイター、ダンが買ってきた針を持ってきてくれ」というところを、彼らは「おい、パイター。針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と、表現するのです。


 コーホイの発した短い文章を合わせると関係節を含んだひとつの文のようになり、英語ではそうやって訳すことも可能だが、それでいて形がまったく異なっていることに気づいたのだ。コーホイが発したのは独立した三つの文で、どの文も英語と違ってほかの文のなかに組み込まれてはいない。つまりこのピダハン語の構造には、言語学で一般にいう関係節を欠いているのだ。決定的なのは、最後の文「アイシギーアイ(同じ針だ)」で、最初のふたつの文に出てくる「針」を同一のものとしていることだ。(略)わたしはおのおのは独立した文でありながら、一緒になることで意味をなす表現を耳にしたというわけだ。つまり、形の上では関係節とは言えないが、意味的には関係節になるような表現を作る方法はあるということだ。

<同上 P.317>


 リカージョンがヒトの言語文法に普遍かどうか、については 少なくとも今の私は興味がありません。興味をそそられるのは、“おのおの独立した文”を“一緒にする”ことで“相互の関係性”を示す、その認知、その「世界のあらわし方」です。
 通常の 入れ子構造的表現であるリカージョンは、(さまざまな)現象を線的なつながりであらわす意識が 生み出し 用いる手法、のように思えます。世界の出来事を 原因と結果という因果的・直線的な対応に収め その関係性に閉じ込めてしまう意識。それに対し、ピダハンの世界の表し方は、おのおのの現象を独立したものとして認め それらを安易に関係づけることはせず とりあえずまとめて提示することで、「相互に関わりがあり影響し合っているけれど ものごとの関わりっていうのはそんな狭い範囲だけにとどまるものではないよ」という 仏教的な縁起にも似た 世界の捉え方をその根底に持っているようにかんじるのです。そのあり方は、ピダハンが出来事を物語るスタイル〜各文同士が複雑に関わり合い入り組んでいる〜にも 観ることができます。
 ものごと/できごとの関わりを、それを一つの文として限定された関係に落とし込まず 文のまとまりとしてあらわすことは、より俯瞰的な意識が必要であり より高度でそのため脳にとっての負担が大きいと思われるのです。


 現在の社会問題…特に経済制度 そして その根底に横たわる数学、というものを考える中で 「対応」というものを問い直そうとしている私にとって、ピダハンの言語…すなわち世界認識とそれに即した表現 は、非常に興味深く示唆に富んでいます。
 ある朝 掃除機をかけながら、ふと思ったことがありました。
 ヒトは体の中で起こっていることを体の外で繰り返しているor再現しているのではなかろうか---。
 体は 活動中に溜まった老廃物を常に排出して 自らの秩序を保ちます。その振る舞いを、体を拡張させた外界においても行なっているのではないだろうかと。[*注1]


 道具とはヒトの身体機能を拡張させたものだ と言われますが、道具に限らず ヒトが創出するものは自らの身体機能の拡張のように思われます。それがどういうものであれ 創出が意識を介して行なわれる限り 脳の状態を反映しており、つまり私たちは自分たちの脳世界に囲まれて生きていると言えるわけです。

 (ヒトもその一部である)自然は 分散した小規模な範囲で秩序と(その秩序に適合しないものとしての)無秩序が行き来していて、たぶんそれが生物としてのヒトにとって適当なあり方だと思われます。大規模な秩序である「文明」は、人工物だけで世界を埋め尽くす…つまりは脳の秩序で世界を埋め尽くすことであり、本来小規模な範囲で適切に行なわれるであろう“秩序とそれによって生まれる無秩序の行き来”が 行き詰まる状況を生み出します。人工物だけの空間に息苦しさや発狂の気配を覚えるのは、ヒトとして当然であり真っ当なことなのでしょう。
 体は 自らの秩序を保つために、ヒト以外の秩序に つまりは自然に 自らがつくりだした無秩序を託します。託した無秩序は 別の存在の中に取り込まれて秩序化され、その存在もまた 自らの秩序を維持するために 無秩序を排出し…。秩序と無秩序は、自然あるいは宇宙という舞台を介して 託され手渡されていきます。それが、いわゆる生態系というもの。ヒト(の生存)には自らを取り巻く世界に ヒトがつくったもの以外の秩序が必要不可欠なのです。

 秩序は閉じた空間があって初めて成立します。だから生命というものが誕生するに際し 外界から場を分離するための「膜」が果たした役割が極めて重要だったことは、想像に難くありません。生命は自律的にその秩序を再生産あるいは更新していく(外界とは非対称な)存在だからです。ただ、生命の秩序は閉じたままでは成立しません。外界との関わりの中で存在するがゆえに 開かれた場でもあります。ここでいう外界とは、ヒトがつくったもの以外の秩序である 自然や宇宙です。その 外界から閉じていてかつそれに向かって開いている境界、膜、つまり表皮は、生命誕生時の単細胞生物の細胞膜の頃から蓄積されてきたであろう 内外の相互作用やバランスを絶妙に保つ一種の知恵やノウハウを備えているのではないか、と思うのです。
 ヒトの意識がつくりあげた秩序である社会を 体が拡張した場として眺めると、世界中のいたるところがネットで繋がり 境界は日々曖昧になり ランダムな無秩序の様相を呈するさまざまな情報に晒されて、現在 ヒトは皮膚感覚を喪失したような状態、と捉えることもできます。言い換えれば、体が地球サイズに膨張してしまったわけで、その中で生じているさまざまな問題や歪みを排出できず 内に抱えたまま、という状態。ですから、その主張するやり方の適不適は別にして、昨今の移民に対する一部の反応や イギリスのEU離脱や ナショナリズム的・民族主義的雰囲気や 不寛容の広がりという状況は、「皮膚感覚の喪失」という視点から捉えることもできそうです。
 さらに 皮膚感覚を機能させるのに必要だと思われるパーソナルスペースは、都市生活において 人的・物的・設計的に過密な状況下で常に侵食され続けており、そこで生活するには 皮膚感覚を麻痺させるしか術はありません。[*注2]

 皮膚感覚の喪失については、別の要因も(と言いますか多分こちらが主因だと思うのですが)思い浮かびます。それは 子どもへの授乳期間とその間の接し方、です。
 少し前に放映された『ダイヤモンド博士の“ヒトの知恵”』は、パプアニューギニアなどの伝統社会での生き方を参考に 現代社会を考えるシリーズでした。その第2回で見た伝統社会での子育ては 別の番組で見たオランウータンの子育てそっくりだったのです。
 狩猟採取民の伝統社会では 母親は赤ちゃんを常に抱っこしていて、赤ちゃんは母親と過ごす9割の時間はお母さんと肌が触れ合っている状態と言います。寝るときは両親と一緒の添い寝。そして泣けばすぐに授乳してもらえ、夜でも赤ちゃんは母親の上に寝ているので お腹が空いたらいつでもお乳が飲めるのです。[*ということは、伝統社会の母親は夜泣きに悩まされることがない、のでしょうか。]また、伝統社会の赤ちゃんは 他の大人たちからも面倒を見てもらいます。これをallo-parenting(代理養育)と呼ぶそうです。オランウータンも赤ちゃんは常に母親に抱っこしてもらっていて 欲しい時にお乳を飲んでいましたし、他の大人たちからも面倒を見てもらっていました。
 添い寝や“泣いたら授乳”は 子どもの自立を妨げるものとして否定的に捉えている人たちや社会がありますが、ダイヤモンド博士の観察するところでは、そうやって育った伝統社会の子どもたちは幼い頃からとても自信に満ちており 臆することなく大人と対等に接することができるのだそうです。子どもを甘えさせるどころか“小さな大人”として扱う伝統社会が[*ゆえに体罰はないそうで、もしも親が子どもに体罰を与えたなら それは離婚の原因となると言います。]、そのような育児を採用しているのです。



「伝統社会の赤ちゃんは allo-parenting(アローペアレンティング)によって安心感に包まれて育ちます。何か要求するとものの20秒でそれが満たされるので、ビクビクすることなく自信を持って成長できるのです。」(ダイヤモンド博士)


 狩猟採集の伝統社会ではオランウータンと同様に危険が常に隣り合わせなので赤ちゃんを常に抱っこしている必要があるわけですが、動機はどうあれ、ヒトは動物としてそのような関わり方をしてきた年月の方が圧倒的に長く 生物としてのヒトにとっって好ましい在り方なのだと思います。特に 乳児期に、世界と自己の境界である肌が、常に母親や他の大人たちと触れ合うことで 肌の感受性/センサーを育み、たぶん「個」の形成に重要な役割を果たしている、と個人的には考えています。
 肌は、表皮は、知覚/認知の最前線。
 それは、言葉や数といった抽象感覚をはぐくむ原初の源。

 もう一つ、伝統社会の子育てで興味深いのは、離乳は赤ちゃんのペースに任せている、という点です。日本でも少なくとも半世紀前までは 数は少ないものの 小学校に上がる頃まで あるいは小学生になっても お乳を飲んでいる子どもがいました。1時間に何度も授乳していると 母親の体から排卵を抑制するホルモンが分泌されるため、赤ちゃんが3歳か4歳になって授乳の頻度が減るまで 妊娠しにくくなるようです。これもまた、危険と隣り合わせの生活においては 抱えて逃げられる乳飲み子は一人であるのが好ましい、という現実の要請から そうなっているのだと考えられます。また、「穀物からは離乳食が容易につくれるので(大人の都合で強制的に離乳させられるため 不妊期間が短くなり)稲作社会になって人口が急激に増えた」という歴史学者の指摘からは、離乳食をつくれなかったから という要因も考えられます。しかし、子どもの発達過程を鑑みたとき、自分中心の視点から 他人の立場に立って考えられるようになるとされる3〜4歳に 授乳の頻度が減る、つまり 自然に乳離していく、というのは、相関関係があるように思えてなりません。自然誕生をサポートしている助産師さんが へその緒をつけたままの赤ちゃんが生まれてから自分の力で肺呼吸を始めるまでかかる時間を「自立時間」と呼んでいますが、赤ちゃんが自然に乳離していく年月もまた「自立時間」と呼んでみたくなります。お乳からの自立時間と 常に肌を接している状態からの自立時間と 「個」が芽生えるための自立時間は、その時期と長さにおいて かなり重なっているのではないでしょうか。そして、この世に生まれてから自力で肺呼吸を始めるまでの自立時間は、これらの自立時間の前提として機能する ヒトという存在にとって根本的なものではないでしょうか。[*注3]

 自立とは 混沌や一帯からの分離。
 知覚/認知の はじまり、出発点。
 「一」とは、ある“まとまり”、ある“存在する”をあらわすコトバ/記号/象徴。ヒトの認知や知覚の出発点。と、この文章の中で書きました。
 つまり、「一」のはじまり。
 原初の「一」がうまれるところ。

 このような考えに至って初めて、岡潔さんが『人間の建設』で言っていた次の言葉を ようやく実感をもって受け取ることができました。


 一人の人の生まれたときの有様を見れば、あるいは世界の始まりも見えてくるのではないかということも思います。
 その基本は何かと言いますと、生まれてどれくらいでしょうか。赤ん坊がお母さんに抱かれて、そしてお母さんの顔を見て笑っている。このあたりが基になっているようですね。その頃ではまだ自他の別というものはない。母親は他人で、抱かれている自分は別人だとは思っていない。しかしながら、親子の情というものはすでにある。あると仮定する。(略)
 世界の始まりというのは、赤ん坊が母親に抱かれている、親子の情はわかるが、自他の別は感じていない。時間という観念はまだその人の心にできていない。ーーーそういう状態ではないかと思う。(略)それは何かというと、情緒なのです。(略)自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想なんです。矛盾でなく、初めにちゃんとあるのです。そういうものを情緒と言っている。私の世界観は、つまり最初に情緒ができるということです。<P.107-P.109>


 岡さんが「情緒」と呼ぶものを、私は「(世界との)一体感」として理解しています。
 人生に再現性は求められないので、自分が生まれたときの感覚を再体験することは不可能ですが、それとかなり近いのではないかと思われる体験はしています。
 自然の中を歩いているときに。
 自然に浸っているときに。
 声を出しているときに。
 レストランで食事しているときに。

 そのときの実感を 以前のブログで次のように記しました。(読みやすいように(略)は省いてあります。)


 自分もその森の生態系の一部(あるいは もしかしたら全部)になっているように観じられました。
 そんな意識のまま 改めて風景を眺めてみると、連続する風景のどこを切り取っても絵になるのです。そのとき「ひとつ」ということが気になっていた私は、どこをどう切り取っても「ひとつ」になっていることに 驚いた というより 歓びを感じました。
 直接俯瞰することのできない早池峰山を「ひとつ」として観じつつ、いま自分が歩いている北斜面の森もまた そのなかの「ひとつ」であり、その森を歩きながら通り過ぎる風景もまた「ひとつ」となっている…。そして 同じ場所に身を置きながらも 自分の意識を変えると、「ひとつ」だったものが「ばらばら」な風景となってしまう…。


 世界とのさかいを実感しつつ 世界はひとつとしてある、という感覚。
 岡さんは(世界の始まり/情緒に)時間の観念はない、と言っていますが、私は、時間だけでなく空間の観念もなく とはいえ 世界にのみ込まれているわけでもなく、世界から浮上した感覚を介する「体験」だけがある、と上記の体験から思っています。
 在るのは、「ある(在る、生る)」かつ「いる(I流)」という実感だけ。
 その「ある/いる」は一つではなく、全体としての「ある/いる」と その中に在る小さな「ある/いる」。両者は矛盾することなく「ひとつ」として「ある/いる」のです。
 その“世界の始まり”は、うまれる前の 母親のお腹にいるときにあらわれてくるのではないかと思っています。そして 胎児のときから生まれて死ぬまで、世界と自分 ふたつの「ある/いる」を矛盾なく隔てつなぐものが 皮膚だと思うのです。それゆえに、皮膚感覚が適切にはぐくまれる(ス)ペースで ヒトは生きていくことが望ましいと、考えるのです。もしかしたら、座禅や後ろ戸の神というものは そんな“世界の始まり”の「ある/いる」へ人をつなぐために生まれたものなのかも知れません。

 数という抽象概念では この「ある/いる」、岡さん言うところの「情緒」をあらわすことはできないでしょう。あらわすことができるのは  この一体感の際に覚えた“小さな「ひとつ/ある・いる」”として芽生える「一」。その「一」をいだく“大きな「ひとつ/ある・いる」”は、ヒトの知覚を超えたもの、「全」や「闇」の領域がようやく橋渡せるかも知れないものゆえに 人にはあらわすことができない。
 そしてたぶん、始まりの「一」は たし算領域の「一」。
 その後 自他の別ができたときに見つける「1」は、かけ算領域の「1」(=1×1)。
 ではないかと。
 また、生まれてしばらくまで続く時間も空間もない状態から 次に生まれるのが、“体験/実感している場”の延長としての“ひろがり”すなわち「空間」の観念ではないでしょうか。数の世界に対応させるなら たし算の領域。そして次に、場の変化 空間の変化を知覚し、その中に変わらない抽象性を見出すことで、変化を認知し記憶する「時間」という観念を会得する。数の世界でいうなら かけ算の領域。さらに認知の回路に対応させるなら、「感覚」はたし算領域に近しく 「意識」はかけ算領域に近しい…。
 それぞれの秩序は、たし算領域で自分以外のものと繋がりつつ、かけ算領域で(個々の)世界が具体的に立ち上がっていく、ように思います。
 そしてまた、岡さん言うところの「情緒」… 私が「ある/いる」と呼ぶ主観と客観が矛盾することなく同居する/関わりあう/織りなす場 につながりつつ行なうなら、“計算も論理もない数学”というものがもしかしたら可能かもしれず、生命の流れのなかでヒトはその可能性を開いていくことができるのかもしれない、とも思うのです。








[*注1]
 ヒトを進化のプロセスにおいて眺めると 面白いことに気づきます。
 外界の変化に翻弄されてきた生物は、恒温動物となり 哺乳類となって、生き延びるために快適な環境を自らの内に設けることで、外界の変化や状況にあまり左右されることなく生存することができるようになりました。そして、環境の変化への更なる対応を 今度は 体の外へと移し、衣服や道具や住まいや社会といったものをつくり出していきます。つまり、外の秩序を内面化し、ついで 更新された内なる秩序を外へ広げ、そして今 外界へ広げすぎた秩序が生み出す無秩序が 自らの生存を脅かしている、のですね。

 この“外と内の行き来および相互作用”は ヒトの成長過程でも観ることができます。
 ヒトは生まれると まず自分の周囲を認識し その外へ注ぐ眼差しを次に内に向けて自分に気づきます。そして、自分に向けた眼差しを 再び外へと向け…。そうやって、眼差しを 意識を 行ないを、外と内のあいだで行き来させながら ヒトは自らの振る舞いや考えをつくり 修正していきます。まさに入れ子構造的、かけ算的[→き/起]、です。でも あまりにも入れ子構造が複雑になって捻れひずんでしまうと 生命力が奪われかねません。ときには たし算世界[→ある/いる]へ戻る必要がある、いや かけ算世界とたし算世界を自由自在に行き来しながら生きる[→「いる」と「き」の行き来→「いきる」(「いる」のなかに「き」がある)]のがいいのでしょうね。





[*注2]

 『木々は歌う』という本に、衣服がヒトと環境とを断絶していることを示す印象的な記述があります。

 ほかの多くの森林と違って、ここ[=アマゾン*筆者注]では雨の音からたくさんの情報が得られるのだが、ポリエステルやナイロン、綿といった繊維で織った布地は、ぴちょんぴちょん、ぽつぽつ、ぴしゃん、とにぎやかに雨を跳ね返し、雨音はよく聞こえなくなるし、気も散ってしまう。人間の毛髪や皮膚はきめ細かで、ほとんど音をたてることなく雨を受け止める。私の手も、肩も、顔も、音ではなく感覚で雨に応える。
 西洋の伝道団は、当地にやってくると、彼らが開拓し改宗させた僕たちに、衣服を着なければならない、と強いた。意図されたものではなかったにせよ、この規制には、耳を自分自身に向けさせ、森から遠ざける効果があった。それは植物や動物たちとの、音を通したつながりの扉をいくばくか閉ざさせることでもあったのだ。
 ワオラニという現地の部族の人たちと話してみると、ほとんど例外なく、街に行くときに衣服を身につけねばならないことの居心地の悪さや窮屈さをこちらから聞くまでもなく彼らのほうから語ってくれる。ワオラニの人々は何千年も森で生きてきたが、いまその生活や文化が、外部の者たちに脅かされている。そんななか衣服は、何重もの意味で重荷になっているのだ。重荷となるわけのひとつには、音で成るコミュニティとの断絶があるのではないかと思われる。それは多種多様な生き物たちとの関係のなかで生きている人々にとっては重大な損失なのだ。工場労働者が機械音で難聴になるように、衣服を着こんでいる者は時としてそれだけで聞く力を殺がれる。

<P.25-P.26>





[*注3]
 それぞれに必要な「自立時間」は、パーソナル(ス)ペースのひとつ、と捉えることもできそうです。




 ARTという語は、インド・ヨーロッパ祖語のar-を源に持つそうです。
 その意味は、“to fit together”。

 し合わす
 さまざまな異なる舞台上のピースが “しあわす” ためのものとしての アート。
 さまざまな異なる舞台上のピースと 自然に “しあわせられる” 細胞外マトリックスのような場をリンクするものとしての アート。
 すべての人がもつ生命の流れに直接触れるものとしての アート。
 すべての人たちがもつ宇宙の流れに直接触れるものとしての アート。
 そういった種のアート/表現が、さまざまな異なるピース/宇宙が しあわす際に生じるであろう歪みを 自然な形で解消してくれるような気がするのです。
 ここで、人類学者の長谷川真理子さんが 言語の進化についての講演で「ヒトだけが世界を描写する」とおっしゃっていたのが思い出されます。他の霊長類は言葉を使えるようになっても積極的に使おうとしないし、使ったとしても 「バナナが欲しい」といった自分の要求を伝える手段に限定されるけれど、ヒトはどんなに幼くても積極的にしゃべるし 「この花きれいだね」というような 生存に関係しない“世界の描写”をする、のだと。世界を描写するとは、自分が知覚したもの すなわち自分の内なる世界/宇宙を 表にあらわすことです。それは、どこまで意図されるかは別にして 自分の世界/宇宙を他者と分かち合おうとすること、です。
 「分かち合う」という ホモ・サピエンスに特徴的な振る舞いもまた、さまざまな異なる舞台上のピースを 自然につないでいく営み、なのかも知れません。《注》

 調和を意味する言葉そして音として、私たちは日本語に「和」「わ」「ワ」というコトバをもっています。「分かち合う」という言葉の最初の文字/音でもあります。
 言葉の大本には 発声音と体(ひいては感情や意識)の相互作用がある、と私は考えているのですが、その相互作用を考えるときに参考になるなぁと思っているのが (字源からさまざまな変遷を経て現在使用している形となった)アルファベットです。
 すなわち、「わ」は「WA」。
 Wは二つのVが重なって(あるいは、二つのUが重なって)できた文字ですが、そのVはUやFと同じ原シナイ語のワウを起源としているそうです。音素記号であるがゆえに、個人的には、アルファベットの文字は(象形だった)字源から自由になり 音のイメージを表記する記号として洗練されていった印象を受けます。その立場から「WA」という文字を捉えると、下/内から突き抜けてor割けて[=VV/UU=W]突如として合わられるエネルギー[=A]、とういう状態が浮かんできます。まさに、驚いたときに発する「わっ!」という状態がふさわしい、そんな感じです。
 『アルファベットの事典』は、「V」の解釈として 老子の「埏埴以為器。当其無、有器之用。」(=粘土をこねて器をつくる。そこに何もない空の部分があるので、器としてのはたらきがある。)を引用し、UとVの形は「盃や鉢の形を思わせる。これらの物の機能は、受けること、そして入れることである。Vは単語vagin(*vagina:膣)の頭文字であり、Uのほうは単語utérus(*uterus:子宮)に2度もあらわれる。」(P.130)とし、Wについては「WはMの上下を逆さにした形ににており、同じようにその形によって水の絵文字と結びつく。それにWはドイツ語のwasser(水)、英語のwater(水)、wet(濡れた、湿った)などの頭文字でもある。」(P.136)と記しています。
 「WA/わ」が水につながるイメージを内包しているのは すべて(の人)に通底している“流れ”と呼応するようで、興味深いです。そして「WA/わ」と発声すると 内から出現した/あらわれたものが周囲へ広がっていく(体)感があり、自分のこと そして自分たちのことを「わ」と発声するのも、そして調和すること しあわすことを「わ」と発声するのも、個人的には実感として理解できます。
 また、上下反転関係の形をした(=180度回転の対称性を持つ)「M」について 上掲の本は、「水と縁の深い文字Mは、象徴的な意味であらゆる物質的生命のみなもとであり、その音と、音のもたらす身体感覚によって、あらゆる精神的生命のみなもとでもある。Mはこれらの2側面をもつことで、身体と精神の完全な合一を実現しているようにみえる。」(P.96)と解釈します。「A」のように始まりの形から180度回転したり、「H」のように90度回転したりするなど、アルファベットにおける回転対称性は 共通するものを有しているように思える私は、「WA/わ」と同じくらい「MA/ま」(=間→あわい→スペース/余/遊び/虚/空)というコトバに 調和や調整のはたらきを感じるのです。
 そしてまた、「わする」という言葉が 「和する」だけでなく「忘る」という意味を持つことも、興味深く思えるのです。

 Wという文字。記号。場、コトバ。
 最後に いささか唐突ではありますが、現在の数式で使われている「=」の代わりに 「W」を用いるのがより適切ではないだろうか、ということを記して、一旦の区切りといたします。





《注》
 私たちが世界を描写して他者に伝えようとするのは、「自分の描写を他者も理解しうるであろう」という前提があるからこそ。それは、必ずしも同じようには機能するわけではないけれど 相手もまた 自分と同様のつくりをしている、という前提があるから、もっというなら 命というものを(無条件に)信頼しているからではないでしょうか。




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