2. アイノコトバ 〜「あい/あう」ということ
自分にとって落ち着きの悪い言葉というものが いくつかあります。その一つが「愛」。「LOVE」や「AMOR」も 母語でないことも手伝ってか、「愛」と同じように 齟齬感や座りの悪さを覚えます。
ただ、「あい」とひらがなで表わし それを「あふ/あう」と一連のものとして捉えると、私は 全身を以って納得でき 非常に腑に落ちるのです。言語学的には認められないのかも知れませんし、それが意味するであろうと私が考えるものは 一般的な愛のイメージとは ずいぶん違ったものになりますけれど。
あふ/あう。
逢う、遭う、遇う、会う、合う。
何かと何かが であう。そのことが「あい」。
それが、好きでも 嫌いでも、快でも不快でも、安心でも 危険でも、関わりたくても 関わりたくなくても。「あう」ことによって様々な感情や諸々の変化が生じますが、それらは二の次 副産物のようなもので、大切なのは「あう」こと。それが「あい」。「あい」がうまくいけば 「仕合わせ」られて「幸せ」となります。うまく「あう」ことができなければ 「さようなら」と明らめる[=諦める]だけのこと。そのように捉えるとき、「あい」という言葉は 「さようなら」と同様に、諸々の感情に絡め取られ埋没してしまうことなく “己を未知なるものにひらいていきる”(流れのごとき)様相を帯びてきます。
この作品を描くとき「アイノコトバ 」を描いている認識はありませんでしたし、「アイノコトバ 」を選ぼうという気持ちもありませんでした。「いまの自分が欲している線を描きたい」というのが 梨世さんと出会うことになった動機でしたし、現在も梨世さんのところへ通っている原動力。私にとって「墨と筆で(字に仮託して)線を描く」ことは、その時の自分と出逢うためであり その時の世界と出遭ったり折り合ったりするためなのです。[*詳しくはこちらをどうぞ]
あうための 言葉。
あいの 言葉。
だから、私が描く文字は すべて「アイノコトバ 」。
なのです(笑)。
【余談1】
コトバという言葉も、私にとっては
「事場」
「異場」
「個と場」
というニュアンスを帯びており
非常に意義深く 大切な概念となっています。
【余談2】
「あい」を上記のように捉えるなら、「動的平衡」という言葉は「あい」の別称となり、まわりのものと相互作用しながら生きている全ての生命 そして その生きるというおこない、いや、この宇宙に存在する全て そして この宇宙のいとなみは、「あい」ということになりますね。
また、いま改めて 動的平衡という概念を日本で広めた福岡伸一さんの文章を読んでいて、「動的平衡」において オートファジー/自食作用や自己分解が重要かつ不可欠なように、「あい」には「さようなら」が重要かつ不可欠なんだろうなぁ、と思いました。
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