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 『未来のルーシー』の中で中沢新一さんが触れた “経済学者のハイエクと日本の霊長類研究の創始者として知られる今西錦司の対談” に興味を惹かれ、昨日 図書館から『自然・人類・文明』を借りてきました。今朝 掃除機をかけているときにちょっと息抜きしたくなって、その本の冒頭の、この対談のオブザーバーだった桑原武夫氏の「感想」を読んだのですが、その最後の部分に触発されるものがありました。


 博士は本年の晩秋にもまた来日されるという噂を聞いた。これが実現することを希望したい。ハイエク・今西対談はさまざまの示唆に富む興味深いものだが、両者の相互理解への努力にもかかわらず、歩み寄りはけっして容易なものではなかった。完全な意見の一致を要請することは無理ということであるかもしれないが、もう一度討論をかさねることは、少なくとも不一致の要因がどこにあるかがつきとめられ、そのつきとめの過程が、私たち読者にとっては新しい思想探求のきっかけとなりうるように思われる。討論の再開を希望する。 (一九七九年 八月末日)


 立場の異なるもの(たち)が「歩み寄ること」は望ましいこと。
 私たちはそう考えがちですが、本当にそうなのでしょうか。

 「歩み寄る」という言葉/言い様/概念は、それぞれの立ち“位置”に拠っています。でも、意識を向けるべきところは、位置ではなく、それぞれが立っている場の広がり というか 常に動きゆらいでいる(空)間、ではないかと思うのです。
 「歩み寄る」というあり方、意識の向け方は、それぞれが(たまたまその時)立っている位置を鮮明にし…というよりは固定しかねず、仮に「歩み寄る」ことができたとしても それは それぞれが異なっていた地平においてであって、本当の解決は 問題が提示されあらわれている地平とは別の地平/捉え方にあると 常々思っている私は、そんな「歩み寄り」にはあまり関心がもてません。

 互いの立っている場所から 相手の立っている場所をなるべく広い空間の中で眺めながら、それぞれの考えや思いを伝え合い、その伝え合う波によって互いのあいだに広がる空間や互いを含む場が動き変わっていくのを体感し そしてそのなかで動き変わっていく(であろう)自らを感じる。それは、それぞれが自らを伝えることで 場の重力のようなものが動き 空間のありようが変わる、といったようなもので、場合によっては 結果的に傍目には(立ち位置が近づいて)「歩み寄った」ように見えるかもしれませんが 多分それは重要ではありません。

 …と ここまで書いて、『未来のルーシー』のある箇所を思い出しました。


中沢 響きを聞くんですね。蜘蛛の糸でできた世界みたいなものですね。

山極 そして最終決断しない。これが京都人の生き方です。私も京都の町家に住み始めてから、町会長をやらされたりして地区の集まりなどに出るのですが、絶対に決定しない。決定しようとすると邪魔が入る。「ちょっと待て。まだ全体のかたちができていない」と。誰かが何かを言い出したら、その人をリーダーにして周りがフォローしようという考え方を絶対しないのです。みんながいろいろ言いあいながら、絡みあいがきちんと見えていかないとあかん、みたいな感じです。

中沢 アメリカ先住民や縄文人の集会も、そんな具合だったと思います。何の結論も出さないけれど、それでいて全体の編み目は変化していくわけですね。今西さんの進化論では、なぜ進化するのかというと、適者生存だからではなく、何となく変わっていくのだという言い方をしたりしますよね。何となく変わっていくというのは、まさに今おっしゃったような、変わるべくして変わるということです。こっちの方向に行こうとか、因果関係でこっちのほうに進化していったのだ、ということは言えない。そういう進化ですね。
<P.119-P.120/下線は当ブログ筆者によるもの> 



 それゆえに、安易に「理解」や「同意」や「同調」や「フォロー」することも またさせることも、避けたいものであり、(特定の相手に、ではなく)“間”にはたらきかけることで全体の空間(の編み目)が自然に変わり そのなかで自らが変わっていくことを「待つ」ゆとりや間を持つことこそが 大切だと考えます。

 いま これを書きながら、ずっと不思議だったことの絡まりが少しほぐれてきました。
 ずっと不思議だったこと。
 ある番組で ジャレド・ダイヤモンド博士が、ヒトの手足は失ったら(トカゲの尻尾のように)生えてこないのは “手足を失った個体が生き延びる可能性”が“再生するために費やすエネルギー”に見合わないから、というようなことを話していたように記憶しています。それは一つの見解に過ぎませんが、もし生命というものがそういう振る舞いをするのであれば 初めから重篤なハンディを持った生命をこの世に送り出すのは不思議です。それは、私たちからすれば重篤なハンディであっても 生命からすれば 生き延びる可能性があると判断したものなのかもしれない。その個体が生まれ出た社会に生きるヒトに その個体の可能性を託す、ということも含めて。…そんなことを考えたりしていました。
 でもたぶん 不思議でもなんでもないのでしょう。
 私たちが生きる(世界/宇宙)全体の編み目が たまたま そう である、そう であった、ということ。に過ぎないのでしょう。
 それは、枯葉剤などが原因のハンディが「そう である」から そのままでいい、ということではなく、「そう である」ところから 人々が望ましいように動くことで 全体の編み目は変わっていく。「どう」なっていくのかは定かではないけれど、それぞれが それぞれにとって正直なところから 社会へ 全体へ 伝える。そうやって 結果的にたぶんそれぞれにとって納得できる/腑に落ちるありようへと 自然に変わっていくのではないでしょうか。

 この数年 半世紀のあいだにため込んだ体の歪み(の編み目)をほどきつつ なんどもなんども実感するのは、体 つまりは 生物、生命は、その場のバランスを(たぶん最良に)保ちつつゆっくりと変わっていくものだ、ということです。速さ/早さを求め良しとするのは 体から切り離されて暴走する脳なのだ、ということです。全体から(つまりは、世界/宇宙から)切り離された脳は 時空の豊かさ(つまりは、この宇宙の豊かさ)を感受できないがために 待つことができません。
 そんな「切り離された脳」がつくりだした現在の社会は、いま、生命と非生命のあわいに“位置”づけられるウイルスによって (少なくとも農耕牧畜を始めて以降)ため込んできたであろう様々な歪みを露呈しています。

 新型コロナの終息がまだ見えないいま思うのは、パンデミックに際しては迅速な対応が不可欠であることは言うまでもないものの、ヒトの健康や生命を脅かす細菌・ウイルスへの長期的かつ包括的な対応の一つとして、「撲滅」や「闘い」というそれぞれの立ち位置に基づくアプローチではなく 両者を含む“相互作用しあう全体的な間”へアプローチする研究が始まってほしいということです。
 それは、感染症についてだけではなく (家畜や作物も含めた)生物の病というものについても 願うことであります。「撲滅」や「闘い」のアプローチの結果、現存する抗生物質がまったく効かない耐性菌が生まれています。抹殺しようとされれば 命は その“編み目”のバランスの中で生き延びる方策を模索します。開発当初は劇的な効果があった農薬が やがては効かなくなるのも、道理です。「立ち位置」や「(離散した)個(体)」による認識・対応だけでは 私たちが生きるこの世界を捉えることはできないのです。




<ほとんどを7月2日に書き、7月6日に書き終えました>
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