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今まとめている文章を受けて、
数学のゼミの課題として7月にまとめた文章を
先にアップしておくことにしました。


その課題とは、


  自分にとっての「感覚や思考を調整する風景」を見つけてみて下さい。
  写真、絵、言葉、音など 自由にその風景を表現した上で、
  その風景の中のどこに
  action、perception、understanding、imaginationがあるかを
  考えてみて下さい。


というものでした。

数学において 直線と平面の濃度が等しいことが証明されている、

ということを初めて聞いた時は 耳を疑いました。

なにしろ 直線上の点と平面上の点の濃度が同じ、というのですから…。

   集合論では、

   二つの集合の間に一対一対応がつくれる場合

   「濃度が等しい」と表現します。

驚きはそこに留まらず、それを展開していくと 一対一対応は どんどん次元を超えてゆき、何次元であっても濃度は等しくなるというのです。それを証明した数学者・カントールですら「私は見た。しかし信じられない」と言ったとか。


   その証明については

   『無限論の教室』の「第四週」(P.40~P.57)や
   ウェブ上の情報をご参照下さい。

この証明は「あまりにも直感に反する」と書いてある方もいるのですが、私はこの証明を知った時 自分の直観と合致していたので 驚くと同時に非常に嬉しく思いました。マクロコスモスとミクロコスモスは照応している という、私自身の実感/実観であり 一部では自明のこととして伝えられてきたことが、数学的に証明されたと考えられるからです。それまでぼんやりとしていた風景が 途端にクリアになったような気がしました。

数学の専門家ではないので 素人の勝手読みになる危険を承知しつつ書くなら、

そのことは、ミクロコスモスとしての人に 現時点では最高11次元が想定されている宇宙をうつすことができることを意味します。

「人の場」が「宇宙の場」となりうるのです。

直線と平面が決して同じものではないように、人と宇宙が同じであると言うわけではありません。こんな小さな私であっても そのちっぽけな「私の場」で宇宙のなんたるかを知り体験することができる、ということです。

更に想像を広げていけば、私の場における「直線」は 宇宙と一対一対応をつくれる、ということにもなっていきます。その “私の場における「直線」”として現在想定し得るのは、身体を縦に貫く 芯/軸としての直線です。

わたしの「しん」と宇宙を接続することができる…

のかもしれません

そのためには

わたしの場をクリアにしておく必要がありそうです。

   ある方が 人間は底のない筒の状態で生まれたのではないだろうか、

   と話していましたが、私も 同感です。

   ひとの場は、

   詰まりのない筒抜けの状態 パイプのような状態が

   本来の姿であるように観じます。

   それは 「ひと」という直線…

   しかし 様々な理由から

   私たちはパイプを詰まらせていきます。

   それを取り除きながら

   私たちは 何かを学び 知り そして手放しながら

   少しずつ宇宙に出逢ってゆくのでしょう。

わたしの場が軽くクリアになっていくに従って

徐々に広がっていく宇宙とのパイプ。

それによって自分の内側にもたらされる あらたな世界のけしき。

広がり変わり続ける「けしき」を

自らのコトバで表現し伝え合うことで

「世界」はよりそのカタチをあらわし

「世界」はより豊かになっていくような気がします。

まるで 「ひと」という線の糸によって

織り成す布のように…



compute(計算する)という単語は、「共に」を意味するcomと「木の剪定」を意味するラテン語のputareに由来するputeによってつくられています。「木を剪定する」とは「かたどる」ことだからでしょうか ひいては「考える」ことを意味するようになったようです。ですから、com-putareとは 「共に考える」という意味に取ることができます。

あるいは comは意味を強める接頭語でもあるので、com-putareは「徹底して考える」と解釈することもできます。徹底して考えるとは 使える限りのものを使って最大限考えることですから、「共に考える」ことにつながってくるのではないでしょうか。

…と、ここまで書いたところで ある女性ワイン醸造家の記事を読みました。

ワインの生産者のもとで短期間収穫などを体験しただけで その作り手に「ワインをつくってみたら」と勧められ ほとんど経験のないまま「直観」に従ってワインづくりを始めたのだそうです。(以下はその文章からの引用です)

   畑での栽培、醸造など全ての工程で自分の感性を大切にし、

   剪定から耕転、除草など作業のタイミングや方法は、

   畑の声に耳を傾けて行なうと言います。

   醸造においても一貫してブドウのポテンシャルを自然な形で

   最大限に引き出す事のみに注力しており、特別な介入を行ないません。

   エネルギーに満ちたブドウを収穫し、

   そのブドウがワインに進化していくプロセスを信じて待つ。


そんなスタイルでワインを作る彼女は
畑での時間を特に大切にしていると言います。

   自分一人で畑に立ち、

   ブドウ樹一本一本と向き合いながら作業をする剪定が

   最も幸せを感じる瞬間であると言い、
   常にブドウの声に耳を傾けています。

私はこの文章を読んだときに、「剪定」つまり「putare」が意味するところを知ったような気がしたのでした。



   あいたいするものに真摯に向き合い

   その声を聞いて

   いきるように ものかたる



この意味における「putare」には
既に「com」(*「共に」という意味であれ 強意であれ)が含まれています。

そう知れば、computare/compute/計算する とは、
なんと無限の可能性に満ちた ワクワクすることなのでしょう。

自らの小さな脳に 無限の世界を接続していく、こととも言えます。

また、日本語の「かんがえる」という言葉も、

computareに通じる なかなか味わい深いものがあるように思えるのです。



   かんがえる

   観・変える/交える・・・視点

   間・変える/交える・・・層/相

   感・変える/交える・・・感性 感覚

   関・変える/交える・・・関係性


いずれの意味においても 閉じた世界だけで達成できる事ではありません。

computareと同じく 自らを世界にひらいていくことが 暗に含まれています。





「数学(mathematica)」とは
既に知っていることを
発見する
そのために
かんがえる
かんがえるとは
自分と世界との相互作用であり恊働作業
自分と世界の
間に 境に
たちあわられるもの
その「あわい」にいきること




これから 「かんがえる」ことを はじめます


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