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いま考えていることのメモとして、
友人に宛てたメールをアップしておきます。
[一部修正あり]


***


こんにちは♪
昨日は 朝起きて窓を開けたら 冬の匂いが流れ込んできて
遅まきながら、「あぁ〜 冬になったなぁ」と しみじみ実感しました。

私の体の不調[注1]は どうも更年期障害が主たる原因のようで、
閉経してからなるものと思い込んでいた私は 自分には縁のない症状と思っていましたが、調べてみると かなり重なるものがあり…、そういうお年頃になったのだなぁ と これまたしみじみしているこのところです(笑)。

一日中横になっていた日の夜、ちょうどプレゼントされていた 女性の体をサポートするドリンクがあったことを思い出して試してみたところ、翌朝には 普通に日常生活を送れるぐらいに回復したので、しばらくそのドリンクを試して 様子を見てみようと思っています。

<再構築>[注2]ってことに関して
そのドリンクのパンフレットにね こんなことが書かれてありました。


  子宮は、人を宿し育てるために、毎月その準備を行います。
  これが崩壊し、新たな準備のために月経があります。
  子宮は、人が形を得るために大地の母性を満たして育む館ですから、
  女性は本来月経や更年期に不快を伴う存在ではなく、
  毎月母性の神秘が巡って
  さらに美しく変身できる神秘的な存在なのです。
  (略)
  女性は毎月
  優しさと美しさを手に入れる神秘の仕組みが約束されているのに、

  現実的には、
  様々な不快を体験する人が多く、
  肌や髪質や体形にも悩みが生まれます。




「生理の時は 排毒期間」と よく言われます。
経験上、感情や意識の面でも 排毒するのに適当な期間だな、と思っています。でも 考えてみれば 生理期間に限らず、日々私たちの体の細胞は生まれ変わっていて 常に再構築されているわけで。このシステムは とってもありがたいなぁと、つくづく思う次第です。

「厳密な定義」[注3]って 細胞や体で言えば
何も出入りできない細胞膜や表皮でその場を覆うようなもの。
そんなことをしたら 細胞や体は死んでしまいます。。。
自分という場を 境界線などを使いながら(笑) その時々や場や環境に応じて再構築しつつ 良い加減にあいまいな存在が私たちであり、そんなあり方がいいんじゃないのかなぁ〜 なんて思っているところです。
言葉というものを完全に否定した時期もあった私ですが(*文章なんて二度と書かない!と思ってました。笑)、言葉も そんな風に使えたらいいな と思っています。

「あいまい」って 見方を変えれば「余裕」であったり 「隙間」であったり 「スペース」であったりしますよね。ユーモアっていう遊び心も そんな「あいまいさ」と通じるものがあるように思います。「ゆるさ」とも 言えるかな。あいまいだから 常に自らを書き換え 再構築することができるのではないのかな、と。

…ということで
この冬は 「更年期のお年頃」という絶好の機会(?)を使って
自分らしく 美しくなってやろうじゃないの
って気分になっているところです。

あ、でも 春になって会った時に何も変わってなくても
何事もなかったかのようにスルーしてくださいね。



★余談:人は 痛みの回路を使いまわして「共感」という感情を持つようになったと 昨夏読んだ脳についての本に書かれてありました。思考の途中経過は思いっきり省きますが(*すまん…)、それとは別に 悦び[注4]の回路(*ホルモンでいうと オキシトシンとかセロトニンが活性化する回路。ドーパミンとかの快楽の回路じゃなくて。)を使った「共感」の回路が構築できれば けっこう人間関係や社会が変わるのではないかなぁと、昨日おもいつきました。
 これまた途中経過を省いて言えば(*再びスマン…)、今の人にとって (できれば他者との交わりの中で)“悦びつつ行うこと”を増やしていくことが大切なんじゃないか、と。それは 自分の感覚や自分自身を大切にすることとも つながってきます。

 …以上、昨日おもいついたことを この場を借りて文字化させていただきました。m(_ _)m



★他者の存在はありがたいです。
 二人に向けたメールだからこそ 文字化されること/文字化できること があるのですから。自分用に書き留めるだけだと こうはまとまりません。(えっ、まとまってないって…。汗)


@2015/11/28(土)


/////



[注1]ずっと「体の接続があちこち悪い というか、好意的に捉えれば 体が再構築されているような感じで、さまざまなピースがばらばらにとっちらかったまま ちぐはぐしていて、芯はとっても明瞭で元気なのだけれど なんとなくだるくて外に出るのが億劫という 冬ごもりなモード」にありました。この現象が顕著になったのが フランスでのテロがあった日です。倒れるんじゃないかとヒヤヒヤしながら外出していた先で 夕方に合流した家人からテロのことを知らされ、ちらりと共時性(*因果関係があるということではなく、時を同じくして起こった現象 という意味で)を感じたりもしたのでした(笑)。



[注2]友人の一人が 私の「体が再構築されているような感じ」という文章を受けて、季節だけではなく生理が来るたびに同じようなことを感じている、と記したことを指しています。



[注3]もう一人の友人が「言葉自体の厳密な定義をつきあわせるより、場の擦り合わせがここちいいな…」と書いたことを受けています。



[注4]「よろこび」をどういう漢字で現わそうかと考えて 字源を調べたら(*字源もいまひとつはっきしりしないようですが…)、他者からの働きかけに応じる意を持つ他の文字とは異なり 「悦」は内側からおのづから湧き出るもの との記述を見つけ、悦の字を採用しました。
今日届いた 自然栽培の野菜の荷に入っていた冊子の中の一文。


「自然栽培が今できているのは、慣行栽培(の経験)があったからだよ。
 (肥料を施しての)きゅうりの最大のパワーと姿を見てきたから、
 どうすればきゅうりが採れるのかっていうのがわかったんだよね」。
 自然栽培でのきゅうりの姿しか見たことがなければ、
 それ以上どんな風に手をかけていいのかわからなかったという。

 <文中最初の()内の言葉は、私が挿入したものです。>


自然というトータルな“アナログ”における 人の意識やはたらきや創造という“デジタル”の あり方の、あるいは 可能性や進む方向を発見し それを全体の中に改めて位置づける際の、ヒントとなるように思えます。




先日 後輩に送ったメールです。(一部修正あり)
いまかんがえていることの メモとして。


*****


Sくん


やっと返事がかけそうです(笑)。

いま、『生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像』という本を
読んでいます。

まだ途中なのですが、その本には
「地球の進化とは、地球の熱の放出による エントロピーの低下による構造の秩序化」であり、「生命の発生と生物進化は、地球のエントロピーの減少に応じた、地球軽元素の秩序化である」との説が記されています。

“生物と非生物の区別なく 変化を導く同じ要因がある”という考えは、
意識と物質ももとは同じという強い感覚を持ち続けてきた私には スッと腑に落ちます。

この説に拠った上で、
知ることや創造することを (いまだ現れていないものも含めた)多様なものを関連づけ構造化することと捉えるなら、カラダのことに限らず 様々なことを人が知りたいと思うその心/意識の働きは 自然なことと言えそうです。

好奇心や知りたいという気持ちに、目的はないのではないでしょうか。
「目的」というような意図や枠組みにはそぐわない しぜんなこころの/いのちの はたらき、なのでは。
 
だってそれは自分自身を知ることだから…


ヨガのようなボディ・メソッドも
奇跡のようなことを目指す カラダやスピリチュアルな能力開発も
意識が全てをコントロールできる/コントロールしようとする
というところから出発するなら、
マッドサイエンティストとなんら変わらないのではないでしょうか

「心を記述するのではなく
 心は心の理法に
 大自然は大自然の理法に任せて
 その心をもって 数学し続けることで わかっていく」
というようなことをおっしゃっています

「いまだ未知なるものの 一部である」
ということの自覚のなかで行うなら、
科学の探究も
精神の探究も
カラダの探究も
大きく間違うことはないでしょうし、
現在そのように分断されている これらの知が
融合されていくように思うのです

客観的な視点を失ったものは
バランスを崩します

証明できることだけしか見ないのも
感覚で捉えられることだけしか見ないのも
どちらも危険です

そういう意味では
私が触れてきた限られた範囲において ではありますが、
ヨガなどのボディ・メソッドもスピリチュアルなアプローチも
科学的な盲信と同じ範疇にあるように感じています
(まるで未知なるものを恐れているかのように感じることがあります。「未知」とは可能性であり伸び代だと思うのですが…。)

人類がどこに向かうのかは わかりません

それを決めるのは
いのちを体験することで(さまざまなことを)理解していく 私たちなのではないでしょうか



【補記】


コントロールや支配は、一見「エントロピーの低下による構造の秩序化」に適っているようですが、進化/いのちを ある固定した枠内に留めるものであるがゆえに それ以上の変化や秩序化や構造化を阻害し、結果的に ここでいう進化の流れに逆らうものとなります。

創造や思考が 高度な秩序化のいとなみであるとするなら、ヒトの可能性や創造性を育む社会をつくることが 進化/自然/宇宙の大きな流れに沿う、と言えそうです。(あくまで 冒頭で紹介した本の説に拠れば、ということですが。。。)
昨日 久しぶりに スティーブ・ジョブズ氏がスタンフォード大学の卒業式(2005年6月12日)で行なったスピーチのことを思い出し、知人に 私が感動した日本語訳を送ろうと ウェブで探したところ、「とても良いスピーチなので、全文を保存させてもらおう。」という前書きとともに保存されていた“溜池通信(2005年9月27日)で紹介された全文”を 発見することができました。

そのサイトもいつまで在るかわからないので、私も ここで、この とても良いスピーチの日本語訳を全文保存しておくことにいたします。



原文URL:
http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404



今年の夏は、池谷裕二さんの本を 何冊かまとめて図書館から借りてきて読んでいます。私が池谷さんの本を初めて読んだのは 数年前のこと。家人が借りていた 糸井重里さんとの対談『海馬』です。この本を読んで、年を取ることを かなり肯定的に捉えられるようになりました。

子どもの頃から 大人になることへのあこがれのようなものがあったからでしょうか、特にモデルとする人がいたわけではないのですが 年を取るということについて ずっと 楽観的なイメージを抱いてきました(*年を取ることに実感が持てなかった、ということもあるのでしょう)。子どもであることや若さに対する 特権的な意識はほとんどなく(*“甘え”は充分にありましたが…)、素敵な大人になりたい 素敵なおばあさんになりたい、つまりは いい年の取り方をしたい という気持ちが強かったように思えます。
それでも 年を重ねるにつれ 加齢に伴うさまざまな不具合について見聞きすることが増え、実際に自分の身体の動きの悪さを実感することも増え、生物としての機能は衰えていく一方 というイメージが拭えなかったのも事実です。

そんなとき『海馬』を読んで、減る一方だと思っていた脳の神経細胞は 年をとっても増え続けることができ(*すべてではなく 特定の箇所においてですが) 経験にともなって能力やはたらきを高めていくことができることを知り、ものすごく元気づけられ 未来がぱぁーっと開けたような気持ちになりました。


実はその時は 本の内容だけが印象に強く残り 著者である池谷さんの名前は 記憶に留まっていませんでした。そしてその後は たまに『海馬』のことを思い出すことはあったものの 脳についての本を読むことはなかったのですが、今年に入って身体に対する関心が再燃し 身体と脳の関わりが気になってきたことをきっかけに、たしか「内部モデル」についてネットで調べていたときだと思うのですが 池谷さんの本と再び出逢ったのです。

脳のクセを知ると、自分や他人の思い込みやその結果がもたらす意見の相違に対して 距離が置け かなり寛容になれるような気がします。
また、脳の最新の知見に触れると 年を取るのが楽しくなってきます。

いま言われているアンチエイジングとはまったく違う あらたな大人(あるいは成熟者)たちがうまれてくるような…。

どうも そのための主要な鍵(の一つ)は 身体のようです。

一回の通読では 内容を捉えきれないので(*脳は ゆっくり覚えていくものらしいので、それは理に適っているのです。笑)、ふたたび よみなおしながら 脳のスピードにあわせて ゆっくり消化し ゆっくり考えていきたいと思います。


 動物相手に実験しているとわかるんだけど、下等な動物ほど記憶が正確でね。つまり融通が利かない。しかも一回覚えた記憶はなかなか消えない。「雀百まで踊り忘れず」という言葉もあって、うわぁ、すごい記憶力だな…と、一瞬尊敬に近い気持ちも生まれるかもしれないけれど、そういう記憶は基本的に役に立たないと思ってもらったほうがいい。だって、応用が利かないんだから。
 記憶があいまいであることは応用という観点から重要なポイント。人間の脳では記憶はほかの動物に例を見ないほどあいまいでいい加減なんだけど、それこそが人間の臨機応変な適応力の源にもなっているわけだ。
 そのあいまい性を確保するために、脳は何をしているかというと、ものすごくゆっくり学習するようにしているんだよね。学習の速度がある程度遅いというのが重要なの、特徴を抽出するために。
 (略)
 もし、学習のスピードが速いと、表面に見えている浅い情報だけに振り回されてしまって、その奧にひそんでいるものが見えてこなくなっちゃうのね。
 みんな勉強してて、なかなか覚えられないな、と苦労することがあるかもしれないけれども、それはこの脳の作用の裏返しなんだよね。しょうがないんだ。ものごとの裏にひそんでいるルールを確実に抽出して学習するためには、学習スピードが遅いことが必須条件なんだ。そして繰り返し勉強することもまた必要なんだね。
 コンピュータはなかなかそういうのがむずかしい。そういうプログラムを組めば多少はできるんだけれども、相当凝ったプログラムを組まない限り、そんな学習はできないんだ。
 ともかく、表面に見えているものに振り回されないためには、学習のスピードの遅さがキーになる。ゆっくり覚えてはじめてルールの抽出ができる。つまり、授業で先生に「まだ覚えられないのか!」と怒られても、それは脳がそうなっているからしょうがないんだよね。これからは怒られても、そうやって先生に言い返せばいいからね。

(池谷裕二・著『進化しすぎた脳』P.192〜P.194)





【補記】

脳にとって「あいまいで いい加減な」記憶が重要であることを考えると、絶対音感といわれるものは 一時期(今でも?)もてはやされたような“素晴らしいもの”ではない、ことになりそうです。大橋力さんも『音と文明』の中で 「十二平均律が導き出した特異で深刻な現象」として 絶対音感に伴う問題を指摘されています。









ある漫画家の ある日のつぶやき



どこで自分がノリ出すかわからないのね。
何十年やってても。
言えるのはとにかく手を動かしていれば
どこかでスイッチが入るってことだ。
やり始めなければ何も始まんない。



「やっているうちにスイッチが入る」「スイッチを入れるために やり始める」のは、文章を書くことにおいても同じです。たぶん ヒトのおこないについて 言えることではないでしょうか。


いま読んでいる『単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義』には 「脳より身体の方が真実を知っている」ことが記されています。脳は、身体の反応を過去のデータに照らし合わせて いま自分がおかれている状況を捉え 意味づけし (自らの現状に安心していられるように 当面の状況をうまく説明できる)ものがたりをつくる、ようなのです。意識は 自分の取った行動を見て その根拠を説明する、ようなのです。そうやって ヒトのこころは つくられていくようです。

“意識では認識できていないのに身体はちゃんと反応している”ことを示している実験結果は 身体が思考の主たる場であるだろうと観じていた私にさえ(*Oリングテストやキネシオロジーなど 筋反射が(ある程度)機能することは了解しているにも関わらず) 大きな驚きと衝撃を与えます。

「シン-putare」は 脳科学の領域においては既に自明のことであったのですね。





【 し こ う 】


志向

始行

指向

思考

試行

思行

志行

至高
文字には 「シンボル(=象形)としての側面」(*実線の部分と 線によってくくられた間の部分。一種の構造・建築物ともいえます) 「音としての側面」(*音にリズムや抑揚も加わり それは身体にはたらきかけます) 「意味としての側面」(*抽象性。多層性・多次元性。アナログの領域から立ち上がるデジタルの領域)、があります。

身体が世界への扉であり 身体が思考を支えている、と認識している私は、そういう文字の特性を考えたとき 手で文字を書くことの意味は かなり大きいのではないかと観じるのです。さらに 発声しながら手書きすることがもたらし育むものは もっと大きいのではないか、と。

この文章はパソコン上で書いたものですが、その前段階として 思いついたり浮かんだりしたことがらを 紙に書き留める、という作業が存在しています。また、この文章は 声に出しながら書いたわけではありませんが、文字を書くとき 同時に頭の中で発音していますし、黙読して うまく内容を捉えきれなかったり何か流れが良くないと観じた箇所は 実際に声に出して読み上げます。すべてを頭で行なうより 身体全体をプロセスに組み込んだ方が より快適で よりスムーズに事が運ぶように、現時点では思えるのです。


昨秋 建築士の方や自動車会社に勤めていた方とのおしゃべりの中で、「コンピュータで設計するようになって 欠陥やミスが増えてきた」というお話がありました。これは統計的に裏付けのあることではないので その真偽は保留しておきますが、手描きの図面とコンピュータで描いた図面とでは 確かに何かが異なるような気がします。
興味深かったのは、「手描きの図面だと 上司や同僚などまわりの人が作成途中のものを(自然に)目にする機会があり その段階でミスに気がつくことがあるけれど、CADで描いているものは ファイルを開いて覗くことができないから 出来上がるまで他の人の目に触れることがない」という指摘でした。(身体が関わると 自ずからオープンになる/隙間ができる、ということなのかもしれません。)

画面上で線を描くこと と ペンを持って紙に線を引くこと では、明らかに 身(syn・シン)-putareの稼働状況が異なります。身体を使うことで/プロセスに所作を組み込むことで 身体が記憶したり保持しているデータや機能が発動し、シン-putareが活性化する、ように思えるのです。

そう認識するなら、多様な要素が組み込まれているプロセスの方が 身体やシン-putareのはたらきが大きい、と考えることができます。たとえば 本を読むということも、電磁波だけの回路を通じて電子書籍を読むことよりも、紙やインクや物質としての印字に触れる“紙媒体としての本”を読むことの方が、手触りや香りや材質といった多様な要素が含まれています。また 考えるにしても、人工的なものに囲まれた環境と 豊かな自然の中とでは そのプロセスに作用する要素の多様さは大きく異なります。ただ、多様な要素があることや 刺激が多いことが 一概に良いとは言えませんが…。


   シン-putareを経て
   シンプルな形としてあらわされたデジタル的なもの
   (*データや情報など)は、
   合理的な思考を強力に後押しし 容易にしてくれます



   デジタル(digital)の語源は ラテン語の「指(digitus)」。
   指で数をかぞえるところから
   離散的な数を意味にするようになったとのこと。

   このことを知ってから、
   指をデジタル 手のひらをアナログ
   と捉えることが増えました。

   その比喩を使うなら
   シン-putareは “手のひら”の領域のものとなります。

   手のひらがあるから指が動くわけですが、
   手のひらでは決してできない細かな作業を
   指によって行なうことができます。


   digitusという語が
   tell, say, point outを意味するdicereという語にも関係している、

   というのは
   それらの行為と数というものの本質的なつながりを
   観じさせてくれて 興味深いです。



「文字を書く」という 非常にシンプルな、ある意味では 包含される要素が乏しいと思われるそのおこないも、冒頭に記したように よくよく観れば 豊かな側面を備えているのでした。




アルファベットの字源についての本の中に、文字の象形を 身体の象形に対応させた記述があります。人によっては突飛に思われるかもしれないその内容は、少し前に読んだボディ・メソッドの本でも触れられていたことであり、発声によって身体へのはたらきかけができることを知っている私には ごく自然に受け入れられ 読み進めることができるものです。

そのボディ・メソッドの本によれば、「声を使って音を出すことは最古のセラピーのひとつとみなされていて、古代エジプトですでに行なわれて」いたとのこと。声の振動と身体の関係をよく観ていくなら、コトバの象形である文字と その音と 身体(のしくみ)には おそらくなんからの関係があると思われます。

ただ いまここでは 音の要素は除いて、上述のボディ・メソッドの本を参考に 文字(*母音)の象形と身体の象形を照らし合わせてみることにします。
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