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 母音は 体から流れ出すエネルギーの流れのカタ

 子音は 体から流れ出すエネルギーの構造のカタ、(この記事の冒頭で日野さんが語る)フィルターのようなもの



 今年の初めのテレビ番組で初めて知った 日野武道研究所を主催している日野晃さん。研究所のHPに、武神館宗家初見良昭さんから学ばれたことを記したページがありました。初見さんについては、日本に来た外国人旅行者に密着取材するテレビ番組に写る様子しか知りませんでしたが、その“武”の有り様に興味を持っていましたので、日野さんが綴るその内容には非常に触発されるものがありました。

 その一つが、「“居着くは死、居着かざるは生”の教え」の次のくだりです。


「初見先生、つかぬ事をうかがいますが、初見先生が師の高松先生の所に弟子入りされた時、高松先生からの洗礼に『痛い』とは、おっしゃらなかったのですか?」
「もちろん私も悲鳴を上げましたよ、高松先生は『初見はん、痛いのは生きてる証拠でっせ、いつまで痛いところに止まっているんや』と怒られたものです、本当に優しい先生でした」



 日野さんがここで語る「居着くは死、居着飾るは生」の心境には及びませんが、この5年ほど体の歪みを取り除きつつ体を整えている私が 現時点で得られている気づきと、重なるものがあったのでした。

 この5年、心というものがいかに体調に左右されるかということを嫌というほど身を以て気づかされてきました。体のつまりや歪みが取れてゆくにしたがって、それまで悩まされて自己嫌悪に陥っていた不快な感情や思いも 取れてゆくのです。
 意識や感情というものは、体で起こっていることを あるレベルでまとめて行動に結びつけやすくした情報だと思うので、その大元は いま体で起こっていること、体の状態、ということになります。もちろん、考え方や受け取り方が体に作用し その結果引き起こされる意識や感情もあるでしょうが、個人的な実感からは 圧倒的に体の状態の作用の方が大きいと考えています。

 ですから、体に負荷や痛みを感じた場合だけではなく 何か不快な感情や意識が生じたとき、体に意識を向けて こわばっているところを外していくようにすると、心身の不具合が減少…うまくいけばなくなってしまうのです。【注】 武術をやったことはありませんが、ある意味では 状況から技をかけられていて それを受けている、ように感じたりもします。


 「傷つくのは傷つく用意ができているから」。
 何年も前に聞いた言葉を 思い出します。

 いつまで痛いところにとどまっているんや


 生きること は すなわち 世界(から技)を受け 世界と出会っている、と言えるのかもしれません。







【注】
 臨床動作法という心身へのアプローチは、同じような理解に基づいていると思われます。






【追記(2021/04/03)】

『ゴリラの森、言葉の海』より、山極寿一さんの言葉[P.119-P.120]

「人間というのは進化の過程で森から出て行きましたが、森の中で適応した特徴を今も多く保有しています。森にいたころに何が一番重要かというと、突然現れたものにすぐに対処するということなんです。森の中では見通しが利かず、視界が狭くなります。すると、いきなり目の前に何かが飛び出してくることもある。あるいは歩いているとどんどん景色が変わっていく。それに対してすぐに反応しなくちゃいけない。これは頭で考えていては無理なんですよ。予測できませんから。人間の祖先が森から出てずいぶん長い時間が経っているから、二次元平面の中で遠くの相手との距離を測りながらいろんなことを予測して、という世界に慣れてしまっているけれど、我々の身体感覚というのは、まだある程度は森の中にいると思うんです。今では因果関係や論理的な構造に基づいて、近未来を予測しながら準備して何かを達成していくというやり方が尊ばれるけど、とっさに何かがばんばん目の前に浮かび上がってきて、それに対応しなければならないというほうが、生き生きしているという感覚が残っていると思います。自分が考えるというより周囲から考えさせられている。」




「あえいおう」という母音の
おとのながれ/うごき/はたらき
になぞらえるなら
いまは
「い」をへて「お」に向かっているところでしょうか


そして、「お(わり)」から「う(み)」へ


あらたな次元
あらたな地平
つむがれてゆく…







個々の現象を普遍へつなげる(こと) = みち[MITI]/道

  「現象」とは 環境/他との相互作用であり、
   編まれる うごき/なみ


  「みち」を求めるうごきは 一方向

  「普遍」は 例えるなら あらゆる数の最小公約数。
   つまり「1」であり「一」。
   次元でいうなら 一次元よりも低い「低/底 次元」。




その “おこなひ[行ない]” を修める(こと)
 = 修行
 = (普遍との/みちとの)あい


  行//あい としての、文化 社会 制度



普遍とつながった状態でおこなひができるありようが、無為自然

  「あい」から「あう」へ



不知の領域とのかかわりの中で存在する私たちにできるのは
「あい」に いくこと[行くこと/生くこと]
「あい」つづけること
「あい」しつづけること



これらすべては 「個」から出発している




「かんがえる」を “うごき”として捉えるなら
「かんがえる」は 体の使い方、であるから
体の状態はもちろんのこと
かんがえる際の 具体的な体の使い方が
かんがえる行為の内実に 深く関わってきます


ゆえに
(ロダンの「考える人」のように)
体を固くしたり
眉間にしわを寄せるような「かんがえる」はよろしくない、
と 思うのです


そしてまた、
さまざまなうごきへ柔軟に対応するには
ベースとなる体の しなやかさを担保する
fasciaや結合組織や細胞外マトリクスといった(膜的な)ものの状態が調っていることが、望まれます


“体という場”の感受・知覚の一部が
あるレベル/そう(層、相、総、奏、創、装)において
まとまったものが、
感情
意識

体における
ある情報の 流れ/ネットワーク/からまり/重なり を 捉えたもの

(それぞれは 異なる“宇宙/舞台”)



体という場が
(外部)環境と相互作用しバランスをとり動的平衡を保つ
ふるまい
の一部が、
思考


「うごき」[≒ふるまい、いとなみ]として 考える


さまざまな「うごき」のまとまりとしての 思考/かんがえる


「うごき」として思考があるなら
思考[=うごき]によって(だけでも)
環境/世界と作用しうる





【補記】

ことなる「うごき」「宇宙/舞台」が作用しあえるのは、
それらすべてが「一」(の場)に かか(わ)っている から
であり、
その「一」は 不知の「無」「闇」(の領域)にうかんでいて、
「一」(の場)にもとづく 平衡状態を
私たちはゼロ/0/zero/零と呼んでいる

「一」と“不知の領域”の あわい もまた、
ゼロ/0/zero/零と呼ばれていると思われ、
それもまた 平衡状態 をあらわしている。だろう


「一[ひとつ]」(の場)から 「1[いち]」がうまれ
「1」からあらゆる数がうまれる



「一」は、
レンマ的領域であり
あらゆるものが かか(わ)っている 網/編み(目)/織り
として 現時点のヒトは認識し得ている




































































重なり合うには
重ね合わせには

間/ま/MA



要る




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