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 先ほどアップした記事に、「武」や「舞」は “世界のバランス・動的平衡を探り求めるうごき”と書きました。
 そして、後半のほうの()内で、“私たちが認識できる現象に 私たちが認識できない領域も関わっているとするなら、私たちが認識しうるバランスや動的平衡といった現象など 実際に起こっている現象のほんの一部であるかもしれません。”とも書きました。

 また、ツイッターでは、「反転した認知」から想起した“対象化”というコトバについて、

 対象化することで、私たちは多くのものことを認識することができています。が、対象化することで、実在している“つながり”が断ち切られ 認識から消えてしまいます。
 対象化とは鏡像であり、向かい合うありよう。対立するありよう。
 同じ方向を向いたありようとして、認識することはできないのでしょうか。同じ流れをいくもの同士として認識し合うことはできないものでしょうか。そのような認知・認知にもとづく科学、ができないものでしょうか。

とつぶやきました。

 ブログの記事とつぶやきの内容は ひとつならりの思考にあります。

 ある現象に遇したとき、その捉え方や認識あるいは対応が 不知の領域も含めた全体(の現象)の流れに適っているかどうか。その判断基準の一つとして考えられるのは、
 自らの捉え方や認識あるいは対応が エネルギーの流れを停滞させていないかどうか。
 自らの場のエネルギーand/or自らの場にやってきたエネルギーが 滑らかにうごき流れているかどうか。
 武術でいうところの「順」であるかどうか。
 集め固める「力」ではなく 流れていく「うごき」であるかどうか。
…ではないかと。

 苫米地さんが考案したベーシックインカムのシステム[*下に動画あり]は、お金というエネルギーを停滞させることなく常に人々の間・社会の間を流れるように設計されています。

 では、滑らかに流れているかどうかを、(不特定多数の)他者と共有するのにふさわしい「型」は どのようなものなのでしょうか?
 苫米地さんのベーシックインカム案が参考になりそうですが、今日のところはここまで。









 先日放映されたテレビ番組『明鏡止水〜武のKAMIWAZA〜』の「三の巻」と「四の巻」を観て、「武」というコトバの源を知りたくなり 漢字の語源ではいつもお世話になっているサイトで調べたところ、興味深いことが書かれていました。


 現代では藤堂明保が武の語源を解き明かした。藤堂は武のグループ幕(武・賦)、馬のグループ(馬・罵)、莫のグループ(莫・摸・募・驀など)、無のグループ(無・舞・撫)、巫のグループ(巫・誣)、明のグループ(明・盟・萌)、皿のグループ(皿・孟・猛)などを一つの単語家族にくくり、これらの語群はMAK・MAG・MANGという音形と、「探り求める」という基本義があるとした(『漢字語源辞典』)。
 武の根源にあるイメージは「無いものを求める」というイメージである。無いものを求めるためにがむしゃらに突き進む。


 武と舞はみなもとが同じ と感じていましたが、武と舞のコトバの祖音/語源が「MAK・MAG・MANG」であり 舞の訓読み[MAI・MAU]の音にその面影を大きく留めているのは おもしろい限りです。<参照:ツイッターでのつぶやき

 今日 上記のことをブログに書き留めるにあたって、以前どこかで「王朝を最初に開いた皇帝に武の名/諡が贈られ それを発展させた皇帝に文が贈られる」というような趣旨の記述を目にしたような記憶があり そのことも書き加えておこうと調べたのですが、見つけることができませんでした。が、その検索の過程で大紀元「一舞(武)両用の智慧」という記事に出逢いました。
 神韻芸術団のホームページより転載されたその文中に 次のようなくだりがあります。


この「一舞(武)両用」の中には、実は神の文化の博大な智慧を秘めています。道教の祖である老子は、「天下皆知美之爲美。斯惡已。皆知善之爲善。斯不善已。」と言いました。中国人の考え方には陰陽の概念があり。宇宙のすべてのものは相対的であり、陰と陽は共存し、物事には正と負、難と易、長と短などがあると考えています。これは道教思想における宇宙の運行の重要な法則です。もちろん、武術(舞踏)にも同じ原則が当てはまります。実際の戦闘に使われた武術は、暴力を止めさせたり、世の中を安定させたり、善良な人々を守ることができますが、武術という手段自体は、目的を達成するためには流血まで惜しなく[原文ママ]残酷で暴力的なものです。そこで、陰と陽を補うという宇宙的な法則に則って、舞踊が生まれました。舞踊は武術の出身ですが、柔らかな資質を持ち、善良さと美しさで観客を感動させることができます。兵事や武器を動かすことはないが、時に戦争よりも強大な力を発揮することができます。


 この文章の書き手は、武から舞が生まれたと捉えています。
 しかし、私には、上掲した「武」の原義から 藤堂明保さんが言う単語家族としての身体的うごきのコトバから「武」や「舞」などが生まれたと捉える方がしっくりきます。

 探り求める。うごき。

 何を?

 世界のバランスを。動的平衡を。

 2011年に縁あって第10回クイチャーフェスティバルのお手伝いをした時、担当作業の合間を縫って目にしたあるクイチャーが印象残っています。男性二人(か数人)が棒を持って地面を突く動作をしながら舞う姿です。この貴重な機会を提供してくれた宮古島出身の友人とは、武と舞は同源・同根という認識を共有しており、彼女もそのクイチャーが目に留まったようでした。
 大地という不知の領域につながる場を 棒で突き叩き、地上の世界に欠けているものを呼び起こしている。そんな行ないとして 私には観えたのです。
 この友人も私も、武も舞ももともとは神事であったと捉えています。

 神。
 このコトバの語源も非常に興味深いのです。


 神にどんなコアイメージがあるのか。
 古人は「神は申(伸びる)なり」「神は信(伸びる)なり」という語源意識を持っていた。稲妻は雨を予想させる。雨は植物の生長を予想させる。こんな連想から、植物を伸ばし生長させる不思議な力をもつ存在として神が捉えられた。


 現代において用いられる「神」というコトバには 数千年にわたった蓄積された人間の思いが積み重なっているため、個人的に あまり使いたくないコトバでした。しかし、この語源 このコアイメージに基づいてならば 抵抗なく使えそうです。
 話がやや逸れてしまいましたが、武や舞という行ないがはたらきかけていた先は この意味における神というもの。たぶん最初は、枝や石などの自然物をもちいて あるいは 身一つで、「MAK・MAG・MANG」するという 武と舞の前段階のうごきがあったのだと思います。その過程で、神を感受する体の 神や世界/宇宙への応答が、体の使い方を多様化させ、それがとなり 型となり、世界/宇宙への応答の延長線上に 対人の(平面的な)振る舞いとして 現在使われる意味での武力というものが派生してきたのではないでしょうか。そして、他者に対せず 天や世界や宇宙に対する(垂直的な)振る舞いとして 舞という括りがうまれたのではないでしょうか。


 話を 神韻芸術団の文章に戻しますと、ここに書かれてある陰陽のような「ものごとの二元的な捉え方」について ちょうど考えていたところでした。この記事では陰陽は宇宙普遍の理とされていますが、私は異なる立ち位置にいます。
 この記事では、引用している老子の言葉を その本質とは違う捉え方をしているように思えます。

 どうして ヒトは 二元的な捉え方をしてしまうのでしょうか?

 二項対立であれ 補完・相補的な関係であれ、私にはずっと違和感がつきまとっていました。
 
 平衡している状態から 何かが動けば、その動きに応じた動きがうまれます。“きっかけとなった動き”と“それによって引き起こされた動き”という捉え方をすれば 二つの存在として認識することはできます。しかしそれは、補完的なものでも ましてや対立するものでもなく、一つの流れ・現象を部分的に区切っただけのこと。(しかも、私たちが認識できる現象に 私たちが認識できない領域も関わっているとするなら《私はそう考えています》、私たちが認識しうるバランスや動的平衡といった現象など 実際に起こっている現象のほんの一部であるかもしれません。)また、往往にしてその区切りは、平面的になり 豊かな流れを無味乾燥な数学世界の線に置き換えるようなことになってしまいます。
 その要因の一つは、「意識」と私たちば呼ぶ現象が 電気信号に拠っていることが、おおきく関わっているように思われます。
 ある閾値を超えたところであらわれるもの。
 それは、神経系統に限らず、ヒトの知覚や感受といったシステムが採用している在り方です。
 つまりは、0と1。
 区切りをはさんだ、二つの領域。

 しかしその間には 感受できない“未知/不知の領域でのつながり”が存在しています。
 ヒトのシステムにおいて 「0と1に支配される意識」を未知/不知の領域にはしわたすのは「体」です。不知の領域を感受できないけれども存在していると予め了解しているであろう“体の領域”。そこから意識が気づき学ぶことは思いのほかたくさんあるはずです。

「体に対してのアプローチの仕方がそれぞれ違う。
 で、当然出てきているあらわれが違う。
 そういうところでね、体っていうもんて ほんとに不思議やな、
 というふうに思います。
 で、構成は一緒ですからね、みんな」

 冒頭の番組の「三の巻」の最後に 武道研究家の日野晃さんがそうおっしゃったことが、とても印象に残っています。

 体を使うように 意識を使っている、私たち。
 体の使い方に沿って 意識を使っている、私たち。

 以上のように捉えるなら、私がいま武術というものに観ている可能性は 武のおおもとのコトバを観ている、ということになりそうです。
 体の可能性が智の可能性、ひいてはヒトの可能性。
 そんなふうに思えてなりません。



 このツイートで語られている“貨幣としての生命エネルギー”は、4月10日にこのブログでアップした記事と重なります。
 前回の記事で紹介した動画で「ウイルス集合体/ウイルス叢は独自の生態系」という表現に出逢ったとき、これまで意識領域とか精神世界などと呼んでいたものが「意識の生態系」という言葉に収斂されました。

 この宇宙/世界に存在しているものは 原初の「(エネルギー)場の非対称な状態」が 様々に絡まり編み上げられた構造だと、私は認識しているのですが、その立場からすると 意識や精神というものもまたエネルギー構造の1つ、ということになります。そして、宇宙じゅうに星やら銀河団やら銀河など似たような構造が普遍に存在しているように、私たちが意識や精神として認識しているエネルギー構造もまた宇宙に普遍に存在していると考えることができます。ただ、その構造を“意識や精神と捉える私たちの認識”が普遍であるかどうかは分かりませんし、同じ構造に対して似たような解釈[*例えば、ある物語が「同じ内容」の「物語」として受け取られるかどうか]がなされるかどうかも不明です。

 以上のような観点から、冒頭にリンクしたツイートで語られているスピリチュアルや精神世界の領域でよく見られる物語は、意識の生態系のなかで生まれた(というか つくられた)腫瘍みたいなものだ、と私は捉えています。
 必要があってうまれつくられたものだと理解していますが、いまこのとき事ここに至っては、日野晃さんの表現を借りるなら、エネルギーの流れを大きく阻害するフィルターになっていると思われます。
 ヒトが、(日野晃さんが言うように)全存在で世界/宇宙/他者へ向き合い関わるなら、宇宙のエネルギーは(ヒトという場の構造によって自然に増幅されて)全方位に流れていくでしょう。エネルギーは、与えたり もらったり ましてや奪ったりするものではなく、自然に受け取り 自然に流れていくものだと思います。
 しかし残念ながら、「意識の生態系」から私たちの人間関係を眺めると、ほとんどが奪い奪われる関係になっているのではないでしょうか。

 私たちヒトは、宇宙の編み目、宇宙の生態系、のなかで「意識の生態系」を位置づけ直し、とりわけ命の生態系、体、との関わりを結び直す時期に来ているのだと思います。









 このテレグラム・チャンネルで昨日アップされた動画を観て、これまで考えてきたことや気になっていたこと...いろいろなことが「動的平衡」というところで つながってきました。
 この動画で語られていることは、自然栽培の在り方そのものですし、言葉や意識というものがウイルスと似ていると感じてきたことにも合点がいきました。
 いま 山際寿一さんの『父という余分なもの』を読みながら考えていたことなどとも合わせて、私(という場)の動的平衡が得られた時点で 文章にまとめたいと思っています。

 動画の発信元に掲載の許可をとっていないので、削除される可能性もあり、また 文字だけで読む方が理解できる場合もあるため、以下、日本語訳を書き起こしておきます。






<以下、動画の日本語訳です。(色による特定の文章の強調など)若干、個人的な判断で動画とは違う表記になっているところがあります。>


 ウイルスは、微生物叢[マイクロバイオーム/microbiome]に属すると、大きく間違って分類されました。

 微生物叢。
 これは明らかに2つの言葉からなり、最初の“微[マイクロ/micro]”は 小さな事を意味し、2つ目の“生物[biome]”は 生きた有機体組織を意味しますが、ウイルスは微生物叢に属さないことが分かりました。なぜなら、ウイルスは生きた有機体組織では無いからです。ウイルスは、エネルギーを生産することもなく、増殖することも出来ません。
ウイルスは、まさに遺伝子信号の小包[パッケージ/package]です。ウイルスはその中に、DNAを組み立てる酵素やその他の物を有しません。
 つまり、ウイルスはまさに、遺伝子情報の連絡網なのです。


 でも実際に微生物叢の定義を読むと、大抵の場合、ウイルスを含んでいます。そこで、なぜウイルスが含まれているのかって聞くと、とってもとっても小さいからです、と言います。
2つ目の言葉[生物]を外したんですね。まあウイルスはとてもとても小さいから、とにかくそう呼ぶべきですね。それは比較的些細な間違いに見えます。もっとも、バクテリアや壊疽[エソ]に関して発展してきた病原体論に基づく経験すべてを踏まえ、それをウイルスのような不生物に適用しない場合にのみ、些細なことでしょう。

 我々は、微生物叢の基盤全体を誤解してしまったのです。

 ウイルス集合体/ウイルス叢は、バクテリアや多細胞生物から生ずる遺伝子情報からなる独自の生態系です。
 我々がウイルスと呼ぶ遺伝子情報の少なくとも50%は、バクテリアから分泌されます。それらをバクテリアファージと呼びます。ウイルスと呼ぶ代わりにバクテリアファージと呼ぶのですが、バクテリアファージは、バクテリア間で遺伝子情報を組み立て、伝達、解読する方法で、バクテリア内に入って行き、そこでバクテリアが増殖することを選べば、増殖させ、より多くのファージを自然界[細胞外]に放出します。つまり、遺伝子信号を増幅することができるのです。

 興味深いことに、人間であろうがバクテリアであろうが、細胞には多数の管理機能が備わっていて、それによって、どのDNA、どのRNAが細胞の細胞質に侵入出来るかが決められ、また、どのDNA、RNAが、厳しく管理された生体機能に作用して、タンパク質を生産するとか、遺伝子を機能させるか否か、といったことをも決定します。
 つまり、これは厳しく管理された遺伝子アップデートの通信網です。
 ウイルスは、適応を達成するといったまさにその使命のもとに造られます。また、ウイルスが自然界に出て行って 他の遺伝子が常に行なっている同じことを繰り返すことはありません。つまり、同じことを繰り返すといった無駄な努力をしないのです。もし、遺伝子情報がすでに生物体に読み込まれていて、均衡・バランスが取れた状態であるならば。

 こういう訳で、我々は、同じウイルスを何度も繰り返し生産することはありません。
 我々は、ウイルスを取り入れて、しばらくの間それを増殖するでしょう。そして、そのウイルスの遺伝子情報をもっとも必要としている体の組織に持ち込みます。そうして、バランスのとれた状態に至ります。

 もし、特定の種類、系統のインフルエンザに罹ったら、その遺伝子配列全体を、体内でアップデートします。興味深いことに、DNAは常に修正されていることが今ではわかっています。
ヘルペス・ウイルスや慢性的なウイルス症状などは、それらの遺伝子情報がとって代わって遺伝子の長期保存器官に組み込まれたことの現われです。

 遺伝子配列によって解明された人の遺伝子情報は、その総量の50%はウイルスによって得られた物で構成されています。実際、10%の遺伝子情報はHIVのようなレトロ・ウイルスから直接組み込まれています。つまり、現在我々を人間とする遺伝子情報は、数十億年の道のり(のようなもの)で、それはウイルスによって組み込まれた遺伝子情報が複雑かつ知的に組み立てたモノの中に存在しています。これらのウイルス性の遺伝子要因がいかに重要であるかを強調したいと思います。
 これらは、「ああ、バイキンに晒されてしまった。誤って私の体内に持ち込んでしまった。何とか抑えておこう」といったものではありません。いいえ、これらは人間としての適応能力にとって一番肝心なことです。

 幹細胞の遺伝子情報がこの良い例です。
 何百年も前に受け入れた[感染した]レトロウイルスによる遺伝子の修正がなければ、幹細胞は、それらが肝臓や骨や腎臓の細胞に変化するといった分化能力を持ち得なかったのです。
 同じ事が、まさに最初の人類を生み出す胎盤を形成する仕組みにあるという、もっとも興味深い事実があります。胎盤は、その形成を調整するレトロウイルスやウイルスの情報遺伝子が必要だったのです。つまり、もし我々の遺伝子情報に対するウイルス生の修正がなければ、人間を生み出す生物的知性と適応能力を持ち得なかったのです。


 さて、いかにして、このコロナ禍においてこれほどまでに失敗したのでしょうか?
 地球上の命を生み出す、まさにその遺伝子信号を悪魔化する行為。
 残念ながら、我々はその行為を行なったのです。
 製薬会社やWHO[世界保健機関]とCDC[疾病予防管理センター]の機能の仕方が、遂に見せたその手の内を目の当たりにするのは、興味深いものでした。そしてこの計画全体は、数百万ドルのワクチン製造を狙ったもののようです。彼らには、いかにしてこのウイルスと均衡のとれた状態にするかを我々に示すという考慮が無いようでした。この均衡状態というのは、もちろん、これまで毎回コロナウイルスが発覚した際には起こったのです。

 SARS[重症急性呼吸器系症状]が自然終息、ワクチンの必要なし。
 2021年、MERS[中東呼吸器系症状]が自然終息、ワクチン無し。
 ワクチンは必要なかったのです。
 なぜなら、遺伝子的修正が行なわれたからです。
 ウイルスに晒された人々は、ホミオステイシス/均衡状態を発達させ、ウイルスによる修正をいかに取り入れるかを見つけ出し、そして、最終的にウイルスを発散しなくなります。(ウイルス=エクソソムを示唆) ウイルスを殺すことによってなされたのでは無いのです。我々は、ウイルスを殺す抗体が必要で、、、といった信仰を持っています。ウイルスを殺したりしません。最初から死んでいます。殺す必要など無いのです。
 やるべきことは、体の機能とその感度を良く保つことで、それによって、ウイルスが体内に入ってくるにつれて その遺伝子情報を増幅したり抑制したりして調節します。ウイルス群を微生物に属するという誤った解釈によって、これらの死んだ、無機質の遺伝子修正に、病原体理論が用いられたことを認識するのは、身が引き締まる思いです。
 我々は、科学的に、医学的に、そして政治的に重大な失敗を犯してしまいました。
「これは鼻に通る香りがするでしょ?
 こっちは鼻に抜けてく人工的な香りがするんですよね。」

「何の匂いがするか 無視してください。
 それ気にしだすとキリないですから。」


<下の動画の1:08 あたりから>





まとわりつく細かなものに気を取られず
より大枠の
より抽象な層でとらえる





True currency of the earth is not money, its Energy.
Energy is the currency of the universe.

When you "pay" attention to something, you buy that experience.
So when you allow your consciousness to focus on someone or something that annoys you,
you feed it your energy,
and it reciprocates with the experience of being annoyed.
Be selective in your focus
because your attention feeds the the energy of it and keeps it alives,
not just within you,
but in the collective consciousness as well.

<(アメリカ時間)4月9日にOFFICIAL CHARLIE WARD TELEGRAMへ投稿されたEmily Maroutianさんの文章>




現在の有力な宇宙論の仮説の一つであるインフレーション理論において
この宇宙は量子ゆらぎで始まった、
とされる。
ゆらぎとは 非対称な状態。
「量子」と私たちが認識できること自体、「量子」もまた非対称であり場のゆらぎである。
原初の非対称な “場の状態”、“エネルギーの状態”が
かかわりあって
からまりあって
編み上げられて
さまざまな現象 つまり 私たちが体験しているこの宇宙をつくっている。

この宇宙は
「(エネルギー)場の非対称な状態」の
さまざまな関係性/構造によってつくられている。

安定している状態とは 非対称な場が関係し合うことで平衡を保っている状態、と見ることができる。

違う見方をするなら、
あらゆるものは動きゆらいでいる(この)宇宙において
作用する動き/ゆらぎを 受け入れられ処理できる関係性/構造であるなら“安定している平衡状態”を保てるが、
作用する動き/ゆらぎが その関係性/構造の対応できる範囲を超えてしまった場合は“不安定な状態”や崩壊や混沌をもたらすことになる。


冒頭に引用した文章では
エネルギーを注ぎたくないことに注意を払わないよう
喚起しているが、
それは
現在の社会を生きにくいものにしているキャンセルカルチャーやポリティカルコレクトなどの根底にある「関係性の断絶」につながってくる。

「関係性の断絶」が豊かな社会をもたらすとは到底思えない。

これは、善悪二元論的な考え方であり、
それこそが現在のさまざまま問題の主たる要因だと考えられるし、
エネルギーのかかわりによって宇宙がつくられているのだとするなら
二元であれ三元であれ (そこに生じた)かかわりを分断したままで放置するのは、宇宙のあり方にそぐわない。

意識もまた 非対称の場/エネルギーがあみあげたものであり、
それは 他のものと同様に
宇宙のすべてと(自覚できるか否かに関わらず)かかわりあっている。

意識を
宇宙の営みから外れる「分断」に使うのではなく、
(もしそうしたとしても いずれは宇宙の営みに還元されるから 宇宙を巨視的に捉えた場合はどうでもいいこと、ではあるけれど、その場合 ヒトやその影響を受けるものたちは 宇宙の営みに還元される過程で大きな(関係性/構造の)崩壊を迎えることになるから、ヒトの一員である私としては避けたいと思っている。)
かかわり
あい
あらたな関係性/構造を
つくっていように
非対称の場/エネルギーを 使いたい。

このブログの《注3》で引用したように
攻撃とは「相手にバランスを求める」ということ。


(古)武術が伝えてきた大切なこと。

きちんと かかわる
ということ

かかわって
あらたな動的平衡状態
あらたな関係性/構造を つくること

あまりにも
分断してきたものの乖離が大きすぎて絶望的に思えるかもしれないけど
ヒトがつくったものなのだから
ヒトがあらためることはできるはず

それは
自分(たち)がかわっていくことでもあります





【補記】

payは 日本語で「買う」と訳すことができます。
「買う」は「かう」という音で、その音は「交う」と記すことができます。
「かかわる」と「交う」は近しい概念。


また、こちらのサイトの解説によれば、「」と「」は同じ行為[=状態]の異なる側面を表しているそうです。「měgという音」[*呉音でメ、漢音でバイ]がその行為/状態をあらわしていることになります。

買い手は自分にないものを売り手から求めようとする。
これに対して、売り手は求められるものを買い手に出す。

本文中に引用した
“攻撃とは「相手にバランスを求める」ということ”、という言葉を思い出します。

字源を見ると、売という文字は「買」に依拠しています。
買は「网+貝」。
「あみ」を意味する「网」は、「見えない」というイメージを内包するとのこと。

この字において財貨を表している「」のコアイメージは
「二つに分かれる、割れる」。
財貨を“宇宙の具象”と拡大解釈するなら
“(かつて分かたれた)見えないもの/見えない領域”のかかわり合いが宇宙(の具象)をつくっている、というイメージが浮かんできたりもします。





 前回のメモ記事を前提とするなら、
 私たちの存在を流れるエネルギーは 母音に拠っている。

 母音に乗ったエネルギーは、子音のフィルターを通過し、イメージとしてはトコロテンみたいに流れ出していく。


 すべての言語を 一定の条件下で 厳密に測定したわけではなく、あくまでも限られた個人的な体験でしかないのですが、“「子音+母音」のペアおよび「母音単体」の音で構成”されていない言語 つまり子音が複数連なることが常態化している言語は その使用者の体を内側に向かって硬くしていく、実感があります。つまり、その種の言語は体を硬直させ、体内の流れを滞らせる傾向が強いように思われるのです。

 もちろん、体を硬直化させ 体内の流れを滞らせる要因は、他にもいろいろありますし、言語を用いたり思考すること自体が 体を硬直化させる働きをしたりもします。

 流れを阻害しない(であろう)言語と考えられる日本語であっても、“そのように”意識して用いなければ 様々な環境によって硬直した体の影響の方が大きくて、せっかく言語が有している素晴らしい働きを発揮させることはできません。

 どんどんヒト(の心身すなわち体)と社会が硬直化し その自覚がないままでいくら思考してみても 人が生きやすい社会へ向かう手がかりを得ることはできないのではないか、と思うのです。

 まずは体の(こわばりや歪みなどの)フィルターを取り除き、自然な流れを取り戻し、それによってもたらさせる繊細な感受をもって 社会や環境のさまざまなものことを受け取り、より快適に生きられる状態をつくっていく…。
 たぶん、希望的観測も含めてですが、自然な感受 しなやかで繊細な感受を取り戻す過程において、「(子音+)母音」の音で構成される言語の可能性を実感し その真の力を発揮させることができるのではないかと、私は考えています。








【追記(2021/04/03)】


 言葉の網ですくい切れないものがあふれている世界に、つい最近まで人間は他の動物と一緒に暮らしていた。言葉に頼れば頼るほど、僕たちの世界はそれ以前に獲得した豊かな世界から離れていく。それは生物としての人間にとってあまりにももったいない損失なのではないか。しかし、長い進化の歴史を通じて鍛え上げてきた感性の中に言葉を調和させることで、より幸福な世界を手にすることができるのではないか。

<『ゴリラの森、言葉の海』より山極寿一さんの言葉(P.216)>


 感性と言葉をつなぐのが、体。
 それが得意な言語の一つが、日本語。だと、私は考えていますし、実感しています。






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